第四章
第25話
今日、天使のような少年に出会った。たった数時間の思い出。けれど、セルリアの心を軽くするのには十分すぎるほどだった。
「セロシアにも話してあげなくちゃ。明日一緒に行けるといいな!」
すごく楽しい子だった。きっとセロシアも仲良くなれると思う。彼の話を聞いてみたいと思ってくれるはずだ。
明日も出かけられるようにしてみよう。父親の目を盗めば行けるかもしれない。そうしたら、きっとまたあの子と話ができる。
そんな風に思って、セルリアは町の坂道を上っていった。
天気は少し悪くなり、小雨が降り始めた。遠くで雷も鳴っている。
どんどん家に近づいて、ほんのちょっと怖さで足がすくむけど、今日の思い出があるから大丈夫だ。
セルリアはスピードを上げると、早く妹に会おうと気持ちをはやらせた。でも――
「セロシア……?」
「セルリアぁ……」
家の前に着くと、なぜか妹が扉の前で蹲っていた。その顔は涙でぐしょぐしょになっていて、セルリアを見つけると抱きついてくる。
「ど、どうしたの?」
様子のおかしさから、もしかして父親に閉め出されたのか、と思った。しかしその時、家の中から甲高い声が響いてくる。
『出て行くだ!? ふざけんじゃねぇ!』
『もう、うんざり! あんたと一緒になんて暮らしてられないわ!』
「お、母さん……帰ってるの?」
聞くと、セロシアは無言で首を縦に振る。
いつも朝早く仕事に行って、夜は帰ってくるところを見たことがない母親。数日帰ってこないこともしばしばだ。
(でも『出て行く』って……?)
父親は怖い。だっていつも殴られたりする。
母親は、分からない。話すことがない。触れることがない。見ることが少ない。だから、分からない。
でも、いなくなるのは嫌だ。
『男がいるんだろう! そいつんとこに行くんだな!? あのお荷物共をおいて!』
『アンタの子でもあるわよ!? あたしは生んだんだから、あとはアンタが何とかしな!』
親達の言葉に、セルリアはぎゅっとセロシアを抱きしめ返した。
(やだ……やだぁ……)
「とにかく、もうやってらんないわ!」
泣くのを必死でこらえた瞬間、目の前の扉が勢いよく開かれた。
竦んだセルリアと、母親の目が合う。母の肩には、大きな旅行バッグが提げられていた。
一瞬、母が双子を見て眉根を寄せる。だが、すぐに顔を背けて歩き出した。
「やっ、やだ! お母さん行かないで!」
咄嗟に、セルリアは伸ばした手で母の腕を掴んだ。
ピタリと歩みを止める母。でも――
パシッ
「あ……っ」
乾いた音と同時に払われる手。
「あんた達なんて……生まなきゃ良かった」
顔も見ずにただ一言。淡々とした言葉。
それが、母からもらった最後の言葉。彼女はすぐに歩き出し、人ごみに消えた。
「……セルリアぁ」
「っ!」
声をかけられ、びくりと肩が上がる。
泣きじゃくったまま目を真っ赤にした妹が、セルリアの服を掴んでいた。
「だ、大丈夫。大丈夫だよ! ね」
何が大丈夫かなんて分からない。でも、そう言わなければいけないような気がして、それ以外の言葉なんて思いつかなくて――
「てめぇら何やってる! さっさと入れ!」
父親の怒鳴る声がして、セロシアの頭を掠めるようにビンが飛んできた。ビンは扉の枠に当たり、粉々に砕け落ちる。
「きゃあ!」
「セロシア!」
驚いたセロシアが飛びついてきて、さらに扉が開く。中にいる父親と目が合った。
ギラついていて、顔は真っ赤で、いつもより何倍も怖い雰囲気。
「早く入って来い!」
そう言われたら、いつも素直に従って中に入っていた。だって、入らないともっと酷いことをされるから。
けれど、この時セルリアは直感した。
(入っちゃダメ!)
どうしてかなんて分からない。でも、素直に家に入ったら、大変なことになる気がした。今まで以上に、もっと怖くて、痛いこと。
「ぼさっとするな! また殴られてぇか!?」
父親がまたビンを振りかざす。足元にあったビンも幾本か蹴り、ゴロゴロとこちらに向かって転がってくる。朝から飲んだのだ。
従わなければ殴られる。でも従ったらもっと酷いことになる。父の目を見てそう考えたセルリアは、抱きしめていたセロシアの手をとり駆け出した。
雨はいつの間にか強くなっている。
「セルリア!?」
「ここにいちゃダメ!」
力いっぱいセロシアを引き、庭から外へ出ようとする。
「て、てめぇら!」
怒鳴り声と共に、顔を真っ赤にした父が手を伸ばしてくるのが分かった。
(捕まる!)
一生懸命走るけれど、歩幅も速度も違いすぎる。ぎゅっと目をつぶって、殴られることを覚悟した次の瞬間――
「うお!」
父の驚いた声。そして、ガッという鈍い音が庭に響いた。
二人して目をつぶって蹲ったまま、しばらく時が過ぎる。静寂の中で、雷の音だけが轟いていた。
「セ、セルリア……ねえ、セルリア。お、お父さん、倒れてる……」
「…………え?」
固まっていたセルリアは、妹にそう言われて恐る恐る顔を上げた。暗い庭に、家の明かりに照らし出されて倒れている父の姿。
その足元には、酒のビンが転がっている。
「お、お父、さん?」
呼びかけても、ピクリとも動いてくれない。
セルリアは震えながらゆっくりと近づいていく。セロシアも服を握ったままついてきた。
もしかしたら、眠っている振りをしているだけかもしれない。近づいたら殴られるかもしれない。そんな恐怖がある。
「お、お父……っ!」
近づいた瞬間、雷光が庭を照らし出す。セルリアは息を呑んだままぺたりと膝をついた。
父の目はセルリアを見ていた。見開いたまま、雨が入っても瞬きもせず。ただジッと。
そして、その頭は地面から突き出た小さな石の上に乗っていた。
赤い液体が、家の明かりに照らし出されて芝生を濡らしている。
「お、お父さん? お父さん!?」
手を差し伸べてゆすっても、その目はセルリアから外れない。でも、答えも返らない。
「セ、セルリア、お父さん、動かないよ……」
「あ、あ、ああ……」
どうして?
分かっている。だって、もう動かない。もう、生きてないから。
なぜ?
(だって、逃げたかったの。お父さんが怖くて、もうあんな痛い思いは嫌で。もう……だから、逃げたの。そうしたらお父さんが追ってきて、それで……)
「あ、あたしっ、隣のおばちゃん呼んでくる! お、お医者さんも!」
セロシアがようやく我に返って駆け出していった。でも、セルリアは動かない。
こちらを見つめる父の目を、ただ呆然と見つめ返す。
「わ、たし……」
カタカタと震える体が止まらない。
きっと自分のせいだ。
もっと早く帰ってきていたら、母は出ていかなかったかもしれない。ちゃんと家に入っていれば父は追いかけてこなかった。もっと庭の手入れをしておけば、きっと、きっと――
「ご、めんなさ……っ、ごめ、んなさいっ」
酷いことをした。自分のせいだ。なのに、どうしてだろう。ホッとしている。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさっ……」
セルリアは泣きながら、何度も何度も謝った。誰に許しを請うているのか分からない。きっと神様だって許してくれない。こんな醜い自分、許してくれるはずがない。
セルリアの泣き声と謝罪は、セロシア達が戻ってきてもやむことがなかった。何かに怯えたように小さくなって、いつも見せるような気丈な様子は微塵もなくて、セロシアの言葉に何も返せない。
雨音が強くなろうが、雷鳴が響こうが、セルリアの謝罪は悲痛な音となって響き続ける。
この日、小さな少女は初めて自分が怖いと感じた。父の死に安堵する自分に恐怖した。
だから、彼女は無意識にその日の出来事を全て心の奥にしまいこんだ。
誰にも知られたくないもう一人の自分と、楽しかったあの少年との一時も、一緒に。
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