第16話「最終節の朝」
街全体が浮き足立っているように清川監督には感じられた。
11月27日、午前7時。
J3最終節。優勝を争う直接対決まであと7時間と迫った
多喜城FCに借りてもらっている、ワンルームのこじんまりした部屋を出た清川は、大きく伸びをすると透明な空気の中に真っ白い息を吐き出した。
「おはようございます」
スズメのさえずりの中に、聞き慣れた声がそう挨拶する。
淡い朝靄とともに、多喜城FCの広報部長こと伊達
「……おはよう。こんな所で何してんだ?」
「あの、何か居てもたっても居られなくて……」
力なく笑う雫の顔は真っ白で、頬は不自然に赤みがかっている。
「ちょっとまて、お前何時からここに居るんだ?」
慌てて駆け寄った清川が雫の腕をつかむと、その腕は氷の塊のように冷たかった。
ふらりとよろめく雫の肩を受け止め、清川は軽々と雫を抱き上げる。そのまま今出たばかりの玄関を開くと、まだ暖かい部屋の中へと足早に戻った。
「……すみませんでした」
熱いインスタントコーヒーの入ったマグカップを両手で持ち、ヒーターの前に布団の塊のようになって座った雫が、鼻をすすりながら謝った。
「まったくだ」
湯呑みで同じくインスタントコーヒーをすすりながら、ベッドに座った清川が呆れる。
一睡もせずに午前3時か4時頃から、そこの街路樹にもたれて立っていたという雫に、それ以外に掛ける言葉は見つからなかった。
時計もテレビもない部屋に、ヒーターの低い振動音だけがやけに大きく響く。
何の会話もないまま10分ほど、二人は静かな朝の時間を楽しんだ。
「静かで……いい街だな」
不意に清川がそう呟く。
ここに住むようになって1年。はじめはとっつきにくいと思われた近所の人々も、急に現れたガタイのいいこの男が怪しい人間ではないと分かってからは、やもめ暮らしの清川をあれこれと世話を焼いてくれるようになった。
近所のコンビニの店長やスーパーのレジのおばちゃんでさえ、気軽に声をかけ健康を気遣ってくれる。
横浜、京都、福岡……色々な街に住み、色々な街へと遠征に出かけたが、清川にとってこの街は既に特別な街になっていた。
「ええ……いい街ですよ」
ぬるくなったマグカップ……清川の普段使っているマグカップを大事そうに抱えたまま、雫は小さく答える。
昨日は今日の試合のことを考えていたら眠れなくなった。コンビニで甘いものでも買おうと家を出たら、いつの間にか清川の部屋の前まで来ていた。電気の消えた清川の部屋の窓を見ていると、幸せな気持ちと悲しい気持ちが渦巻いて一歩も動けなくなった。
そして、朝日の中に現れた清川を見た瞬間、雫は全てを理解したのだ。
「……私、あの……キヨさんと、ずっと一緒にこの街で――」
「俺ぁよ。プロの監督なんだ」
雫の告白を、清川は遮る。
この歳まで独り身ではあったが、元Jリーガーで名前もしれている。色恋沙汰に疎いわけではなかった。
雫の気持ちはなんとなく察してはいたし、その気持を嬉しく思っても居る。それでも親子ほどに歳の離れたこの元気で気の利く女の子をそう言う対象として見ることは、彼女の今後のためにも良くない事だと自分を律していた。
「プロなんだ。契約が切れれば他の街へ行く。ずっとこの街に居る訳にはいかねぇんだ」
「それなら、私も一緒に――」
言いかけて、雫は沈黙する。清川の遠回しな優しい拒絶に気付いたのだ。
「この街じゃないどこかにある、このチームじゃないどこかのチームの監督をやるんだ。お前は多喜城FCと一緒に居なきゃならねぇだろ」
そんな事は今の雫にとってどうでもいい事だった。清川が他の街に行くと言うのなら一緒についていく。他のチームの監督になるのなら、そのチームのサポーターになる。雫にとって清川と一緒に居られることが全てだった。
しかし、そう答えれば、清川と一緒に力を注いできた多喜城FCを否定する事になる。
そんな答えをする人間に、清川と一緒に居る資格は無いと雫は思った。
「……ずるいです」
あふれ出す涙を止めることすら出来ずに、雫は俯いた。
頭のいい娘だ。涙と鼻水でずるずるになった雫にティッシュを渡しながら、清川は心の底からあふれる優しい笑顔を止められなかった。
「そりゃあな。大人はずるいもんだ。中でも監督って職業は一番ずるいもんだぜ」
勢い良く鼻をかみ、酸欠になったように泣きじゃくる雫が落ち着くまで、それからまた10分以上かかった。
まだ肩を震わせながらもマグカップの中のぬるいコーヒーを一気に飲み干した雫は、一箱を空にした最後のティッシュで涙を拭いた。
「……私、ふられたんですね」
案外スッキリとした表情で雫がつぶやく。
そんな彼女を清川は大人になった娘を見る父親のように見つめた。
「ふられてなんかいねぇよ。かっこいい大人に憧れる時期ってのは誰にでもあるもんだ。でもそれは恋愛とは違う。お前は恋愛もしてないし、ふられもしてない。何もなかった。……そういうことだ」
潤んだ目で清川を見つめていた雫は、そのセリフに小さく吹き出す。
「自分でかっこいいとか言ってる」
「かっこいいだろ?」
背筋を伸ばして胸を張る清川に向かって、雫は大きく頷いた。
このままクラブハウスに向かうと言う清川に、自分も一緒に行くと言った雫だったが「その化粧もしてない顔に、洗濯バサミで止めたような髪でか?」と聞かれて、初めて自分がすっぴんだと気付き、慌てて顔を隠す。
結局雫は一度急いで家へ戻る事になり、まだ
清川がクラブハウスに着くと、そこにはもう慌ただしい雰囲気が漂っていた。
既に何人かのボランティアと思しきソシオ会員が会場整理の準備をしている。まだ開場まで3時間以上あるはずだがと思いつつ、清川は挨拶しながらクラブハウスのドアをくぐった。
「おはよう。随分気合入ってるな」
清川の挨拶に顔を上げた高梨経理部長が慌てて駆け寄る。
手にはロープとコーンを持ち、ベンチコートに身を包んだその姿は、普段のスッとしたスーツ姿とは似ても似つかない姿だった。
「清川さん、良い所へ。私はボランティアさんの増員と一緒にスタジアムへ向かいますので、申し訳ないですがコーチや選手の引率をお願いします。手順は後からくる伊達さんが知っていますので」
そのまま大荷物を抱えてクラブハウスを出る高梨を少し追いかけながら、清川は車に荷物を積み込むのを手伝った。
「おいおい、まだまだ時間はあるだろ? 何をそんなに慌ててるんだ?」
「なに呑気なことを言ってるんですか。スタジアムはもう開場待ちの行列が溢れてるんですよ。歩道や駅へ向かうペデストリアンデッキの上まで人が並んでいるので、朝から苦情の電話が鳴りっぱなしです。先ほど多喜城公園の管理局にやっと連絡がついたので、今から行列を公園内へ移動させなければいけません」
既に数千人が並んでいると言う高梨の言葉に、清川は呆然とするしか無かった。
車を見送って誰もいなくなったクラブハウスに戻ると、そこには抗議の、或いは問合せの電話が次々と鳴り響く。なれない電話対応に四苦八苦していた清川には、20分ほどで現れてくれた雫は、まさに女神のように見えた。
公園への移動が功を奏したのだろう。抗議の電話が収まると、時々鳴る当日券の問合せ以外の電話はほとんど無くなる。
電話を音声ガイドに切り替え、二人は椅子にもたれかかった。
「助かったよ」
清川は寝そべるようにして天井を見上げながら、やっとそれだけを吐き出す。
「いえ」
答える雫の言葉も少なかった。
その頃になると、ぽつりぽつりと選手やスタッフも集まり始め、クラブハウス内はまた少しずつ賑やかになって行く。
選手移動用のバスの確認や準備に忙しく働く雫に、
「あれ? 雫ちゃん眼が赤いけど、もしかして昨日眠れなかった?」
その声を聞いて一番ドキッとしたのは清川だった。
当の雫はニッコリと笑って「そうなんです! もう楽しみで!」と軽くいなす。
遠足の前の日の小学生みたいだと笑う雫を、清川は優しい目で見守っていた。
バスの到着を知らせるクラクションが鳴り、選手やスタッフが次々と乗り込んでゆく。
電話対応や雫のことを考えていて準備が全く終わっていなかった清川は、慌てて荷物をまとめ始めた。
「キヨさーん! おいてっちゃうよー!」
バスの窓から顔を出した石元が、大きな声で清川を呼ぶ。千賀、財満などの声も同じくワイワイと聞こえてきた。
タブレットやベンチコートなどを両手に抱えて、クラブハウスの鍵をかけようと必死になる清川の手に、そっと雫の手が添えられた。雫は清川の手から鍵を受け取ると、手早く鍵をかける。
「おう、サンキューな」
少し気まずい気持ちを引きずっている清川から片手分の荷物を引き受けると、雫は空いた手で清川の手を握った。
朝に握った手とは違い、その手のひらは柔らかく、暖かかった。
「行きましょう」
ニッコリと微笑んだ雫の手に導かれ、清川は多喜城FCの仲間達が待つバスへと乗り込む。
優勝を決める一戦へと向かうこの一歩を雫に引かれ、彼女に導かれて指揮をとることになったこの仲間達の元へ向かうのは、清川にはとても相応しいことのように思えた。
清川と雫を乗せ、バスは決戦の地へと向かう。
既にたくさんの仲間達が待つ、聖地「多喜城スタジアム」へと。
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