第49話

 小高い丘の上から、青空に映える白いギリシャの町並みを見下ろす。

 セロシアは膝を抱えたまま、ただ町並みを見下ろしていた。丘の下には、ひときわ白い建物。そして、その壁に赤い十字のマーク。病院がある。

 セルリアと、そしてもう目を覚まさない父がそこにいる。


 じわりと目に浮かんできたものをごしごしと擦る。

 悲しかった。父親のことよりも、セルリアが自分を見てくれないことがとても悲しくて、辛かった。


 自分の父親が死んだことはあまり悲しくなかった。母親が出て行ったことも、なぜかすんなりと受け入れられた。いつか、こんな風になるんじゃ、と思っていたから。


 でも――


「セルリア……」


 昨日、あれから泣き続けたセルリア。ずっと謝り続けていたセルリア。

 彼女が何に対して謝っていたか分からない。でも、いつもどんなことがあっても笑っていたセルリアが、あんなに大声で泣くのを初めて見た。

 そして今日も、ずっと塞ぎ込んだまま外に出ようともしない。


 いつも慰めたり、笑わせたりしくれるのは彼女だったから、セロシアはどうしたら良いのかよく分からなかった。

 けれど、あんなセルリアの顔は嫌だ。もっと、もっと、笑っていて欲しい。

 もう一度ごしごしと目を擦ると、セロシアは立ち上がった。そして、あたりに咲いている花を一生懸命摘み取っていく。

 あんな父親のために、セルリアが笑わなくなるのは嫌だ。あんな母親のために、セルリアが傷ついたままなのは嫌だ。


(あたしが、頑張るもん!)


 もう二人っきりだ。だから自分の力で頑張らなくてはならない。

 セルリアはずっと守ってくれていた。父の暴力が自分に向かないようにしてくれていたのだって知っている。だから、今度は自分が彼女を――。


「あたしが、セルリアを守るもん」


 大事な大事な半身。

 もう二度と、彼女を傷つけさせたりなどするものか。

 セロシアはそう心に決めて、摘んだ花を持って丘を駆け下りた。あの子に、笑顔を取り戻してもらうために。




   ※ ※ ※ ※ ※




 同時刻、丘の中腹に二人の奇妙な男性が立っていた。

 一人は体格がよすぎる大きな男。赤いひげと赤い髪が非常に印象的だ。

 そしてもう一人は、全身黒尽くめで長身の男だった。


「ったく、ギリシャまで来てたのかあいつは。北から順に回っていけよ」

「ハデス神にでも会いに来たんじゃないか?」

「げっ、俺あいつ苦手なんだよなぁ……ロキより大人だからよぉ」


 ミッドガルドへ行ったロキを追って、トールとヘイムダルはギリシャへと到達していた。当初ここを突き止めるまでに時間がかかったのだ。


「なんつぅか、ロキみたいなガキ臭さがないと言うか、むしろ真っ黒なものをひっくり返しても真っ黒で、中をあけても真っ黒、みたいな感じだろ?」

「たぶん、聞こえているぞ」

「げぇ!!」


 ハデスにとってはお膝元なのだから、筒抜けで間違いないだろう。

 そろそろ夕暮れも迫ってきたその時間。ヘイムダルはギリシャの町並みへと目を向けロキを探していた。もうここにいないのなら仕方ないが――


「いた」

「どこだ!?」

「海沿いのある崖の上だ。小さな遺跡が………………このまま真っ直ぐだ」


 詳しく説明しようとして、トールがなんだか顔をしかめたので指をさしてそう言った。きっと分からないだろうから。


「そうか、ありがとな!! 土産は買っていくからなぁ!!」


 走り出しながらトールはそう言って真っ直ぐ向かっていく。あのまま走って家の壁などにぶつからなければ良いのだが。

 それに、おそらく彼はもう、


(変な物を買ってくるな、と言ったことは忘れているな)


 予想はしていたことだが、やはりあの二人にはしばらく帰ってきて欲しくはない、と思った。

 ヘイムダルは軽く肩をすくめると、神界に戻ろうと身を翻す。その時、

 ドンッ!


「きゃっ!」

「っ!」


 なんだか軽い衝撃が足に当たり、次いで小さな叫びが聞こえた。見下ろしてみると、まだ五、六歳の少女が尻餅をついている。

 周りには、青やピンクや黄色の花が散っていた。


(子供?)


 坂を走ってきて勢いが止まらなかったのだろう。そのまま前にいたヘイムダルにぶつかったらしい。

 少女はハッと気づいたようにヘイムダルを見上げた。

 そのまま、なんともいえぬ沈黙が二人の間に落ちる。

 手を差し伸べて起こしてやれば良いのだが、なんだか少女の目が『そんなことするな』とで言っているように見える。

 しばらくして、少女の目がじんわりと滲んできた。

 さすがに起こそうかと思った矢先、少女はぐしぐしと目を擦ると、周りに散らばっていた花をかき集めて丘を駆け下りていった。


「………………」


 一体なんだというのだろうか。中途半端に差し出した手が、なんともマヌケなヘイムダルだった。


 彼は一度、ふうっと溜息をつき、ギリシャの町並みを振り返った。

 何か変な予感はあったが、どうやら稀有ですんだようだ。あとは、ロキ達が戻ってくるだろう三年ほど、平穏な時間がアースガルドに訪れるだろう。

 ヘイムダルはマントを翻すと、今度こそ帰るために丘を歩き出した。

 先程の少女とは、逆の方向へ。

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