地獄

紅く照らされた血溜まりの真ん中に、一人生きていたのが焼きついていた。



体に激痛が響くのを感じていた。足は宙に浮いており、目は思うように開けない。何か言葉を発する様子であるが、口が切れているのか痛みが染みる。間もなく硬い棒のようなものを幾度となく打ち付けられる。肺の中の空気が一瞬全て出してしまったような気がした。だが何度も打ち付けられるうちに、その感じさえも慣れてしまってきていた。それどころか、どこかこの痛みを懐かしいと思える自分もいた。

そんな彼がかすかに見えたのは、上半身裸の異人の大男が数名、奥に優雅にワインを飲む悪辣漢、そしてその隣には黒衣に身を包んだ傭兵が一人。何事かを話してはいるが、言葉は全くわからない。異人の言葉だった。

とにもかくにも、縄で吊るされ、拘束されたこの体ではこの状況を抜け出す術などなかった。彼は今はただ助けを待つ弱者。

御坂正一は囚われていた。


事件の発端は、京の一部の住人に麻薬が回っているという情報を掴んだことからだった。どうやら、それは阿片だということらしかった。

阿片、その薬は国さへ滅ぼしかねない代物だった。例えば隣国の清は、阿片を原因とした戦争で香港をイギリスに占領されたという。

事態を重く見た京都守護職松平容保は、秘密裏に隠密御坂正一らに命令を降した。

「麻薬の売人を突き止め、出処を掴み一網打尽にすること」

容保は、異人が関わっている可能性があると考えていた。もし主犯が異人ならば、ただ生け捕りにするだけでは、領事裁判権を認めている現状ではまともに麻薬の出回りを防げない。よって秘密裏に皆殺しにしなければまともに対処できないのだ。

この任務が多くの危険を要すると考えていたのは坂口金吾だった。

「下手を打つと外交問題に発展するし、相手が相手だ。用心しとけよ」

と任務にかかる御坂に、何度も口を酸っぱくして言った。だが、御坂は耳一つ傾けず、勝手に仕事を始めてしまう始末。いつもの事ではあるが、悩ましいことこの上ない。

ただ最初の内は順調に、いや唖然とするほど簡単にいっていた。売人も捕らえ、取り敢えず京に麻薬が回ることだけは防ぐことに成功した。そのせいか、慎重であったはずの坂口も少しではあるがこの事件の展開に楽観的になっていたのも確かだ。捕らえた売人も、拷問によって呆気なく出処を吐いた。

その出処が容保の予感通り、異人からだった。どうやら奴は、横浜外国人居留地にいるらしいということは突き止めたが、大勢での乗り込みは危険だと考え、隠密行動に長けてる厄を連絡係とし精鋭を選び抜き、個別に居留地に潜入することにした。御坂を筆頭に、彼の参謀坂口金吾、剛力自慢の地蔵坊、自称サムライガンマン鋳型銃助の四人である。

だが、この情報はほとんど漏れていた。原因は捕まったはずの売人であった。売人はわざと捕まり、内通者に秘密裏にこちらの情報を流していたのだ。

これにいち早く気づいた厄は内通者を始末し、御坂らに横浜に入るなと連絡を回したのだが、御坂のみ既に横浜に入ってしまい連絡が取れなくなってしまったのである。

そして、事は現在の二日前に起こった。


御坂は一向に連絡に来ない厄を待ちぼうけしながら、居留地の中の空き家に潜んでいた。当時の横浜居留地は殆ど日本家屋式であったので、意外と過ごしやすくはあった。ただし、どこからか監視されてるような気はしているが。

シャボン玉を吹かしつつ、どうしたものかと思案する。何度か旅の浪人の姿で居留地の異人達を見てはきたが、誰が犯人かは一向に検討がつかない。というか、あまり異人というものを見慣れていないせいか、どいつも同じに見えてしまう。物珍しかったのだ。

……そういえば。

とその珍しさの中に、妙に頭に焼き付いた男がいたことを思い出す。そいつは長身で黒衣に身を包んでいた。そこまでなら何も思わなかったが、そいつは腰に日本刀を帯びていたのだ。その長さから、江戸時代以降主流となった打刀ではなく、太刀ではと思えた。異人で日本刀を使いこなせる男がいるのか、と御坂は不思議に感じられた。逆にその日本刀がその男の一部のように思えたのも確かだ。並々ならぬ男だということは、容易に察することができた。

もしかしたらその男が何かを握っているかもしれない。ふとそんなことも考えられたが、すぐにあてもない空想をシャボン玉と共に吹かし飛ばした。

水を飲み、手製の飯を食い、もう床につこうかと思った時、ドンドンと戸が響く。

だいぶ夜が更けた頃なのにいったい誰なのか、と思う以前にここにいることは誰も知らないはずだと未だ音がなる戸を凝視する。おそるおそる刀を取り、鯉口を切った。息を殺して相手の出方を待つ。耳を研ぎ澄ませると、戸の方以外にもこの小屋の周りから足音が聞こえる。複数人いるとみえた。

「……入ってくるがええが」

そのつぶやきに答えるように戸が勢いよく開いた。刹那、鉄の棒を振り上げた大柄の異人がどおと押し寄せる。それをひらりとかわして一刀のうちに斬り捨てると、ばっと外へ飛び出した。

先陣が呆気なく斬り捨てられたにもかかわらず、集団は臆することなく御坂を取り囲み、次から次へと畳み掛ける。対して、御坂は一撃一撃を捌くと同時に斬る、突く、殺す。けれども相手は手を緩めず、倒しても倒しても果敢に立ち向かうのだかららちがあかない。

流石に数が多い。

敵の手が緩んだ隙に御坂は一旦逃げよう試みるが、四方八方敵だらけで逃げることは叶わない。しかも囲みは徐々に小さくなるように感じられた。ここから抜け出すにはどうやら皆殺しにするしかないようだった。まだやれる、やれるが殺りきれるか。流石の御坂もこの状況には、少々肝が震えてくる。

その時だ、背後から恐ろしい殺気を感じたのは。咄嗟に背を翻すが一瞬遅れ、皮一枚斬られた。距離をとってみるが、相手の手は緩まない。力強い斬撃が一太刀二太刀と御坂に襲いかかる。それをなんとか凌いでいくが、それで手一杯というのが現状であった。だが相手もどうやら仕留めるのが難しいと判断したのか、その手を止める。

「……流石、幕府の隠密か」

見ればその男は、御坂の頭に焼き付いていた奇妙な男だった。

改めて対峙してみると、御坂は眼前の男の強さを身にしみて感じることができる。今までにない相手を前に、冷や汗が流れる。

切っ先を奴の首に向け構える。しかし対して奴は特に何もしなかった。どころか構えを解いてしまった。その予想外の相手の反応に、御坂の目には彼の姿しか見えてなかった。

それが、命取りとなった。

「隙ができたな、サムライ」

さっと手を挙げた。刹那、御坂の頭に強い衝撃が響いた。頭を棍棒で撃たれたらしかった。

視界が眩んでいく中でさえもまだ切っ先を目の前にいる男に向けたが、最早それは意味を成さないものだった。


そして時は現在にもどる。


水を打ちつけられて御坂は目を覚ました。冷たさが傷にしみる。折角寝ていたというのに、邪魔が入って少々不機嫌にもなりたくなった。

そんなことを思える状況ではないのだが。

目の前に現れたのは、御坂を捕まえたあの黒衣の男と、悪辣とした丸メガネの男。黒衣の男はどちらかというと日本人らしい顔立ちをしているが、丸メガネの男はギョロリとした目にでかい鼻携えており、どこからどう見ても異人であった。

「まだ拷問に耐えてるとはな、ミスター御坂」

流暢な日本語だった。

「驚いたか? 日本で商売をするにあたって覚えたのだよ。まあ、私はただの商人だからね。」

奇妙なほど口角を上げて御坂に詰め寄る。下卑た表情がよく似合っていた。その手で御坂の髪をぐいと掴めば、酷く引っぱるなどしてなじった。たいそう愉しそうにいたぶる姿は、目を逸らしたくなるものがある。

「しかし、イエローとはいえ、中々しぶとい。その方が玩具としては、遊べるがな!」

そう言うと、今度は自ら彼の頬を拳で殴った。商人であるが故に非力かと思えば、案外そうでもない。普通に痛い。しかも御坂が一息つく間もなく二発目が逆の頬にくる。口から涎混じりの血が吹き出し、男の服についた。

「きっ、汚ないなぁ!」

怒りにまかせた蹴りが御坂の腹を抉ってくる。腹のなかが掻き回されるような痛みが体全体に伝わり、ぐったりとうな垂れた。

男はなお拳を上げようとすると、黒衣の男は丸メガネの男の肩を掴んで制止した。

「……その辺にしておいたらどうだ、Mr.レッドランプ」

レッドランプはギョロッと振り返り、いやらしく目を細めて彼を見た。

「ジトー、貴様は私が依頼した傭兵だろう? 私の趣味まで口を出すんじゃない」

「……そうか」

ジトーと呼ばれた男は、掴んでいた手を下ろすと、呆れたように溜息をつき、ほどほどにしとけと捨て台詞を置いて部屋を出て行った。

レッドランプは気分を害したように舌打ちをすると、苛立ちをぶつけるかのように部下たちに命じてさらに御坂をさらに拷問させた。



「主が捕まったらしい」

横浜近くの宿場町で坂口はその知らせを聞いた。まさかの出来事に坂口は背筋が凍る。だが決して表には出さず、あくまで冷静に事にあたろうとしていた。だがやはり、思うように頭が働かない。

「まさか、こうなるとは思わなかったからな……」

よろよろと柱に頭をぶつけると、弱々しく口を震わす。

たかをくくりすぎたらしい。元から何か違和感は感じていたのだ。はじめが順調すぎたのだ、何から何まで。

なぜ用心しなかったのか、慎重にならなかったのか、幾度も後悔をするが何もかもが遅かった。後悔あとに立たず。それがよく当てはまる。

だが立ち止まってもいられないのも確かだった。

その時だ、宿の女将さんが坂口を呼ぶ声がしたのは。仕事が早いなと思いつつ階段を降りてみれば、背の高い筋肉質の坊さんと、面長の男がいた。坂口はふっと不敵な笑みで彼らを迎える。

「よく来たな」

「御坂が囚われたと聞いて飛んできたぞい」

「まったく、初めて聞いたときは耳を疑ったぜ?」

「それは俺も同じだ。とにかく中へ入ってくれ、地蔵坊、銃助。厄はもう来ている」

坂口は二人を自分の部屋へ招き入れると、御坂救出及び、麻薬売買組織を一網打尽にするための会議を開いた。

状況整理、敵の数、どのような組織か、厄が仕入れた情報をもとに坂口が計画を立てる。だがしかし、敵が敵なので思うような立案は上がらない。地蔵坊は脳筋であるし、銃助は元から狙撃の達者でしかないので、これっといった案も期待できない。

またもう一つ問題があった。ここにいる誰もが、何かの業に長けてる男達ではある。だが、いかんせん数がいないのと、敵の総数が多く、まともにやり合えば敗北は目に見えていた。

「俺らだけでは戦力が足りないようだな……」

「おまいにしては弱気だな」

「今回は御坂が囚われているんだ、そう簡単にもいかないだろう」

「下手をしたら御坂が殺されるってことかい?」

銃助の発言に坂口は目を沈めて頷く。いや、もう殺されたとしてもおかしくはない状況でもあった。地蔵坊と銃助はゴクリと喉を鳴らす。緊張が背中を走った。

その時だった。

「攘夷浪士を使えばいい」

という声がこの部屋のどこかからした。三人が振り返ると、そこにはいつも姿を見せないはずの厄がそこにいた。

「や、厄?!」

「びっ、くりしたぁ……」

地蔵坊と銃助は驚いたが、坂口は大して驚きを見せなかった。何故なら彼は厄の言った作戦を本当にできるか、それしか考えてなかったからだ。

「……厄、お前にそれができるのか」

坂口がそう聞くと、厄は静かに言った。

「幸い近くに攘夷浪士の集団がいることがわかった。彼らは時勢を見ない過激派だ。近くに麻薬を売買する異人がいるとすれば否が応でも襲撃をかけるだろう。その後下手人も彼らということにすれば一石二鳥、ではないか」

「……成る程、な」

確かにそれは妙案であった。流石情報収集の賜物、といえる。しかし危険が見え隠れもしているのも事実であった。本当に彼らを味方につけることができるか、事後はどうするか、様々な不安要素もあった。だが、そんなことも言っていられない。

「……では、その案でいいか?」

銃助と地蔵坊は力強く頷いた。厄は既に姿を消している。また新たな情報を手に入れるためだろう。中々自分勝手だが、そこは彼の土俵であるので余計な口出しはしなかった。

坂口は不安も怒りも何かを感じようとする自分をすべて殺し、あくまで冷静に、慎重に、この事に当たった。

「だが、敵を見たらこの感情を押さえとくことはできないみたいだ」

冷たい笑みがほろりと溢れた。



御坂は縄を解かれ、地下牢に入れられている。体中に痛みが残って容易には動かせない。したりと滴る水が身体に落ちるだけで、じんじんと体に痛みがしみる。今の彼には荒く息をあげて、ただ床に伏すことしかできなかった。

彼は完全に玩具扱いされていた。こうして地下牢に入れられているのも、楽しみを長くするため、少しでも壊れないように、というおおよそ人道的とは言えない理由だった。

しかし、そんな状況でも御坂はいつも通りだった。疲れたから寝るのは当たり前、むしろそんな理由で休ませてくれるのならありがたいことであった。これ幸いと御坂は痛めている体に鞭を打つようにごろりと大の字になり、心置きなく寝ようと思った。つかの間の幸福に感じ入ったせいか放尿までしてしまう始末であったが、御坂はそれさえ気にしなかった。恥も外聞もない。彼には今寝れればよかった。自らの未来よりも今を存分に彼は楽しもうとしていた。


「……!」

そんな御坂の光景を陰ながら見ていた男がいた。ジトーだった。

彼は御坂を捕らえたあの戦いの時から御坂に興味を持っていた。自分の従える猛者どもを軽くあしらい、そして殺し、多勢に無勢の状況に果敢に向かう姿に。猛者として、兵として、彼に何かを見た。

あの時は御坂を捕まえるという任務があったので、自分しか見えていないところを部下の不意打ちで彼の意識を落としたが、機会があらば御坂と剣をまじ合わせたいという気分があった。今となってはそれさえ叶いそうにもない。せめて少しだけ、この御坂という男を知ろうとこの地下牢に来たのだった。

だが、彼が見たのは堂々と放尿し、大の字で心地よく眠っていた御坂の姿。

彼の胸は高鳴った。

まだ、こいつはこんなことをできるのかと感動さえ思えた。全くこの先の恐れなどない寝姿。それどころか放尿さえ厭わずやってしまう豪胆さ、ここまで精神が頑丈な男をジトーは見たことがなかった。

諦めるにはまだ早かったのかもしれない。

来た道を彼は戻る。すーすーと寝息な立つたびに沸々と湧き上がる興奮。彼は口角が上がるのを止めることはできなかった。



御坂に対する拷問もといレッドランプの暇潰しは、毎日続いた。彼は御坂が痛めつけられてる姿を見るたびに、自分は強者だという優越感に浸れていた。強者だから弱者を痛めつける。黄色人種は白人には勝てない。気分が良かった。

ただし、その気持ちよさは日が経つごとに薄れていった。

何かが足りない。

爪を噛みながら、ワインを一息に飲む。部下を使って今も御坂を痛めつけているが、響くのは体を棒で打ち付ける音だけ。淡々と拷問しているだけなのだ。

「こんなものを見て、貴様は面白いのか?」

隣からの一切の起伏がない言葉にも、レッドランプは口を紡ぐしかなかった。この瞬間がつまらなく感じたのは確かなことだったからだ。ふと奴を見れば未だ拷問されているはずなのに、始めよりも苦悶さが薄れているような、いや慣れてきたといったようにも見えるのだ。

何故だ、何故奴はあんなにも平然と拷問を受けていられるのだ? どうしたら奴の顔は歪むのだ!

考えれば考えるほど深みにはまっていくように感じていた。それ程までに、今、この目の前の人物は異常であり異質だった。

彼は東洋人は黒人と同じ奴隷のようなものと思っていた。拷問さえすれば泣き喚く哀れな動物、そう見下していたのだ。だからこそ、彼は衝撃を受ける。常識が根本から崩されているのだから。

レッドランプは一度拷問をやめさせて、つかつかと御坂に近寄った。見れば体に青痣が絶えない。歯だって何本か折れている。それでいてどこ吹く風という顔。

憎らしい奴。

「泣き喚け」

瞬間、彼は右の拳を御坂の顔に入れ、間髪入れずに左の拳を、まるでサンドバッグを殴るかのように続ける。

「喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚け喚けえええ!」

肩で息をするまで殴り続けたにもかかわらず、とうとう御坂は泣き言一つ言わなかった。

半開きになった目をゆくりとあげて、

「……眠気覚ましには丁度ええがな」

と、淡々と言うだけだった。

だが、それはレッドランプの狂気の拍車をかけるのには十分だった。

見開いた目はみるみるうちに充血し、拳はわなわなと震えている。だが顔は妙に笑みを見せた。そして、彼は悪魔が乗り移ったかのように、その言葉を口にした。

「……阿片を持ってこい」

その場にいる誰もが目を見張った。

「な、誰に使うのですか?」

「決まっているだろう」

そう言ってレッドランプは指をさす、そこに吊るされた男に。

「そいつに拷問などやっても無駄なんだよ。ならば、内側から壊してしまえばいい……」

開ききった瞳孔には狂気の焔が燃えている。どこまでやればこいつを壊せるか、ただそこだけに執念を燃やしていた。人を壊してきた者は、人が壊れないことを酷く拒絶した。だから狂っているのだ、この商人は。

ここにいる者はもう、誰も彼を止めることは出来ない。部下は別の地下室に阿片を一箱運んできた。

対して御坂は、別になんの反応も示さない。無関心、まさにその一言がよく当てはまっていた。普段のレッドランプにとってはそれも十分勘に障るものだったが、今はもうそれすら狂気の原動力になる。

レッドランプは自らその箱から例のクスリを出すと、クスリを一息にその部屋全体にばら撒いた。これにはその部屋にいる誰もが驚愕した。しかし、それに加えてレッドランプはマッチに火をつける。

「貴様もこれで最期だ」

高笑いにそれを落とすと、ばら撒かれた阿片が焼かれていき、毒のよく入った煙が立ち込める。レッドランプらも煙に巻かれないように部屋から出る。

だが、最後の最後まで残った男がいた。ジトーだ。

御坂との戦いを望んでいた彼は、これでもう戦えないのかと諦めかけた。こんなことは幾度もあったが、やはり惜しいと思う部分もある。もうそんなことを考えても、後の祭りであった。彼も続いてその部屋から出る。その背中は名残惜しいものがあった。

そしてその小屋には、吊るされた御坂一人が残された。



御坂は頭がぼうっとするのを感じていた。拷問は慣れたものではあったが、流石に麻薬とともに焼かれるとは思ってもいなかった。その熱はじりじりと体に迫ってくる。

不思議と恐れは湧いてこない。死の胎動は確実に近づいてきているはずなのに。

これも阿片の毒のせいだろうかと考えてみるが、頭の中が靄に包まれたようでうまいことはたらない。

代わりに自分の体に何か抱き付こうとしているものがぼんやりと見える。はっきりとはわからないが、見覚えのあるような気がした。そしてその手はがっしりと自分の体を掴んで離さない。腐り落ちそうなくせに、見かけによらず力は強い。

それは次第に鮮明になってきた。虚ろな目でよくよく見えたその姿は、自分がいつか友と呼び、自分を仇と狙った男だった。憎しみの満ちた笑み御坂をどこかへ引き摺り込もうとしている。

そればかりではない、他にも自分が殺した者どもの手が自分を掴んで離さない。地獄の底から蘇ったのだろうか。そうだとすれば、滑稽な事だとうすら笑いもできそうであった。

体が、沈んでいく。少しずつ奴らの手が自分を引き込んでいくのが、僅かながら理解できる。

このまま、死ぬんかい。

それは諦めでも、悲嘆でもない。

目を閉じて、地獄に落ちるのを待つ。隠密という役職になる上で、こんなことは覚悟はしていた。いつかは人間死ぬのだ。これも、ひとえに自分の運の尽きだろう、そう思った時だった。


「死にとおない」


そんな声がどこからか聞こえた。聞き覚えの、馴染みのある声だ。


「死にとおない」


その言葉は幾度も幾度も繰り返される。祈りを捧げるように繰り返される。神にすがるように繰り返される。

御坂は閉じていた目を見開いた。

彼の眼前に広がっていたのは、血の海だった。どこかで見た血潮の真ん中で、彼は一人泣いていた。蹲って、頭を抱えて、死体の中でたった一人泣いていた。


死にとおない、死にとおない、と泣き叫ぶ、幼い御坂がそこにいた。


そんな記憶は御坂の中にはなかった。そんな記憶があることすら知らなかった。けれども、今はそんなことは範疇の外だった。

死にとおない。

その言葉だけがよくよく心に響いた。生きたいという願いをこれほどまでに願う自分が、死の間際の自分に問いかける。

本当にこのまま死ぬのかと! 無様にこのまま、死んでいいのかと!

別に構わない、とは思わないでもなかった。死ぬ時がその時だから。

けれど、ふと彼は思い出す。まだやり残したことがあると。シャボン玉を、最近吹かしていないと。今の彼には、それが生きる意味に値していた。

もう一度、幼き自分を見る。どうして、彼は生きたかったのだろうか。今の自分みたいにやり残したことがあるのだろうか。

そんなことは知る由もない。

でも生きたいのは確かなのだろう。生きたかったのは本当なのだろう。そして今まで生きてきたのだろう。

だからこれだけは言っておく。


「わりゃも死にとおは、ない」




レッドランプらはまさかの事態に混乱をしていた。小屋から出た瞬間、部下が何者かに斬られたのだ。慌ててレッドランプは転げ出るが、何者かに囲まれてしまった。レッドランプは部下達を盾に身を守る。

「誰だ!」

怒りのあまり、声を荒げる。それに応えるかのように敵側から一人足を踏み出すものがいた。品行方正な男だ。

「我が名、坂口金吾宗孝! さあ、貴様の罪状数えてもらおうか!」

スラッと刀を抜き、構える。同調するかのようにレッドランプの部下達も戦闘態勢をとる。

「……やれ!」

火蓋は切り落とされた。

坂口が利用した攘夷浪士らは中々の手練れであった。さらに相手は丸腰であるがままに、優勢は坂口側にあった。

流石のレッドランプも不利と見て、こそこそと隠れ逃げようとした。だが、相手はそう簡単に逃がしはしない。

「さあ、あんたもここで死んでもらおうかい」

揃い踏みに立ちふさがるのは、ピストルを構えた銃助と大太刀を片手で降る地蔵坊。慌ててピストルを構える。瞬間、銃助の早撃ちによりそれは破壊されてしまった。打つ手のないレッドランプはたじろぎ、ジリジリと後退する。

「ジ、ジトー!」

恐怖のあまり自分が雇った傭兵の名前を叫ぶ。その隙を二人は容赦なく襲い来た。

ここまでか、と目を瞑る。だが、身に銃弾が当たらなければ、刃が貫くこともなかった。代わりに轟くのさ激しい金属音。

「やっと、仕事ができるか」

黒衣の傭兵は呟くと、二人を一振りで薙ぎ払う。その剛力に、地蔵坊と銃助は目の前にいること男が並のものでないことを察した。

地蔵坊は大太刀を上段に構えて間合いをとる。銃助もジトーの背後に回り込み、銃口を向ける。だが、歴戦の傭兵は全く意にもせず狙いを絞る。戦況は硬直した。空気が強張り、身に緊張が走る。

じっと、鳥が一羽飛び立つ。

それが合図かのように、地蔵坊が縄を放たれた獣ように斬りかかった。対するジトーは恐れもせずに踏み込むと、降ろされる大太刀を難なく太刀で受け流し、その鳩尾に拳を突き上げた。体に圧力が加えられたせいか胃液が逆流し、口から黄色の液が噴き出す。もうその時にはジトーは銃助の方へと立ち回る。

向かってきた敵に対して、銃助は狙いを定める。しかし右へ左へ動き回るものだから狙いは全く定まらない。どころか、彼は敵との間合いを彼は見誤った。狙いを定めることに集中しすぎた銃助は、懐に敵を一足で入られることを許してしまったのだ。引き金を引く間もなく、彼も拳をくらい、どうすることもなく倒れ伏した。

「レッドランプ、敵は……」

つまらない仕事を終えたその時には、レッドランプは既にいなかった。人が戦っているのをいいことにコソコソと逃げてしまったようだった。だが、依頼主に文句は言えない立場であるジトーは、特に地団駄を踏むこともせず苦戦している彼の部下の手助けに向かおうとした。

丁度その時に、


「……よう、また会ったのお」


振り返れば、業火の中に消えたはずの御坂正一がそこにいた。

「……生きていたのか」

あくまで表面上は冷静な言葉ではある。だが、体は全身の血液が沸騰するのを感じていた。

「……シャボン玉を最近吹かしてないからのお」

対して御坂は今まで拷問されていたとは思えないほどのんびりとしていた。首の骨をコキコキと鳴らすと、銃助の腰に差してある刀を勝手に抜く。

「しかし、どうして脱出できたのだ?」

「簡単じゃけえ、あの炎で縄が焼けて助かったがな」

「成る程、あいつの愚行も役に立ったというわけだな」

「まあ、そうじゃけ。……で、」

御坂はジトーに向き直る。

「わりゃの前に、立ち塞がるか?」

鼓動が大きく脈打った。

「……ああ、依頼主を殺されてはマズイからな」

それは、建前だった。自分が戦いたいがために自身の傭兵としての信条、依頼主第一を利用しただけだ。

「……しゃあないがな」

御坂は刀を片手に無行の位をとる。対してジトーは切っ先を御坂に向け、構えた。

相手の出方を伺いながら、間合いを詰める。このままだと埒があかないのも確かであるが、どうも互いに隙が見えない。緊張感だけが骨身にしみてくる。

刹那、二人の剣が交差した。


一方のレッドランプである。

彼は暗闇の中を手探りに逃げていた。だが、彼は逃げてどうこうしようとは全く考えつかない。死を目前にして逃げることばかり考えていた。こんな辺境の地で死ぬのは、彼の誇りが許さない。

体が汚れるのも構わず走り続ける。どこまで行けばいいのか、どこに行けばいいのか、それさえ彼にはわからない。

そんな揺れる心身のせいか、足がもつれて枯れ木のようにあえなく倒れた。もがき、引きずり、彼は生きようとする。まだ、死にたくはない!

「……無様だな」

背筋が凍った。おそるおそる振り返ると、坂口金吾がそこにいた。

「お前のことは厄が調べ上げたよ。御坂が世話になったな」

近づいていくるその姿は、悪魔のようにさえ思える。

「デ、デーモン……」

「意味がわからないな。それよりも、最期に自分の罪状を数えないか?」

坂口は刀を振りかざした。

レッドランプは、もうそこにあるのは死しかないことを悟った。恐怖のあまり股から暖かい液体が溢れ出し、悲嘆とも言える叫びで、こう求める。


「help me‼︎」


しかし、それはどこにも届くはずもなかった。

振り下ろされた刀は、無情にもレッドランプの首を飛ばした。

「……気分がいいものではないな」


御坂とジトーは立ち回りを繰り返す。どちらの刃も未だ相手の体に触れることすら叶わない。ジトーの剛力から繰り出される一撃は、幾度も御坂の刀により軌道を変えさせられて流れていく。対する、御坂の返しもジトーの読みにすんでのところで見切られる。当たらず触らずの一進一退すらしない攻防だが、一瞬でも気を緩めば即ち死に繋がる。

息は上がり、段々と体の感覚が鈍くなっていく。剣と剣が絡み合う音しか二人には聞こえなくなっていた。楽しくはない、が互いに感ずるものがそこにあった。

血は一滴も舞わず、代わりに火花が飛んでいくのみ。一度互いが互い、示し合わせたように離れてあがった息を整える。

「強いな……サムライというのは」

「おんしも大概じゃけえのぉ……」

チリチリと体が焼ける感覚、それは殺気からか、それとも快感からか、そんなものをジトーは感じていた。

対して御坂は、稀にない強者に驚きを隠せずにいた。下手をしたら、一生のうちで最も強い奴のような気さえする。

御坂はスッと腰を低めた体勢になる。刀を納刀し、そして構える。右手は柄に添える程度。居合の構えだ。

対してジトーはどっしりと大きく太刀を構える。どこからでもかかってこい、どんな技でも返してやろうという意気込みが感じられた。

ある程度間合いが詰まったところで、二人は息を止めた。張り詰めた空気は、すべての生物の動きを止めた。

ひゅう、と風が静かに吹き込む。

刹那、大地を踏みしめるような踏み込みとともに響いたのは、互いの刃が弾ける音のみ。


轟いたのは互いの魂をぶつけ合った音のみ。




「で、結局その後はどうなったんだよ」

坂口は漬物をしゃくしゃくと食いながら言う。

「わりゃにもよお、わからんが……」

御坂が言うには、双方の刀は砕け落ちたところで坂口がレッドランプを討ったということが周りに轟いた。それを聞いて、

「……残念だが、依頼主が討たれた以上貴様とは戦う理由が無くなった。キリもいいし、今回はここまでにしよう。……残念だが」

と、夜の闇へと消えていったらしい。その後、その男は行方はつかめなかった。

「何者なんだろうな……」

「奴が言うには傭兵だとかのぉ」

「傭兵ねえ……」

その謎の人物が坂口は気になるが、これ以上御坂を問いただしても意味はなさそうにみえた。

「しかし今回の事は骨が折れたな……」

坂口は今思い出しても、気がつかれるようだ。

結局あの後、気絶していた地蔵坊と銃助を引きずって坂口達と合流できた御坂ではあったが、拷問時に受けた傷やら阿片の後遺症やらで倒れてしまったのだ。なんとか手当をしたものの、当分は横浜近くのある藩の屋敷で静養することになったのだ。特に阿片を吸ったことによる禁断症状が坂口達の大きな不安であったが、何も起こらず今に至っていた。ただ、シャボン玉による禁断症状は筆舌に尽くしがたいものだったが……。

また事件も異人集団皆殺しという体で片付けられた。犯人は攘夷浪士の集団、また彼等も皆殺しにしたことにより解決という形に。全て坂口が仕組みに仕組み上げた結果だった。

これで一応の麻薬事件は終わりを告げたのであった。

「あ、そうだ。お前に頼まれたもの持ってきたぞ」

思い出したかのように坂口はあるものを荷物の中からとりだす。それは御坂の念願であったシャボン玉だった。

それを見た瞬間、御坂は無邪気な子供のように目を輝かせ、坂口からそれを奪い取ると、ちょちょいと液を竹筒につけて吹かしてみせる。幾日かぶりのシャボン玉であるせいか、至福の笑みが浮かんでいた。坂口はその光景に顔を引きつらせるが、これは流石に仕方ないと思えた。

シャボン玉はひとつふたつと飛んでいく。御坂はふと、阿片の炎に巻かれた時のことを思い出す。

「死にとおない」

そう叫んだ幼い自分は一体誰だったんだろうか、なんで自分は死にたくはなかったのか。そんなことばかりが頭の中によぎった。

だが、彼はすぐに考えるのをやめた。あの自分は命の恩人だから、そう深く考えるのは野暮ではないか、そう思ったのだ。あと面倒くさいし。

ただ、もう見れなかったかもしれない光景が、こうして再び目の前に現れている。それだけは感謝しないといけない。

「……ま、ありがとぉのぉ……」

「何、ほおけたこと言っているんだ……?」

呆れたようにため息をつく坂口を物ともせず、御坂は一人シャボンを膨らます。

今日も、天気は快晴である。

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