志士

高尚な志が、御坂正一は嫌いであった。


嘉永六年(1853年)の黒船来航から始まる幕末の動乱。この前代未聞の危機をどうにか乗り越えようと若者は様々な志を持って行動した。彼等の中には無念にも志半ばで倒れた者も多い。 それでも同士の屍を乗り越え、彼らは戦う。

だが、そんな彼等を冷めた目で御坂は見ていた。そんなに真剣になってなにが面白いのかと。

彼自身は、大層な志がない。そんな物を持っていたらめんどくさい、という。それも確かに事実だろうが、もう一つ、彼が志を嫌いになった原因があったのだ。


ある時、彼の通う道場で宴会をやることになった。最初は和やかな雰囲気だったが、やがて話題は昨今の政治状況の話へと熱気がうつる。

「やはり異人は追い出さねばならん!」

と、床を力強く叩いたのは道場の師範代、志島総兵衛という男だった。彼は文武両道の男だった。新たな知識を得ようとよく本を読み、世の中の情勢にも敏感であった。

この事態にも早くに察知して自分も何か行動を上げなければならないと躍起になっていた。

「この神聖な国を異人の土足で踏まれるなんて以ての外だ! ああ! この手で奴らを斬ってやりたい! 奴らのせいで貧困に喘ぐ者立っているのだ!」

周りの者も同調し、散々に異人のことを言っている。

確かに、異人と貿易するようになってからは経済も混乱し、人々の不満も大いにあった。彼の言うことももっともなことだった。

彼の一言に、水も一瞬で蒸発するような熱がこもっている。その熱はさらに大きくなりやがて店の中全体に広がっていった。

「攘夷だ! 攘夷!」

「そうだ!」

「攘夷をしなければ!」

これはもう宴会どころでは無くなってきた。と、その場にいた御坂は、早々に立ち去ろうとする。

彼はこういう熱い感じが好きではない。元来積極的でなさすぎたから仕方がない。が、そんな彼を志島は見逃すことなく呼び止めた。

「おい、御坂! お前はもう帰るのか!」

御坂はシャボン玉を吹かしつつ、右から左へと彼の言葉を流して外に出ようとする。志島はその態度に随分と立腹したらしい。大声をあげて御坂の前に立ち塞がった。

「おい御坂、貴様はこの国の危機をどうにかしようとは思わないのか? 」

「思わんのう」

次の瞬間、御坂の体は店の柱に吹き飛んだ。志島は拳を震わせ、倒れた御坂をさらに殴る。

「この愚か者がぁ!」

首根っこを掴むと、そのまま一息に叩きつけた。

「ふん! この阿呆が。こんな阿呆に我らのことなんかわかるわけがないわ」

そう言って憤慨した。その勢いに周りの者は押し黙るしかなかった。正直、彼に合わせるしかなかったのだろう。志島を怒らせるとどうなるのかを、今この場で見せつけられたのだから。

御坂は痛みが残る体を起こし、人知れずに店を去った。店からどんなに離れてもあの熱気は耳に入る。

気晴らしにとシャボン玉を吹かそうとしたが、先程殴られた時に竹筒に入った液が全て溢れてしまっていた。

溜息を一つつく。

その晩は新月だった。


それから数年の時が経った。


陽気な日の光を浴びつつうたた寝をこいてると、拳で頭を小突かれる。一体誰だろうかと見上げれば、表情が一切ない坂口金吾がそこにいた。

「おはよう、よく眠れたかな?」

口から出た言葉は冷気のように冷たい。怒りが度を通り越していた証拠だ。

「気にすんな」

「黙れテメェ! また仕事してねえよなぁ!」

一気に怒りは爆発し、御坂に対する説教が長々と続く。しかし、この説教の時間を坂口は仕事に回そうとは思わないのか。否、きっと御坂を怒らないと気が済まないのだろう。

御坂は幕府直属の隠密となっていた。隠密といえども主な活動は危険因子の抹殺、つまり暗殺者的な立場だった。大体の殺しは京都にうろつく不逞浪士だ。

しかし彼はその悉くをサボっていた。元々積極的に仕事をする柄ではない。部下に適当にやらせたり、この坂口に擦りつけたりと散々なものだった。

やがて説教し疲れたのか、坂口は御坂の隣にどかっと座る。

「しっかし多いよな、浪士ども」

心底投げやりな口振りだ。

一度、禁門の変により京都に長州藩の尊攘派を破り、第一次長州征伐では尊攘派の家老三人が切腹により果てたことで、尊攘運動は下火になった。だが、未だに京都で暗躍する者がおり、新撰組や京都見廻組がそれらを掃討しているのが現在の状況である。

「彼らはもう少し現実的になれないものか……」

坂口は辟易してそう言った。いくら仕事とはいえ、志ある者を斬るのは忍びないということだろう。

「無理がな」

御坂はバッサリとそう言った。

「そいつらは志ばかりで周りが見えないんじゃろうて」

吹かしたシャボン玉はあっという間に割れてしまった。

「周りを見ていないのはお前もじゃないのか、正一」

「知らんがな」

呆れ気味に溜息をつくと坂口は立ち上がる。とその時、思い出したように彼は言った。

「そうだ、厄からいくつかの標的の居場所が割れたと情報が入った。早めにやっとけよ」

そう手渡された紙には事細かく詳細が書かれている。

しかし、先程はできれば斬りたくないつーてたのに殺っとけとは…、と御坂は思う。坂口は私事と仕事を分ける男だから仕方ないといえば仕方がない。

ある程度の詳細を眺め、たまには仕事をしようと面倒くさがりなりにもそう思った。



今宵も新月だった。町は闇に包まれ静寂を保っている、わけでもなかった。

御坂は路地裏でホッとひと息つく。足元にはゴロリと死体が転がっていた。御坂が作ったものである。

竹筒に入れておいた水を飲み、袖で口を拭う。

これで今日斬ったのは三人目だった。紙に書いてあったのは四人ほど。数え間違えさえなければ、次で今日の仕事は最後になる。

「ふぅ……」

シャボン玉を吹かして気分転換を試みる。

しかし気分は一向に晴れない。気疲れだけが体の中に溜まっていくようだった。

耳をすますと、せせらぎが聞こえてくる。川が近いところにあった。丁度水も無くなったところだった。御坂は路地を出て、河原の方へと向かう。

河原までの道は大きく開けており、先を見渡せば大きな橋がある。その橋の下には多くの浮浪者が寝静まっている。それらを起こさないように御坂はひっそりと降り立ち、川の水を竹筒にいれる。そして、手で水を掬い顔を洗った。冷たさが身に染みた。

さて、と思って最後の仕事に出ようとすると、橋の上から激しい足音が響いてくる。そして響き渡るのは金属音と、鋭い悲鳴。きっと新撰組と浪士どもが斬り合っているんだろうと推測した。

御坂は上に上がるのをやめ、騒動は過ぎるまではとひっそりとそこにいることにした。

金属音は未だに鳴り続ける。橋からは血が糸のように滴り落ちる。一向におさまる気配がない。

暇つぶしにシャボン玉を吹く。

とその時だった。橋の上から人が一人降ってきた。丁度シャボン玉が集まってるところに降ってきたので多くのシャボン玉は割れ、川の水は大きな波紋を見せる。

「逃がすな! 脇から先回りをしろ!」

怒号が響く。そのあまりの大きさに御坂はとっさに耳を抑えてしまった。

さて、降ってきた人である。やっと起き上がると、肩を抑えて周りを見回している。顔は暗くてよく見えない。月の明かりさえあればと思うが今宵は新月、望めそうにはなかった。

「はぁ…はぁ…」

荒い息が目立つ。先程の戦いで余程疲れたのであろう。

御坂は考えた。ここで奴を斬るかと。

奴は不逞浪士だ。幕府の敵である。斬る理由はいらない。だが、そいつは新撰組だって追っている。そいつらに任せればいいのではという考えも巡った。

と、その時に新撰組がここに追いつく。現れたのは三番隊だ。組長、斎藤一の指示で奴は囲まれた。

もはやこれまでだった。

「ちっくしょお!」

奴は意を決してがむしゃらに刀を振り回し、隊士たちに立ち向かうが隊士たちも猛者である。四方に立ち回り一太刀、二太刀を浴びせ串刺しにした。奴はそれでも刀を振り上げる。が、そこで力尽きた。

「もういいだろう。行くぞ」

斎藤はそう言って引き揚げようとすると、たまたま御坂の姿が目に入った。

御坂は何度か隠密の任務として新撰組に入っていた時期がある。その時もあまりの面倒くさがりに隊内で幾度か噂になり、大体の隊士はその顔を見知っている。斎藤も一応顔は知っていたのである。

斎藤は隊士を先に引かせると、御坂の方へ寄っていく。

御坂も当然気づいたが、何度か話したこともある仲だったので逃げることはしない。

斎藤は後に間者(スパイ)として御陵衛士に潜入したり、また隊内における粛清、暗殺もこなしていたたりとどこかしら御坂の職種と似ていた。だからなのかちょっとした親近感を抱いていたのかもしれない。

「お疲れよのお」

「……お前もな」

御坂は先程汲んだ水を斎藤に渡す。斎藤は礼をして、一息にそれを飲んだ。

「しっかしのぉ、おんしだったら橋の上ですぐに終らせちゅうこともできんかったんが?」

御坂がそう聞いたのは、斎藤が隊内で一、二を争う剣の腕だったからだ。隊内でも「斎藤の剣は無敵の剣」と評されている。御坂も何度か手合わせをしたことがあるが、負けることが多かった。身を以て知っていたというわけである。

「いくら隊内で腕がたつといっても、それが実戦に繋がるわけではない」

斎藤は自分を諌めるように言った。

「それにこの男は江戸にいる時にある道場の師範代だったと聞く。だからか腕もたったし逃げられそうにもなった。それだけのことだ」

斎藤は死体が転がっているとこへ近寄る。続いて御坂も歩く。川には鮮血が広がっていた。

「結局こいつの末路はこんな形になったけどな」

侮蔑するように吐き捨てた。

御坂はしゃがんで死体の顔を見る。好奇心から見たその顔は、見たことのある顔だった。

「……志島…」

「知っているのか」

「……まぁ」

既に屍となったその男は、目を見開いたまま、歯を食いしばったままそこにいた。

その時、御坂は隠密として京へと発つ直前のことを思い出していた。



「聞いたぞ御坂」

日が暮れて御坂一人しかいなかった道場に、志島は現れた。

「……」

志島に目を向けずに素振りを続ける。

あの一件以降御坂と志島が口を交わすことはなかった。あんなことがあったのだ、当然だろう。そもそも志島はあの一件に関わらず御坂を嫌っていた。

そんな志島が御坂と話す気になったのは、御坂が一月後に隠密として京都へ出向くということが偶然耳に入ったからだ。

「貴様は幕府の犬になるのか?」

幕府に不満を持つ志島は威圧的な声で御坂に問う。さらに、木刀までその手に掴む。返答次第ではそれで御坂を殺すつもりだった。

御坂は素振りをするのをやめ、志島に顔を向ける。

「どうなんだ」

もう一度、強く言った。

御坂は沈黙は続く。その表情からは何を考えているかはわからない。志島の頰に汗が流れる。

蝉がけたましく鳴いている。その声は風に乗って道場内へと流れ込んで蔓延する。

「ふう」

と今までおし黙っていた御坂が溜息を吐く。

「張り詰めたってしゃあないがな」

辟易としながらそう言った。

「好きで張り詰めているわけではない」

志島は御坂に近づくと、手に持っていた木刀の切っ先を首に当てた。

「俺は貴様が嫌いだ」

「んなこたあどうでもよかろ」

瞬間、志島はその木刀で首を突く。が、御坂はその突きを手で弾き流し右に持つ木刀で志島の左脇を穿つ。志島は倒れはしなかったものの膝をついた。

御坂は溜息をついて、背を向けて道場から出ようとする。

「貴様は志があるか!」

その怒号に足が止まる。だが振り返りはしない。

「ないだろう。そうだろう。貴様は何も考えてないのだからな! 稽古の時も、今のもそうだ。貴様の剣には何も感じられない、空っぽの剣だ! その空っぽの剣で隠密になれるのだから苦労はしないだろうな」

荒い息が混じったその言葉に、志島は御坂に対するを最大級の侮蔑を込めた。彼は我慢ならなかったのだ、志を何一つ持たずただ流れるように生きる御坂のことが。

「俺は空っぽの犬として生きる貴様とは違うぞ! 志を持ってこの世を変えてやる! 見ていろよ、御坂!」

志島がどれだけ吠えようとも、御坂はとうとう振り返らなかった。



御坂は屍を引き上げて土に埋めた。無骨な石を置きそれを墓石とした。そして、手を合わせる。

「手まで合わせるのか」

「墓には手を合わせるが礼儀がな」

その言葉に、斎藤は少し驚いた。この男にそんな礼儀があるとは思えなかったからだ。

「しかし、その男の知り合いだったとはな」

「知り合いちゅうても、口を交わすことはそんななかったしのお」

そう言って御坂は立ち上がる。おもむろにシャボン玉を吹かしながら。

「じゃけんど、最後にわりゃに向かって言った言葉はよう覚えてるがな」

「……その志は本当の意味での志だったのかねえ」

志島は御坂が京都へ行った数ヶ月後に上京した。そして彼が志を果たすために行ったのが天誅だった。開国派、またそれに味方する者や幕府の役人どもを斬り捨てることで志に近づこうとしたのだ。当時は天誅が流行りとなっていたので、当然といえば当然ではある。

しかし後に起こった八月十八日の政変、池田屋事件、そして禁門の変によって京都の志士達が壊滅寸前まで追い込まれたのは周知の事実である。

志島はなんとか切り抜けてきたが、潜伏中に強盗、追い剥ぎまがいのことをし続けてきたという。そうまでしてきたのに、今晩その命を散らしてしまった。

「わりゃには志というもんがようわからん」

志があることがいいというのはなんとなくはわかる。が、御坂はそれによってこんな風に無様に死ぬのは嫌だった。明日もシャボン玉が吹きたいから。

「わりゃ生きてればそれでよかと思うんがなぁ…」

呆れたように言った。

「…そうとも限らないぞ」

斎藤は呟く。

「近藤さんや土方さんは、武士になるという志があって浪士組に参加し、今に至っている。あの人たちは志があるからこそ、今がある」

それを身近で見てきたから、その言葉には説得力があった。

「きっと、そいつはどこかで間違ってしまったんだろうよ」

そう言って、斎藤は去っていた。

その後ろ姿を見送って、もう一度墓に向き直る。


『貴様とは違う!』


そこに、志島がいた。

ように見えた。目を擦って見れば、やはりあるのは墓石だけだ。

「……確かに、違うのう」

そう言って御坂は墓石を蹴り飛ばした。ただ重いだけの石は後ろに転がり、草むらの中へと消えていった。

「……わりゃ、おんしのようにはなってたまるかい」

吐き捨てるように呟くと、御坂もその場を去っていった。



日が昇ると、川はその陽によって照り輝く。

御坂はやり残した仕事があったことを思い出したが、別に慌てるようなことはしない。今日も坂口の説教に付き合えばいいだけの話だから。

いつものように吹かすシャボン玉は、朝日に照らされ消えていった。





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