春の白昼夢
エルアインス
第一話 起編「華と僕」
起編「華と僕」
彼女は野に咲くバラのように、強く可憐でありながら、孤高だった。
まだほんのり冬の名残を残した風が吹いている二月の週初に、僕は学校から急いで家に帰ってから着替えもせず、スーツケースに荷物を入れて近隣にある病院の広場を歩いていた。
時刻はおよそ午後の三時を回ったくらいで、青空が未だ透き通った顔を覗かせている。
「重たいなぁ……」
荷物が重い。何も今日すべて持ってくる必要はなかったんじゃないだろうか。病院は近いんだから日を改めて持ってくればよかった。
後悔しながら引きずるスーツケースには、母さんのため適当に見繕った着替えや日用品、果てには暇つぶしのための本が所狭しと入っている。
ところで、どうして僕が病院に居るのか。理由は母さんが両足を骨折して入院したからだ。
家で電球を付け替える際に、足場にしていた脚立が倒れてしまって、たまたま倒れた場所が悪かったという不幸な偶然が幾つも重なった結果、母さんは両足を骨折して入院することになってしまった。
そんな経緯があって、僕は病院の敷地を歩いている。
ただ荷物を引きずっているだけでは手持ち無沙汰なため、広場を観察しながら進む。
ナースさんが車椅子を使って、老婆の介護をしていたり、リハビリのために歩いている人などが目立つけど、それ以外の人も散歩目的で大勢いるみたいだ。
リハビリしてる人、大変なんだろうな……頑張って。
応援しつつ、視線をさらに動かす。
この広場は、一種のアートみたいに木々が整理されていて、人の手が加えられているのだとはっきり分かる。
作り手の感性が出ているのか、優しげな雰囲気を従えているので、見ているだけでも心が安らげて、広場に人が多いのも頷けるものだ。
木々の間には色づき始めた花が植えられていて、春の到来を今か今かと待ち望んでいるようにも見える。
広場を楽しく見つつも、ずっと同じ景色を眺めながら歩くのは少し退屈なもので、広場に隣接する形で存在している入院者用の病棟に視線を移す。
いつ見ても真っ白な病棟は清潔感が漂っているけど、どこからか薬品の匂いが漂ってきているんじゃないかと錯覚させられる。病院のお世話になったことはないけど、なんとなく苦手意識というものが心の奥に存在していた。
「こんなところに毎日いたら、息がつまりそうだなぁ……」
何気なく呟く。
そよそよと頬に当たる風を気持ちよく受け流しながら病棟を見上げていたら、一室の窓から身を乗り出している女性を見つけた。少しでもバランスを崩したら、地面と挨拶する程度には体を突き出していて、とても危なっかしい。
もし落ちたら――そんな起こって欲しくもない思考を携えながら、思わず立ち止まってしまう。
「……」
口を半開きにして、思考の全てが女性に集中する。
言葉を忘れたように、失っていた。
僕と彼女の間を繋ぐ流れのように、風が吹く。
彼女は野に咲くバラのように、強く可憐でありながら、孤高に瞳の中で映った。
まるで、世界が僕と女性だけになったかのような現実感のないものに、支配される。
身を乗り出している心配なんて吹き飛ぶほど、綺麗な女性だ。
注意深く見れば見るほど、綺麗な女性だと本能が認識して、心臓の鼓動が一段と跳ね上がる。
春風にそよぐ長髪の黒髪はさらさらで、空気のように風の流れと一体化しているようにも思えた。
ここからでは顔の細部まで見えないものの、顔を形作る全てのパーツが、絶妙なまでにしっかりとしている、そんな女性だと確信できる。
そんな彼女は、なぜか空を恨めしそうに眺めていた。
その姿すらも、有名な画家が書いた絵画のように様になっていて、僕は思わず感嘆を漏す。
あんな綺麗な人が世の中にはいるのか。
しばらくの間、我も忘れて夢中で女性を眺め続けていたら、彼女は盛大にため息をつきながら窓の奥に引っ込んでしまった。
……。
「……はっ!? いけないいけない、母さんに荷物渡しにきたんだった。早くいかないと……」
僕はまじまじと女性を見てしまったことに反省して、入口間近まで来ていた入院者用の病棟に必要もないはずなのに、こそこそしながら走り込んだ。
忘れようとしながらも、なんとなく彼女が恨めかしくしていた光景を思い出してしまう。
「なんであんな、哀しそうな顔してたんだろう」
彼女が空を睨んでいる姿は、怒りより、深い哀しみに萎れているように感じられた。
……
…
「えーっと、102……ってここかな」
僕は母親から言われていた個室がある表札の前に立っていた。
表札には102と書かれていて、その下に母親の名前がでかでかと書かれている。
無意識に何度も視線を上下させて。確認し終えたあと頷く。
うん、間違いない。
確信を抱いて、扉を軽く右手で叩いた。扉を超えて、病室に乾いた音が伝わる。
「はーい、誰~?」
叩いてからワンテンポ遅れて、穏やかな返事が聞こえてくる。
まったく、母さんはいつものんびりしてるんだから……。
「僕だよ」
「あら、智ちゃん? どうしたの?」
まだ顔を合わせていないのに、ずっこけそうになる。
なんのために僕がスーツケースをパンパンにして、ここまで運んできた思ってるんだろう。
「母さんが荷物頼んだから持ってきたんだよ。開けていい?」
「……あ~! そういえばそうだったわね~、開けていいわよ~」
納得したように手を叩いたのだろうと思わせる乾いた音が、病室から響く。
本当に忘れていたっぽい。
のんびりするのは構わないけど、これじゃあ父さんが心配するのも頷ける。
僕の父さんは現在、僕たちを置いての海外出張中のため、まだ母さんが骨折したことを知らないはずだ。
もし知ったら仕事を放ってでも飛んで帰ってきそうだと思わせるくらいには、父さんと母さんは仲良しで、母さんは母さんで機械に不慣れだし、あとで僕が父さんにそれとなく起きた出来事を電話しておこう。
顔を伏せ、今後のことを考えながら、病室の扉を開ける。
「……それじゃあ、私は帰ります。お話、聞いてくれてありがとうございました」
「あら~、もっとゆっくりしていけばいいのにー」
母さんの甘ったるい穏やかな声と凛とした声が耳に入り込む。
もしかして、来客中だったのだろうか。
家に帰ってからしなければならないことのリストアップをやめて、顔をあげる。
まず視界に入ったのは、六畳程度の潔癖感を覚えるくらいに白さが蔓延した病室だった。ベッドや壁紙は白く、備え付けの黒いテレビが少し浮いているように感じられる。
誰と話してたんだろう?
周りから視線を外し、母さんと話していたらしい女性を視界に捉える。
そこで僕は先ほどと同じように、またも言葉を失った。
目の前に居た女性が、あまりに綺麗で僕の心を盗まれたように思えてしまったからだ。
心のない僕には、考えるなんて思考は存在しない。
風も吹いていないのに、彼女が動くだけで長髪は柔らかそうに空中へ浮かんで、さらっと零れ落ちる。
服装は白い長袖のワンピースのようなもので、病院という特殊な空間で、体のラインを隠すためか全体的にふわっとしていた。
母さんに喋りかけていたため、横を向いていた彼女の真っ黒な瞳が、僕を捕らえた。若干、僕のほうが背が低くて瞳が下を向いている。
何もかもつまらなさそうな、倦怠を抱えた瞳で思わず心配しそうになるのに、それですら彼女の美しさを強調させるひとつに過ぎないようだった。
雁字搦めにされているように、瞳以外から視線を動かすことができない。
心臓が刻む鼓動が、やけに大きく聞こえる。
気がつくと僕は彼女を見つめて、唾を飲み込んでいた。
「……」
「……」
「ふたりして見つめあっちゃって、どうしたの~?」
母さんに茶化されてか、先に瞳を逸らしたのは彼女のほうだった。
瞳が逸らされたことを残念だったとでも言うように、声が漏れ出そうになるけど喉の奥でしっかり抑える。
「いえ、なんでもないです。また来させてもらいます」
「ええ、いつでもいらっしゃい~」
「……はい。ありがとうございました」
彼女は無愛想ながらも柔らかな雰囲気を纏いながら母さんにお辞儀して、僕の隣を通り過ぎ、流れるように扉から出て行って、病室と廊下の隙間を閉めてしまう。
凄く綺麗な子だったとか、通り過ぎたときに花みたいな甘い匂いがしていたな……と必要のないことを連続して想像する。
「……」
「智ちゃ~ん、お母さんの声聞こえない~?」
僕が現実に引き戻されるのは、それから一分ぐらいしてからになる。
それと同時に、あの綺麗な女性は、外から病棟を見上げたときに窓から空を睨んでいた彼女だと気づいた。
……
…
現実に意識を戻した僕は、いそいそとスーツケースを開けて、中に何が入っているかベッドの上で動けない母さんのために説明する。
自分でもどうしてこんなに彼女が気になっているのか、わからない。だから彼女のことは、ひとまず脇に置いておこう。
「これが一週間の着替えで、こっちが日用品ね。暇つぶし用に本も持ってきたから読むといいよ」
「気が利いてるのねぇ~」
「あのね、母さんのことなんだからもっと真剣に聞いて――」
抜けた声で打たれる相槌に、一抹の不安を覚えつつ、つらつらと言葉を並べる。
その間も、僕は置いておこうとしていた彼女のことを思い出していた。
病院の窓から乗り出してまで空を見上げて睨むなんてこと、普通するだろうか。そんなことをしてしまう心境に至った過程では、心が裂けそうなくらい辛いことがあったんじゃないかと思ってしまう。
空を睨んでいた瞳から感じられたのは、憎しみでも、怒りでもなく、行き場のない哀しみを空に訴えかけているみたいだった。
彼女がどんな表情をして、現実離れした美しさをしていても、絶対に笑顔のほうが似合うだろうに……。
どうして、こんなにも彼女のことが気になるんだろう。ただ、見かけただけなのにな。
外のないトンネルに迷いこんでしまった思考が、深みへ嵌っていく。
僕は、どうしたいんだろう。
「……智ちゃん、考え事してるみたいだけど、どうかした?」
母さんに笑顔のまま指摘されて、我に返る。
どうやら、また意識が体から離れていたらしい。
くよくよしてるくらいなら、彼女のことを母さんに聞けばいいんだ。どうやら、僕が来るまでの数時間で仲良くなっていたようだし、そう、僕はただ聞くだけだ。
純粋に気になるだけ。逃げるみたいな理由を取ってつける。
ただ、一目見た人のことを真っ向で聞くのはさすがに恥ずかしいから、僕は自然と顔を俯かせてしまう。
「母さんは、さっきの女の子と知り合いなの?」
「ええ、知り合いよ~さっき知り合ったの。とっても良い子でね、北条 春華さんと言うのよ。春の華やかと書いて、春華」
「北条、春華さん……」
想像通りの名前に、髪の毛が風にそよいでいた彼女の姿が、思い浮かぶ。
名前も綺麗な人なんだな……。
「あら? 忘れ物かしら」
母さんは突然、何かに気づいたみたいで珍しく声をあげる。
「忘れ物?」
「これよ~」
ベッドに無造作に置いてある、表紙にバラの模様が描かれているメモ帳を、おっとり手にとって、僕に渡してくる。
それを反射的に受け取ってしまう。
母さんは僕が受け取ったのを確認すると、右手を頬にあてた。
「さっき春華ちゃんが忘れていったみたいだから、届けてもらえる?」
「えっ、い、いいけど……」
母さんに、彼女のことを考えていたのを言い当てられたような気がして、どもってしまう。
別にやましいことを考えていたわけじゃないんだけど、なんとなく背が冷えた。
そんな僕をよそに母さんは、左の壁に指を差して言う。
「春華ちゃんの部屋は、こっちよ~。隣だし、名前も書いてあると思うからすぐに分かると思うわ~。大事そうに持ってたものだから、すぐに返してあげて。何か困ってるかもしれないから~」
「うん、行ってくるよ」
僕は自分の鼓動を確かに感じながら、病室の扉を一目散に開けて、隣の病室に急いだ。
どうして走ってるんだろう……と思わなくもない。
でも駆け出した心は、止まることを知らないみたいだった。
……
…
特に距離が離れていたわけでもないのに、隣の病室に着いたときには呼吸が静かに荒くなっていた。まるで、授業中に先生に当てられたときみたいだ……。
落ち着け、落ち着け。
何度も自分の中で静寂を咀嚼しようとする。
その間にも、ここが北条 春華さんの部屋か瞳は確認していた。
母さんの名前と同じようにでかでかと書かれた文字は、確かに北条 春華と書かれている。
「ここで間違いない……けど緊張するなぁ……落ち着け、落ち着け……」
荒れた心臓を落ち着かせるために深呼吸しようとするけど、中から喧騒が聞こえてきた。
引き出しを開ける音や、足音がばたばたとリズムを刻む。
なにやってるんだろう……。
母さんは大事にしてるメモ帳らしいって言ってたし、すぐに届けたほうがいいよね。
「よしっいこうっ」
覚悟を決めるために、頬をぴしゃっと叩いて気合を入れる。
ただの女性に会いにいくのに、こんなに気合を入れている理由は僕にもわからないけど、なんとなくそうしないと一歩も前に出れない気がしたのだ。
できるだけ音を立てないように扉の取ってを掴んで、少しずつ引いていく。自然とそうしている自分がいた。
いやいや……開けるなら一気に引くべきだろう。
自分に突っ込みを入れながら、意を決して手を引いた。
「すいませーん!」
「っ!?」
やけくそ気味にでた僕の大声に、ベッドの下でしゃがみこんでいた彼女は肩を浮かせた。
し、しまった。
いくら緊張していたとはいえ、声が裏返るくらいに大声を出す必要はなかったじゃないか。
急いで、謝罪のために口を回す。
「ご、ごめんなさい。大声だして」
「驚いたけど、大丈夫よ。
……大声だしてまで、私に何のよう?」
僕に振り向きながら、彼女は立ち上がる。
室内の僅かな風にも踊る黒髪が、滑らかに動き、僕を捉えた。
そこで彼女は、疑問符を浮かべるように顔を傾かせる。
「あなた、確か見たことあるような……?
誰だっけ?」
おそらく、さっき母さんの病室で会ったことを示している言葉なんだろう。にしても、僕ってやっぱり記憶には残りにくい人間なんだろうか……。
若干そのことに傷つきながらも、答える。
「たぶん名前までは言ってないと思うんだけど……さっき、病室で会ったの覚えてないかな?」
彼女は僕の顔をまじまじと観察するように、前かがみになりながら唸った。
前かがみになると同時に、ふわっとしたワンピースの服が重力のせいで落ちて、首筋から胸元までが見えかける。
考えなしに、視線は開かれる体と服の間を追いかけていた。
長袖のワンピースからでは見えなかった、肌の色が続々と現れ始める。
肌は、外にあまりでていないことを表すように、病的なまでに白い。しかし、不健康そうに見えるわけではなく、ただ単純に誰もを綺麗だと思わせる真珠のような肌だった。
全てが露になる一歩手前で、僕の理性はハンドルを巧みに操作して、思考に急ブレーキをかける。
うわわっ! さすがに見ちゃダメだろう!
落ちていくそれに、僕は顔が茹ったタコみたいになるのを感じながら、疾風のようにそっぽを向いた。
「う~ん……確かに見たことあるはずなんだけど――って!」
何かに驚いたらしい彼女が発した声に、背筋が震える。
いや、違うんだ、胸元が見えかけたのはただの事故なんだよ、事故なんです。とっても綺麗な純白の肌だったし、全然誰にも見せて問題ないと思うんだけど、やっぱり誰にも見られないほうがいいし……。
などという、意味の分からない言葉を心が唱え始めてしまう。
そんな僕をよそに、彼女は僕が持っているメモ帳を執拗なまでに指差した。
「それ、そのメモ帳! どこで拾ったの!? 表の柄はどんなの!」
「えっ、あ、ああ、これ? これは――」
焦り急ぎながらも、表紙に描かれたバラの模様が分かりやすいように、両手でメモ帳を広げ、胸の前に差し出す。
メモ帳の表紙を相手に見せるということは、僕から中身が丸見えだということに、胸元が見えそうになっていた光景が今にも瞬きそうになる僕は気づいていなかった。
何気ない視線の先で、言葉を為した文字列が目に飛び込んでくる。
「んっ……? キ……ス?」
ポエムのような文字列が意味を為して並んでいる中で、キスという単語だけが頭の中で理解できた。
あーキスだよね。粘膜による接触……ってキス!?
認識した瞬間に、茹でた顔がさらに熱くなっていく。
なんでメモ帳にキスなんて書いてあるんだ!
そもそも彼女とキスなんて、そんな大それたことはできない!
自分自身が何を考えているか分からず、キスという単語だけで妄想に火がつき赤くなる僕に対して、彼女は顔を震わせながらリンゴみたいに頬を染めていく。
気づいたときには、必死さを思わせる真っ赤な彼女の顔が、僕の目の前に迫ってきていた。
「か、返して!」
綺麗に整った彼女のまつげが瞳の中で艶かしく映り、一瞬、頭の中が白紙になってしまう。
白紙になった頭は、次に目の前に女性が現れたと認識して、本能的に足を後ろへ下がらせようとするけど、急なことに足がもつれて、視界が上へ向いていく。
「ちょ、ちょっと!?」
「うわあっ!」
自分でも情けないと思う悲鳴と何かに右肩を引っ張られている感触と共に、僅かな痛みが背中を襲った。
衝撃の瞬間に思わず目を瞑ってしまうけど、何の意味もない。
「いたたっ……」
どうやら足がもつれたせいで、背中からコンクリートに倒れてしまったみたいだ。
コンクリートにぶつけたにしては、背中がそれほど痛くなく、瞑ってしまっていた目をすぐに開く。
そこにはまず、見ほれてしまうくらいに綺麗で透き通る黒い瞳があって、他人を気遣う不安げな表情を彼女はしていた。先ほどまで顔が真っ赤になっていた影響か、未だに顔が朱に染まっていた。
彼女は両手をコンクリートについているようで、僕に覆いかぶさるような形になっている。
桜色の小さな唇が、静かに音を刻む。
「えっと、あなた大丈夫?」
「う、うん、少し痛いけど大丈夫……」
「はぁ……よかった。後ろはコンクリートなんだから気をつけてよ」
安堵の息が、彼女の口から漏れる。
僕が倒れる寸前に、何かに引っ張られた感触があったけど、引っ張ってくれたのは彼女なのだろうか?
そんな考えをよそに、病室から通路の間で真横になっている僕たちの真上を車椅子が通り抜けた。
「おやおや、最近の子はお盛んだねぇ」
おばあさんの、のんびりとした一言に、僕たちは今どんな状態なのかを明確に自覚した。
ふたりで顔を見合わせて、先ほどと同じように顔を真っ赤にする。
他の人から見れば今の状況は、彼女が僕を押し倒したように見えるはずだ。
ふたりともリンゴみたいに真っ赤な顔をしているのだから尚更おかしく見える。
どうやら、僕たちのやりとりを見ていた人が他にもいたらしくて、若いナースさんが視界の端で暖かいものを見る目で微笑んでいたり、親子が僕たちを見て「ママーあれなにしてるのー?」「しっ見ちゃいけません!」なんて空想の世界でしか言わないようなことを口から漏らしていた。
それが体を動かす決定打になったらしく、彼女は目にも留まらない速さで立ち上がり、倒れたままの僕を病室の中に運び入れる。
それからすぐ、倒れた拍子に通路へ飛び出してしまったらしいメモ帳を拾って、病室の扉をそれはもう、勢いよく風を舞い起こしながら閉めて強引に静寂を取り戻させた。
……
…
それから僕は言われるがまま、説教されるのを待つような形で、丸イスに座らされていた。
彼女はベッドに戻り、掛け布団に足を滑り込ませて、上半身を僕に向けた。手には、表紙にバラが描かれたメモ帳を大事そうに持っている。
素早く動いたせいか、彼女は乱れる息を深呼吸して直しながら、不機嫌そうに言う。
「で」
「……で?」
反射的に、言葉を返してしまう。
目尻をあげて、睨まれてしまった。その姿もまた様になっているけど、息苦しい雰囲気が漂っていて、とてもじゃないが見惚れている余裕はない。
なんで僕はイスになんて座らされて、彼女から睨まれているんだろう……。
心当たりは当然あるんだけど、ここまで不機嫌にさせることを僕はしてしまったのだろうか。当然、メモ帳の中身は元から見るつもりはなかったし、ただの事故なんだけど、そんなことを言っても彼女は納得しないような気配があった。
「私のメモ帳見たでしょ……」
口を硬く結んで、彼女は消え入りそうな声で呟いた。そこには、どこか恥じらいの感情が含まれているような気がしたけど、不機嫌そうなことには変わりないので、僕の気のせいかな……。
まず初対面の人に慣れてなくて緊張したから焦っただとか、そんな僕自身の理由で大事なメモ帳の中身を見てしまったことは確かなんだから、謝るのが筋というものだろう。
彼女の顔を見ながら、気持ちが伝わるようにしっかりと頭を下げる。
「ごめん。本当は見るつもりなんてなかったんだ。ちょっと緊張してて……それで焦ってメモ帳の表紙を見せようとしたら見ちゃったんだ。それはすごく大事にしてたものだって母さんから聞いてたのに、勝手に見ちゃって本当にごめん」
「えっと……ううん、私が言いたいのはそういうことじゃないんだけど……」
「えっ……? 勝手に僕がメモ帳を見ちゃったから怒ってるんじゃないの」
「それはまぁ、メモ帳を見られたのは複雑な気持ちだけどね、気にしてない。 あなた、私にメモ帳を届けにきてくれたんでしょ? それなのに勝手に私が騒ぎ立てちゃったのがいけないから……」
彼女は自分の行いを反省するように項垂れて、手で大事そうにメモ帳を撫でる。
しばらく手持ち無沙汰のなんでもない時間が流れて、僕はこのまま帰っていいのだろうか、と考え始めた頃に、彼女はメモ帳を見つめたまま、か細い声を出した。
「その……どうだった?」
突然の質問に、思考がついていかない。
何に対してのどうだった、なのか。彼女の見えかけた胸元に対してどうだったという質問なら、雪のように肌白くて綺麗だったとしか答えられないし……ってそんな質問なわけないだろう。厄介なことになる思考は置いておいたほうがよさそうだ。
「なにがかな?」
「メモ帳のこと」
「メモ帳って……もしかしてキス?」
自分で言いながら、少し恥ずかしくなる。
「恥ずかしくなるから、あんまり言葉に出さないでっ!
よ、読んでみてどうだった?」
彼女のほうが背が高くて、僅かに僕を見下ろす形になっているはずなのに、僕を見上げていると思えるものが、彼女の朱に染まった顔からは感じられる。
そこには今まで僕が彼女から見てきた陰鬱な瞳とは、まったく種類の違う、期待感が込められている明朗な瞳がそこにはあった。
でも、僕はその期待には答えられそうにない。なにせ、僕がメモ帳を見て明確に覚えている文章は、『キス』という思春期男子みたいな単語だけなのだから。
「その……あのときは焦ってたから、内容なんて全然見てなくて、キスって単語しか覚えてないんだ」
僕が申し訳なく思いながら言うと、彼女は瞳萎れたように顔を下げて「そう」と呟いた。
とても残念そうに下げられた視線の先にあるメモ帳は、どこか哀しげだった。
メモ帳を見たときは必死に止めてきたのに、今はメモ帳に書かれているらしい文章の感想を聞こうとしている。
中身を見られたこと自体は恥ずかしいことだけど、それとは別に感想を聞きたかったということだろうか?
僕が読んでもいいものなら読んでみたいと思う。
彼女が項垂れている顔は見たくなくて、でも、もしそれが不要な提案だったら、と考えてしまう自分がいた。
ここで余計なことを言って拒否されてしまったら、僕は恥ずかしさに震えて、この場を潔く立ち去ってしまうだろう。
情けない考えだと思われるだろうけど、僕自身の性格は、僕が一番よく知っているからその選択を取ることが手に取るように分かる。
昔から、いつも自分に自信がなくて、誰かの後ろをおどおどとついていくだけで、結局自分のことを何一つ決められない、意気地なし、弱虫、臆病者、腰抜け……そんなものが長年生きてきて身についた、僕を構成する何重もの要素だ。
それは単純に心を守るため積み重ねられたもので、僕自身の心が弱いから処世術として勝手に組み立てられていた。
後悔という単語が頭によぎる。
もし、たら、れば……僕は生を受けて物心ついたときから後悔を続けていた。あのとき、こうしていれば……なんて生きていれば誰もが遭遇することだけど、僕は幾度となく後悔をしてきた。
重そうな荷物を持って止まっているおばあさんの代わりに荷物を持ってあげたり、学校で憂鬱そうに沈み込んでいる人に声をかけられたら……なんて些細なものばっかりだ。
僕はまた、ここで足踏みするんだろうか。
自分で決めて後悔のないようにできるのに、少し高いだけの壁に立ち止まっている。
ほんのちょっと勇気を出して、僕も読んでみたいと言うだけでいいんだ……たったそれだけのことなんだ。
考えているだけなのに、喉がからからに乾いて水を欲しがってしまう。
震える息を整えるために何度か深呼吸する。
その間に思い出されるのは、彼女が空を睨んでいる姿や、僕を捉えた倦怠感を抱える瞳……そしてさっき彼女が見せてくれた期待感を込めた綺麗な瞳だ。 もし僕がメモ帳を見ることで彼女の瞳が変わるのなら、勇気を踏み出すのも悪くない、そう思える。
よしっ。
意を決して、僕は緊張に震える声を出した。
「その……僕にメモ帳を、見せてくれないかな?」
「どうして……?」
覇気がなく、ゆっくりとあげられた彼女の瞳には、期待感のなにもない陰鬱なものが浮かんでいた。
その瞳に心が鷲づかみにされ、場の空気がひんやりと下がった気がして、喉が詰まる。
やっぱりだ。やっぱり言わないほうがよかったんじゃないのか。全ての不幸を背負ったような顔色してるのに、僕が言ったところで彼女が笑顔になるわけないじゃないか。
ここで諦めたら、なんのために勇気を出して声をかけたのか、分からなくなるじゃないか。こんな自分が嫌だから一歩踏み出したのに、意味がなくなってしまう。
勝手に結論付けようとする心を抑えて、僕は心で彼女の疑問に答えた。
「……っ僕は君が俯いてるのが見てられなくて、できれば笑顔で、居て欲しくて!
あ、えっと、別にそれだけがメモ帳を見たい理由じゃなくて、キスって書かれてた文章の続きが気になって、それで見たくて、それだけじゃないんだよ!
君の笑顔が見たいから――ってこれさっきも言ったよね、と、とにかく、哀しい顔が見たくないのも、笑顔が見たいのも、文章の続きが気になってるのも本当なんだ!」
自分でも何を言っているのかわからないほどに、ごちゃ混ぜになっていた僕の言葉に彼女はきょとんとしながら、メモ帳と僕の顔を何度か見比べて、口元を緩め、微笑んだ。
その笑顔は心からおかしなものを見る瞳でありながら、楽しさに満ち満ちていた。
「ふふっなーによ、その理由は。私の笑顔が見てみたいって言った人、初めてだわ」
「……ダメ、だったかな……?」
彼女は「ううん」と可愛らしく首を振りながら両手でメモ帳を取り、胸元に寄せた。
目を瞑って、自分の心の中にある何かに問いかけるためか、深呼吸する。
彼女の心はなんて言っているのか、僕には分からないけど、時間にするとたった数秒の後に、彼女は何かを決心したらしく頷いて、メモ帳を僕に手渡した。
それと同時に、彼女はしとやかで思いの詰まった声を出す。それは本当に穏やかな雰囲気を醸し出していて、今日見たどんな彼女よりも自然で神秘的に映る。
あのまま項垂れる彼女に話しかけないという後悔を残すより、良い結果になって内心ほっとした。
「これは私が一生懸命、書いたものなんだ。高校に入学したちょっぴり不幸な男の子とちょっぴり幸せな女の子のお話でね……なんていうのかな、言うの恥ずかしいんだけど、男の子と女の子が少しずつお互いを知って、心を育んでいく物語なの」
「へぇ面白そうだね」
「そう言ってもらえると嬉しいな、まだ誰にも見せたことないんだけど……ってそういうのはいいから、読んで感想を聞かせて!」
「う、うん。それじゃあ読ませてもらうね」
待ちきれないという風な彼女に急かされて、僕は緊張に塗れながらメモ帳を開いた。
物語は、弱気な男の子と強気な女の子が入学したての高校で席が隣同士になったことから始まる。
最初から男の子は内心では一杯言いたいことがあるのに、周りには何も言えなくて、うじうじしていてそれが嫌で嫌でたまらなくて――まるで僕を見ているようだった。
心に爪を立てられているような錯覚を感じながら、読み進める。
そんな男の子を、女の子は見ていられなくなって、ふたりきりになったときを見計らって話しかける。男の子は声を詰まらせながらも女の子のことを受け入れる。
その後も、男の子は弱気な心を受け入れて少しずつ前へ進もうとし、女の子と男の子は距離を縮めていく。
ふたりは放課後の僅かな時間だけを話し合う時間として、お互いの何気ない言動を心の中で考察して、相手を思いやり、理解を深める。ふたりの会話は、ただの何気ない日常なのに、どこか日常ではないような不思議さを思わせる感覚があった。
心が感情豊かに描かれて、一筋も、二筋も感情の軌跡を描きながら物語は進む。
神秘的に描かれるふたりの心は、次第に相手のことを想う初々しいものに変わり始める。ふたりは自分たちが恋をしているとは知らず、うちから溢れる理解できない感情に、自分のことが分からなくなっていく。
男の子も女の子も、分からなくなってしまう心に疑問を抱きながら、前へ進むように何度も、何度も会話を繰り返して、ついに自分の心に芽生えたものが恋心だと自覚し、ふたりは夕暮れの黄金色に染まる教室で、静かに告白する。
男の子は、女の子に対する自分を支えてくれた感謝の気持ちと素直な恋心を。
女の子は、男の子に対するいつの間にか自分が支えられていたという気持ちと好きの気持ちを。
告白のあと、本能に誘われるように男の子と女の子はキスをして、物語は締めくくられた。
……
…
「……」
「黙り込んじゃって……面白くなかった?」
僕がメモ帳に描かれた物語を最後まで読んでメモ帳を緩やかに閉じたのを確認して、彼女は不安そうに声をかけてくる。
僕はというと、短いながらも巧みに描かれた物語に心が囚われて彼女を右から左に受け流していた。ただの王道的な物語と言えばそこまでの単純明快な男の子と女の子が話を経て付き合う物語だけど、巧妙に入り込むふたりの会話は、互いを思いやる気持ちに溢れていて、読んでいて心が温まるものだった。
「……とっても面白かった」
僕は考えるまでもなく呟いていた。
それを聞いて、彼女は安堵したようにため息をつく。
「はぁ……よかった。メモ帳をそっと閉じてたし、面白くなかったのかと思ったわよ」
「そ、そんなことないよ! 本当に面白かったから物語に吸い込まれて、感慨にふけってたんだ。
男の子と女の子の話は相手のことを思いやって、何度も何度も話し合う姿がとっても温かかったよ」
口からすらすらと流れる僕の感想に彼女は驚いたのか、目を見開いて恥ずかしそうに笑いながら俯いた。
瞳は優しく透き通っていて、少し前まで倦怠を現していたのが嘘のようだ。
「そ、そう……ありがと」
彼女の笑顔は、窓から入り込む茜色の光に照らされていて、幻想的なものを感じるくらいに美しかった。
壁に立ち止まらず、足を踏み出してよかったな……彼女が暗い顔をしているだけじゃなくて、笑顔を浮かべてくれるのが、とっても嬉しい。
倦怠感のある瞳であっても吸い込まれるようなものを感じたけれど、笑顔の彼女はそれとは比べ物にならないくらい、魅力を感じられた。
そんなことを何気なく考えていたら、病室の扉が叩かれて声が響く。
「北条さん、検査の時間ですよ~」
耳に甘ったるく残るような声だけが扉から聞こえてきて、彼女は検査という言葉に少しだけ顔を曇らせて返答する。
「はい。すぐに行きます」
「お願いしますね~」
彼女は扉の前にいる誰かが立ち去ったことを靴音から判断して、盛大にため息をついた。
「はぁ……また検査ね……しょうがない、か。もう夕方だし、君も帰る?」
彼女に言われて、僕は病室に備え付けられているアナログ時計の時間を見た。
時間は五時を回った頃で、面会時間の終了には程遠いけれど、家には母さんが倒れたときのまま放置されっぱなしの電球があって、母さんがいないからご飯の用意とか全部自分でしなければいけないし、やらないといけないことを考えると、あまり時間はなさそうだ。
ここを離れるのは名残惜しいけれど、帰るべきだろう。
「検査の邪魔にならないように、そろそろ帰らせてもらうよ。
はい、これメモ帳。読ませてくれてありがとう」
「うん、ありがと。私のほうこそ、人に読んでもらえて嬉しかった。あと……、メモ帳届けに来てくれて本当にありがとうね」
彼女は僕の瞳をしっかりと見据えて、頭を下げた。
「う、ううん、僕は母さんに言われてきただけだから。それじゃあ――」
「待って」
「うん? なに?」
イスから立ち上がって帰ろうとした僕を呼び止めた彼女は、何度か僕以外の場所に視線を彷徨わせて、眉を潜める。
その姿は何か言おうとして、本当にそれを言っていいのか悩んでいるように見えた。
思考を順繰りさせるみたいな時間を置いたあとに、彼女はしっかり僕を捉えて問いかけた。
「君の、名前は?」
「そういえば言ってなかったね……」
「私は北条 春香(ほうじょう はるか)……春華って呼んで。君は?」
言いながら、春華さんは真珠のように白い手を差し出してくる。
夕暮れに照らされたその手は、今にも茜色に染まってその中に溶けてしまいそうで、僕は一刻も速く手を握らないと彼女が消えてしまうとすら思い、躊躇わずに、彼女の手を握った。
「……僕の名前は南条 智(なんじょう とも)、よ、よろしくね、春華さん」
「そんなに緊張しなくていいわよ、こっちこそ宜しくね、智くん」
智くんと呼ばれたことに、心が跳ね上がるけれど、それとは違うことにも思考は向く。
握った彼女の手は、ひんやりと冷たく、どこかぽっかりと穴が空いているように感じられた。
そこには時々、彼女から感じられる陰鬱としたものが詰まっている気がして、何か言葉をかけようとするけど、彼女は握っていた手を、ふいに離して、告げる。
「……じゃあね、ばいばい」
彼女は黄昏を感じさせる夕日を背景に微笑を浮かべて、右手を小さく振った。
まただ。
どうして、彼女はこんなにも哀しそうにしているのだろう。
笑ってくれたから満足していたけれど、それはきっと、ただ単にそのときは満足していたというだけの話で……春華さんが根源的に持っている笑顔になれない種は、まだ芽吹いているのだろう。
だが会ったばかりの僕はその姿に、何か言える言葉を持っているとは思えなくて、曖昧に手を振り返し、病室から出ることしか出来なかった。
「ばいばい、春華さん」
「えぇ」
僕が病室の扉を閉めるまで、彼女は単純な動作で手を振っていて、一抹の寂しさを孕んだ彼女の姿が、扉を閉めたあとも記憶からこびりついて離れなかった。
起編「華と僕」終わり
承編に続く
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