三章

―― 十二月九日 ――

 わたされたワタツミズのマニュアルを読み進めることに疲れ、インターネットでアクシュネットについて調べてみた。

 自室に持ちこんだ朝食のサンドイッチを食べながら、モニターへ目を走らせる。船内の個人向け回線は遅いが、調べ物にはさしつかえない。

 とりあえずアクシュネットの公式サイトを読んでも、単純でそっけない沿革が書かれている程度だった。しかし代表だったアブラハム=メルヴィルの名前と、さらにロゴス博士の名前をくわえて検索してみると、前身となる組織がアフリカ東部に存在したというニュースコラム記事が見つかった。エジプトではないところが心にひっかかった。

 次にどう調べようかと悩み、ふと思いついて言語学や文化人類学といった単語も組みあわせて検索してみた。現在の組織ではない前身の組織を調べるのだからと、ロゴス博士や海洋研究という言葉を残しつつ、アクシュネットという単語を抜いて検索してみる。すると、アフリカ大陸で海に面する地域に広い影響力を持つ、国際的な非政府組織が出てきた。

 漁網とネットワークを作るという意味をかけて、単純な英単語をそのまま組み合わせた巨大組織、ネットメイカー。漁業関係の非政府組織ということもあり、俺ですら存在くらいは知っていた。それが発展した経緯に、アブラハム=メルヴィル博士とロゴス博士の出会いが大きく関係しているという記述も見つかった。

 かつてアフリカ大陸は侵略者に征服され、植民地として山分けされた。ナイフでケーキを切るようにあつかわれ、今でも多くの地域が直線の国境で分断されている。自由をとりもどしていった過程でも、もともとの共同体はばらばらにされたままで、抱き合わせの独立をせざるをえなかった。支配者の都合で作られた枠ごとに格差が生まれたのでは、自由になった後でも何の問題も起きないはずはなかった。

 自治機能の崩壊、民主主義の形骸化、度重なる内戦……全ての地域がそうというわけではなかったし、ゆっくりと改善していたこともたしかだが、国際的な支援は多くが対症療法にとどまった。

 悲劇に直面していない者は、学校や報道で形ばかり知っただけで忘れていく。もちろん俺もその一人だ。しかしアブラハム博士とロゴス博士は違っていたらしい。


 始まりは、アフリカ東海岸の若い漁師が集団で考えた、漁獲量の自主規制だった。それを受けて、漁師のいる部族の長が自主的に地域を越えた対話を実行した。政府の知らないところで、水産資源を獲りつくさないよう連携し、部族内に通じる共通の決まりを作った。後から科学的に見ると、古くから言い伝えられた決まりを踏襲しただけで、科学的に見た資源保護の効果はほとんどなかったらしい。だが、部族間で対話ができる道筋が確保できたことや、実際に決まりを遵守できた経験という、着実な一歩を刻んだ。

 アフリカ東海岸での出来事に、インド洋で水産資源調査をおこなっていたアブラハム博士が着目した。さっそく入国した博士だが、部族へ既存の統計調査をわたして決まりを作らせるような拙速な手法はとらなかった。最初は漁師に漁獲高の記録を依頼し、出荷する水産物の量だけでなく、出荷できない魚介類の情報も集めた。次に部族内で高い教育を受けている者と協力し、えられた情報を統計処理する方法や意義を周知した。地域ごとの漁師が細かな報告を部族内に提示し、それにもとづいて部族長が議論しあうことで、アブラハム博士が持っていた情報よりも細やかな調査が行え、より説得力と効果のある規則が作られた。……そうか、これもまた部族という過去の統治機構が社会が進化するための遊びとして機能した、ということかもしれない。

 しかし海は一国のみで管理できるものではなく、すぐにアブラハム博士の活動は行きづまりかけた。そこでロゴス博士の出番となった。

 ロゴス博士は国連から雇われてアフリカで活動をしていた。国家内の言語対立で衝突や分断が生まれる、いわゆる言語紛争という問題の調停のためだ。ロゴス博士は、内戦を国家という共同体の分断でなく、異なる共同体である部族間の齟齬と解釈しなおして紛争が解決できた事例を集めていた。調停の参考とするためだという。その時に、アブラハム博士の活動を知った。ロゴス博士はアブラハム博士に接触し、部族間の対話ネットワークを国外へ拡張するアイデアを提示した。

 機能しない政府機関のかわりに、非政府組織が行政活動をおこなうことは、内戦に苦しむ国々で前例があった。ロゴス博士のアイデアにおいては、政府ではないという非力な立場こそが、国境を超越した協力を可能にできるアドバンテージとなった。

 もちろん、急に登場した見知らぬ者の甘い言葉が、簡単に信用されるはずはない。国連に雇われていたという履歴にしても、国連から何もしてもらえなかった人々には何の意味もない。

 そこでロゴス博士はアブラハム博士の助言にもとづき、国境を越えて似た言語を持つ部族の対話をとりもつインターネット用の機器を贈ったり、文化が大きく異なる部族間での対話を助けるコード体系を作り上げたり、各地域があらかじめ持っている接点を利用してネットワークを広げていく方法をとった。漁業に話題をしぼれば、人工言語的なコードを組むことは比較的に容易だったという。……なるほど、この時点でコードによる簡易な通信の成功体験が生まれたわけだ。

 利害関係を持たない人間には、長い対話を何度もおこなう動機はない。その心理を逆にいうと、近海で漁業をいとなむ人々には国際的な対話を続ける動機があるということだ。アフリカ東海岸の若い漁師が始めたことが核となり、異国から来た海洋学者と言語学者の協力を必要としつつも、おおむねネットメイカーは自主的に育っていった。

 海岸線にそって成長をつづけ、大陸の南端と北端にネットワークが達した時、すでに部族長の多くが一線を退き、アブラハム博士やロゴス博士もアクシュネットを立ち上げたり大学へ戻ったりしていた。設立者が退いても、もはやネットメイカーが崩れることはないくらいに完成したからだ。やがてネットメイカーはアフリカ全土をつつむほどに大きく、しなやかな存在となった。

 ネットメイカー自体は判断せず、限定された話題における利害関係者の意見を翻訳して媒介する、その基盤の整備と拡張に徹している。インターネットが理想的な言語空間と考えられていた時代の夢想が、現実化したような存在だ。

 そしてネットメイカーは大氷嘯後の現在も機能し続けている。他の大陸において領海が引きなおされ、経済水域の主権が争われている間にも、いちはやく水産資源の調査をかねた漁業を再開した。もちろん漁師間で様々な争いは起きたが、退いていた部族長が前面に出てネットメイカーの責任を負うことで漁業そのものは中止されずにすみ、多くの人々を飢餓から救った。ネットメイカーの硬直化や自己目的化といった問題も内外から指摘されているが、現在の世界になくてはならない存在であることもたしからしい。


 ここまで調べて、俺はため息をついた。

 とりあえず、ロゴス博士やアブラハム博士の人となりを簡単に知ることができた。ネットメイカー公式サイトの歴史年表に名前が記載され、設立初期にいた部族長からコメントを集めたページでも名前はあがっている。ただ、二人がサイトへ贈っているのは儀礼的な祝いの言葉だけ。仲介者であり助言者であるという姿勢を崩していない。それでいて、それぞれ求めていた海洋調査情報やアフリカ沿岸における部族言語の記録も行えていたのだろうから、利己的な学者としても間違いなく優秀だ。

 二人の博士が若い時にならんでいる写真も見つかった。白衣を着たスレンダーなアフリカ系の美女をはさんで、同じように白衣を着た中肉中背なアラブ系の男と、背広を着た鷲鼻の男がならんでいる。周囲には老若男女の研究者らしい人々がとりかこみ、誰もが笑顔を見せている。何かパーティーをもよおした時に撮影したらしい。アラブ系の男がアブラハム博士だ。キャプションによると、笑顔でありながら眼鏡の奥から厳しい目つきを見せている鷲鼻の男がロゴス博士となる。

 こうなると、ブルーへ入ったロゴス博士の奇行も、考え抜いてのことなのかもしれないという気がしてきた。ロゴス博士についてよく知る人物が、あまり騒いだり悲観したりしていないように見えるのも、これなら理解できる。

「会ってみるか」

 椅子に座ったまま背伸びをすると、ぎっ、と背もたれが鳴った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る