―― 十二月十三日 ――

 半熟の目玉焼きをライスに乗せ、醤油をそそぎながら黄身を混ぜる。黄身と醤油が充分に混ざったら、箸先で白身を刻むようにぐちゃぐちゃ混ぜる。その上から、炒めたニンニクの芽を散らす。中継船で新鮮な卵を入手できたがゆえの贅沢だ。

 食堂室でメルヴィルにも勧めてみたが、泣きそうな顔で断られた。半熟の卵が苦手らしい。他の乗組員も、あまりいい顔はしなかった。あまり欧米人は半熟の卵を好まない。

 しかたなく俺は自室に戻り、手製の卵丼をかきこみながら、パソコンモニターへ目をやった。

 解像度の悪い映像に映るのは、懐かしい海上市だ。白い湯気の向こうで、今日も平井兄がラーメンをすすっている。フォークでぐるぐると麺を巻き取り、口の中へ送りこみつづける。その背後で、つまらなそうな顔をした少女が客から丼を回収して回っている。

 プラスチックの器を持ちあげ、平井の兄はスープをぐいっと一気に飲みほした。そして、からっぽになった器をこっちに向けて見せつけてくる。その自慢げな笑みを見て、何をしたいんだとぼやきたくなったが、その衝動は腹の底へ飲みこんだ。なんとも幸せな表情を見ていると、あきれた気持ちすら薄れていく。

「アーッ、常連サン! いつ帰るんダー?!」

 いきなりモニターに巨大な口が大写しになった。無意識で食われないように反射的にのけぞってしまう。

 すぐに口は遠ざかっていき、店主兼看板娘の眉をひそめた表情があらわれた。

「あの、まだ金田さんは目的地についてもいませんから……」

 平井兄が弱々しい声でなだめながら、店主をモニターから遠ざけようとする。

「ほら、あちらのお客さんが呼んでいますよ」

 ぶっちょうづらの店主は、鼻をひとつ鳴らして、フレームの外へ消えていった。

 ほうっと溜息をつき、平井兄がモニターへ向き直る。

「弟のことですが、やはり金田さんへの悪気があって黙っていたわけじゃないと思いますよ。アクシュネットは限界に近い少人数で活動している組織です。余裕がなかったのは本当でしょう。……たしかに昔はイタズラ好きで、よく困らされたものですが」

 そういって微笑む。本当に七福神のような笑顔だ。

「そうかな。まあ、今さら俺はどっちでもいいよ」

 俺も卵丼を食べ終わり、コップにいれた茶を飲む。

「それにしても、あんたが軍人だったとはな。それも海軍学校を出た士官というじゃないか」

 体型から考えて、あまり戦闘に向いているとは思えない。

 平井兄は両手をいっぱいに広げようとして、左右にいる客へぶつけてしまい、あわててフレームに収まる程度に両手を広げて苦笑いした。

「軍隊だって、けっこう普通の公務員組織ですよ。事務や経理の仕事だってたくさんあります。特に私みたいな中途半端な階級になりますとね」

「そんなものかね」

 一気に茶を飲みほし、俺はコップを見つめた。

 平井兄がモニターの中で、真顔になる。

「それで、今日はどのような用件でしょうか」

「……たいした用じゃない。さっきのことを確かめさせてほしかっただけさ」

「そうですか」

 ノイズ混じりの映像だが、平井兄の表情が納得していないということはわかる。

「なあ……本当は、そっちもエイハブを……」

 目を細めた平井兄を見て、俺は言葉を飲みこんだ。

 エイハブが本当に白豪主義団体だとして、本当にメルヴィルが恐れているような力があるのか。危機として直面しているアクシュネットにとっては、たしかに国家権力とも繋がりがある、大きな障害ではあるだろう。しかしアジア系オーストラリア人の平井兄が今も海軍士官であり続けているのだから、国家機関の全てが支配されているはずがない。そのことは初めて会った日にメルヴィルからも聞かされた。

 しかし、それ以上の背景を俺はかんぐっている。オーストラリアの軍や政府は、国の内部へ根をはろうとしている過激な団体を排除するため、アクシュネットを利用しているのではないか。そのために平井兄を使って、間接的に協力しているのではないか。

 ……だが、もし俺の考えが正しいとしても、平井兄が部外者へ真実をあっさり教えてくれるとは限らない。しかも平井兄がどのような回答をしても、俺に確かめるすべはないのだ。そして平井兄の背景で支援している者たちが誰であれ、俺たちの目的地が変わることはない。

 だから俺は、ふいに思いついた疑問を口にした。

「ホールシティーへ乗った時、ロゴス博士から昔話を聞いたんだが……」

 俺は博士と関係している国連の活動について、時間の余裕があればインターネットで調べた。しかしそれらしい情報が多すぎて、逆に特定することができなかった。アフリカの諸地域は今も分裂と結合をくりかえしていて、特に中央部は境界線があやふやな地域が多い。だが、平井兄なら何か知っているかもしれない。


 ホールシティーの奥底でロゴス博士が語った内容を語り終えると、平井兄は難しい顔をして考えこんだ。

「簡単な報告は受けていたものの、そこまでくわしくは聞いていません。そうですか、あの彼が傷ついて転向したと博士は思っていると……」

 モニターの向こうでうなっていた海軍士官は、ややあって顔をあげた。

 演じているような笑顔でも、威圧感を内包した真顔でもない。消化できないものをかかえている、そんな困惑した表情を浮かべていた。

「その彼に、私は会ったことがあります」

「彼とは……言語戦争をひきいていたという、軍最高司令官のことか」

 平井兄は彼の名前を口にしたが、うなるような口ずさむような発音で、どういう文字に置きかえられるかさっぱりわからなかった。現地でも珍しい名前だという。

「あれは二年ほど前のことでした。彼はすでに軍司令官の職を辞して、廃墟となった村の奥で、ひっそりと隠れ住んでいました。私が会いに行ったのは、彼がインド洋に出没している海賊の情報を持っているとされ、それを聞き出すためでした。結論からいうと、彼は海賊どころが、自分が支配していた地域の情報すら、ほとんど忘れ去っていました」

「なぜ隠れ住んでいたんだ。派閥争いで追放でもされたのか。それに、忘れたとはいったいどういうことだ?」

「彼はHIVに感染し、発症していました。私が会った時、すでに末期で、記憶障害を起こしていたのです」

 HIV……ヒト免疫不全ウイルス。感染力は弱いが、ひとたび発症すると完治は不可能に近く、人から免疫力を奪って病気への抵抗力を失わせる。AIDS、いわゆるエイズだ。

「そうか、アフリカでは今も蔓延していると聞くな。それに性行為で感染するから、特に紛争地域では……」

 その先は、あまり口にしたくなかった。戦争ではよくあることだ。

 一瞬、脳裏にメルヴィルの姿が思い浮かぶ。俺は頭をかいて、やくたいもない想像をふりはらった。

「つまりHIVに感染した絶望から、今さら聖人を気どったわけか。どうりで疫病を怖れずに患者にさわっていたわけだな」

 しかし、平井兄は首を横にふった。

「いえ、彼がAIDSを発症した経緯に、戦闘も暴行も直接の関係はありません。軍最高司令官として停戦を命じる直前、割れたガラス瓶を庭で踏んで、HIVへ感染したのです」

 ……何だと。

「つまり、戦争をとりやめたのは、ただ単に自分が不治の病をかかえたからなのか。死んだ時に天国へ入ろうと、あわてて善行を積み重ねようとしたってことか」

 そんなくだらない理由とは知らずに、ロゴス博士は衝撃を受けたというのか。いや、もっとくだらないこの真相を聞けば、さらに大きな衝撃を受けてしまうかもしれないが。

 だが、またも平井兄は首を横にふった。

「それほど簡単な話ではありませんな。案内人に導かれて私が会った時、彼は壊れたベッドに寝そべって、宙を見つめていました。その手足もまともに動かせない状態で、子供時代からの思い出を、とうとうと彼は私に語ったのです」


 それは、泥に埋もれた宝石のごとく見えたという。

 無数の地雷が埋まっている集落で、少年は産まれ育った。貧しい六人兄弟の末っ子だった。小さな住居に末っ子の寝床はなく、いつも家の外にハンモックをつるして寝ていた。

 ある日、枯れた草木が雨季を待ち続けている赤茶けた草原に、日光をあびてキラリと光るものが見えた。それを見た少年は、硬貨だろうか、それとももっと素晴らしい物だろうか、そういう興味をいだいた。すぐにハンモックから飛びおり、素足でぺたぺたと歩いていった。

 地雷原のただなかに踏みこみながら、少年は吹き飛ばされることなく、光るものに近づくことができた。それは無意識と偶然がなせるわざだったのだろう。

 間近から見おろすことで、少年は光の正体を知った。それは、ただ地雷の信管が地表に露出し、金属部分が陽光で輝いていたにすぎなかった。しかし地雷と知らずに、幼い好奇心にかられて指先を信管に近づけた少年の背後で、突如として爆音が鳴った。

 かわいらしいマスコットが描かれた、日本から輸入された軽トラック。その荷台に満載された男たち。壊れたマフラーが爆音を響かせ、男たちが奇声をあげる。

 農具や棍棒を手にした男たちはトラックから飛び降り、少年の村の人々を襲いはじめた。銃や刀ではなく、鈍器や鈍い刃で、苦しめながら少年の家族や友だちを殺してまわった。

 男たちは草原のまんなかで自分たちを見つめる少年に気づき、大挙して向かってきた。軽トラックも後退し、ハンドルを回して前進、少年に向かって突き進む。

 そして棒立ちになった少年の眼前で、さらに大きな爆音が鳴り響いた。土煙が巻き起こり、たくさんの男たちと、トラックが吹き飛んだ。ちぎれた手足と金属板が、ひらひらと空高く舞った。

 この時、少年は自分が「選ばれたのだ」と思った。

 少年は、ゆうゆうと地雷だらけの草原を歩いて戻った。トラックに残されていた貴金属や紙幣を手にして、無人になった村を捨て、混乱の続く都市部へと向かった。

 充分な元手を持った少年は、すぐに自警団をひきいるようになった。もちろん自警団といっても、威圧と暴力で弱者を管理しようとしていることは、独裁政権と何も変わらなかったが。

 暴虐の嵐が吹き荒れる都市部を、それ以上の暴力で少年は生き抜いていった。

やがて少年は首都をおさえた勢力にこわれ、長じて軍司令官の地位についた。


 軍の最高司令官となった彼は感染症が蔓延している集落をまるごと炎上させて処理した。鉱毒の被害を訴えようとしている者達が消されないように、訴えようとする動きをつぶした。

 そうして殺戮をくりかえし、広い屋敷を手に入れた司令官は、今は無き村を庭に再現した。そして木と木の間にハンモックをつるし、思い出にひたって昼寝をしていた。

 ある日、陽がかげった時、庭に目をやると、ふいに何かが光ったのが見えた。司令官はハンモックから起き上がり、あの日のように素足で、光るものへ向かっていった。粉々に割れたガラス瓶の破片でざっくりと足裏を切ったのは、その好奇心のためだった。

 ぬるぬると血がながれる足裏の感触をたしかめながら、司令官は「自分は選ばれてなどいなかったのだな」と思ったという。司令官が虐殺をやめることを決めたのは、その日のことだった。

 入院している最中に押しかけてきた神父が「私に告解することで彼は道を改めたのだ」と宣伝してまわったことを、ずっと後で男は知った。しかし特に訂正する気は起きず、逆に停戦へ協力するよう神父へ求めた。神父は、心からの純粋な宗教者であり、こころよく賛同した。


「……正確には、彼は足を傷つけた時ではなく、病院で輸血をした時にHIVへ感染したようだ。医療器具が汚染されていたか、血液に問題があったかまではわからないが」

「……本当なのかよ、その話は。だいたい、その時は記憶障害を起こしていたんだろう」

 平井兄は首を横にふった。

「わかりません、金田さん。私には何もかもわかりません。ただ、私はひとつだけ彼に説明しました。AIDS治療の現在について」

 ご存知ありませんでしたかと俺に問いつつ、話を続ける。

「たとえ発症しても、さまざまな寛解治療が可能になっており、別の病気にかからないよう気をつければ健康な人間と何も変わらないのです。これはアフリカでも、現在なら設備が整っていれば同じなのですが……」

 そこまでいって、平井兄は溜息をついた。

「しかし私の説明を聞いても、彼は表情を変えませんでした。まるで全てを知っていたかのように。その痩せこけた顔を見て、私は思ったのです。全てを知っていたのかもしれない、と。むしろ、あえて免疫機能が低下した体で感染症の患者を抱きしめたのかもしれない、と」

「……罰を受けるためか」

 平井兄は口をつぐみ、何も答えなかった。

 しばらくして、パソコンのモニターごしに、人々のざわめきが聞こえてきた。

 平井兄が視線をそらすようにして、周囲を見わたした。その背後に行きかう人々が見える。海上市は、今日も活気にあふれているようだ。

 モニターの向こうで、ぽつりと平井兄がいった。

「やはりロゴス博士は正しかったということかもしれませんな。人は人のことすらわからない。だからといって、探求することを止めるつもりはありませんがね」

 そういって平井兄は笑った。苦味を感じさせる笑みだった。


 それから二言三言やりとりして、俺は平井兄との通信を切った。少しばかり引っかかっていた旅の背景について、だいたい知ることができた。

 パソコンの電源を落とす。船体構造をとおして、懸命なエンジン音が響いてくる。食べ終えた器をかたづけながら、つぶやいた。

「……それでも俺たちは答えを探すさ。そうするしかないだろう」

 ジョン=フランクリン号は、まっすぐ目的地へと進んでいるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る