2.
どうしてこうなってしまったのだろう――そう僕は思った。
勉強が終わって紗弥加姉は帰ったけど、片瀬先輩は帰らなくて。
時間はもう夜中。
僕のベッドに先輩がいて、
そして、
僕は別の部屋にいる。
……。
……。
……。
まぁ、こんなところか、僕じゃ。
発端は夕食のときに遡る。
勉強は午後六時過ぎに終わった。その後、紗弥加姉がひとり暮らし、先輩はお父さんが遅く帰ってくるので強いて早く帰らなくていいということで、そのままうちで夕飯にすることになった。
食事の内容は三人とも自炊してるため、それなりに豪華なものだった。
問題はその後だ。
まず紗弥加姉が本当にアーリータイムスを引っ張り出してきた。
僕はタバコに関してはうるさく言ってるが、お酒についてはあまり注意していない。百害あって一利なしなタバコよりはマシだし、十八歳なら許容範囲だろうと思うからだ。
紗弥加姉にそれを勧められた先輩は文句を言いながらもなぜか渋々飲みはじめ、グラス片手に他愛もない話に花を咲かせていた。
が、何となく先輩がよく笑うなぁと思ったあたりから嫌な予感がしはじめた。
と言うか、今思えばその時点ですでに手遅れだったような気がしないでもない。
しばらくは陽気にアーリータイムスを飲んでいたのだけど、それがなくなると途端に半眼で睨んできた。
「……」
何も言わないのが怖い。
今お酒を切らせるとこの身に様々な不幸が降り注ぐような気がして――仕方ないので僕は冷蔵庫の中にあった缶のフルーツカクテルを持ってくることにした。
(おいてあったアルコールが軒並みなくなってたら、母さん不審に思うだろうなあ……)
なんて思いながらも似たようなことを繰り返し、三本目の缶を持って戻ってきたとき、
「ありゃ?」
僕は思わず声を上げた。
先輩は合わせた掌を頬に当てソファの肘掛けに倒れ込んで、紗弥加姉はソファの上であぐらをかいたまま背もたれに頭を乗せた状態で、ふたりはそれぞれ眠っていたのだ。
「ふたりとも勝手だよなあ……」
「あっついなあ……」
汚れた空気で星も見えない夜道で、紗弥加姉は心底鬱陶しそうに言った。
六月も末だと湿度も高く、日が暮れても吹く風は生暖かくて、酔い覚ましにもならないようだ。
「で、いいのかよ? アレ、ほったからかしにしてきて」
「先輩? 大丈夫でしょ。爆睡してたし、ちょっと出てくるってメモ残しておいたから」
僕は今、紗弥加姉を駅まで送っている最中だった。
ふたりとも徒歩だけど、僕はマウンテンバイクを押していた。最初はステップに乗せて走るつもりだったのだけれど、当の紗弥加姉が歩きたいと言い出したのでこうして押して歩いている。
片瀬先輩は家を出るときもまだぐっすり眠っていた。僕が帰って起きていたら、もう少し後には同じ道を先輩と歩いていることだろう。
ふと紗弥加姉が口を開いた。
「あいつ、お前のことを未来の旦那だとか言ってたけど、それってマジか?」
「うわあ、先輩、紗弥加姉にも言っちゃったんだ」
まぁ、紗弥加姉は身内だし、別にいいんだけど。
ほかに知ってるのは一夜と円先輩くらいか。
「冗談なら冗談で早く言っとけ。ちょっと冗談につき合ってやってるつもりでも、向こうが本気だったりしたら大変だぞ。はっきり言った途端、騙した何だで刺されるぞ」
「怖っ」
それはちょっと洒落にならないな。
でも、先輩がいくら
「だから、そうならないうちに早く言っとけって話」
「わかってるよ」
言うべきことは言っておかなくては。
先輩の勢いに圧されて、言いそびれてることはいくつもある。
「もうここでいい」
気づくと駅前のロータリィに差しかかっていた。
「そう?」
「ああ、早く愛しの片瀬センパイのところに帰ってやんな。……じゃ、おやすみ、那智」
「うん。おやすみ、紗弥加姉」
僕の返事を背中で聞きながら、紗弥加姉は足早に駅に歩いていった。
その姿が駅を出入りする人混みの中に消えるまで見送ってから、僕はマウンテンバイクの向きを変えた。
さて、次は先輩だな。
「ただいまー」
ひと声かけてから玄関を上がる。
別に先輩がいるからというわけではなく、ただの習慣だ。この春からひとり暮らしで帰ってきても誰もいないのが常だけど、わざわざこの習慣にストップをかけようとは思わない。
先輩がいるはずのリビングへと向かう。
「先輩、起きてますか? 起きてるんなら………☆×■◎※△!!!」
声にならない悲鳴が口から漏れる。
反射的に飛び退いて、ドアに背をぶつけた。そのまま体がフリーズする。視覚情報の整理に膨大な演算能力を取られて、ほかの作業が止まってしまっているらしい。
結論から言うと、先輩はまだ寝ていた。
先刻と同じように、仔猫のように丸くなってソファに寝ている。
唯一違うのは、また服を脱いでいたことだ。
女の人がつけるブラジャーの延長みたいなデザインのトップス。いつぞやのタンクトップよりは生地が厚そうだけど、露出度が高くて心臓に悪い。
(いや、ホント、勘弁して欲しいよなぁ……)
紗弥加姉も大概だけど、あれはあれでもう慣れた。つき合いも長いし。だけど、先輩は別だ。先輩なら剥き出しの背中を見ただけでも心臓がバクバクする。
(それに僕だって……って、ダメだダメだ)
頭を振っていろんなものを追い払う。
まずは起こして、とっとと服を着てもらわないと。僕は足音を立てないように近づいた。
「せ、先輩……?」
小さく囁くように呼びかける。
起こさないとと言いながら、やってること全てのベクトルが正反対を向いている。これじゃよろしくない目的で忍び寄ってきたみたいだ。だいたい起こさないようにしたいなら、まずは自分の心臓を止めるべきだろう。こいつがいちばんうるさい。
兎に角、起こさないと。……本日二度目の決意だな。
「先輩、先輩」
呼び掛けてみても反応はない。
一瞬迷った後、トップスの肩紐の部分に触れて、揺らしてみる。
「先輩ってば、起きて下さい」
「う、う~ん……」
「っ!?」
反応があったらあったで、逃げ出しそうになった。
やがて先輩は眠そうに目をこすりながら身体を起こし、それこそ仔猫みたいな欠伸をひとつした。
「おはよ……」
「そういう挨拶は目を開けてするものです。しかも、今は夜だし」
「じゃ、おやすみ」
再び倒れ込む。
「寝るなっ」
「にゃあ……」
「寝ちゃダメですってば。ほら、もう九時過ぎてますよ。早く帰らないと」
「ヤダ。帰りたくなぁい……」
もの凄い問題発言だな。
でも、この場合、ただ単に眠いだけだろうけど。
「そんなわけにいかないでしょう。家の人が心配しますよ」
「大丈夫。さっき電話したから。今日は友達の家に泊まるって」
「……」
何だ、その段取りの良さは。
「まったく、もう……」
呆れてため息が出る。
とは言え、むりやり起こしたところで帰れそうもないのが現状だ。僕にできることは駅まで送ることくらいで、送った後はどうするよって話になるし。それ以前にこんな軟体動物、自転車に乗せて走れないぞ。
結局、うちに泊めるのがベストではなくともベターなのだろう。
(要は僕自身の問題なんだろうさ)
嘆息再度。
「わかりました。母さんのベッドを用意しますから、それ使って下さい」
なかなか英断だな。
長期不在のため布団を片づけていた母さんのベッドを準備してリビングに戻ってくる。先輩はやっぱりソファで眠っていた。
「先輩、用意できましたから、上で寝て下さい」
だけど、反応なし。
なるほど。先輩は酔うと陽気になって、その後、猛烈に眠くなる人なんだな。と、納得したところで、このままにしておくわけにもいかない。
相変わらず風邪ひきそうな格好だし。
「先輩、片瀬先輩ってば。そのままじゃ風邪ひきますよ」
「何ですって!?」
めちゃくちゃ元気だった。
予備動作もなくむっくり起き上がってくるその様はちょっとしたホラーだ。
「前から思ってたけど、那智くんってひどいわ」
と、先輩。
目が半眼なのは眠いからか、それとも機嫌が悪いのか。僕は経験上、後者のような気がしてならない。
「な、何がでしょう……?」
「わたしは那智くんの彼女で、恋人で、婚約者で、未来の奥様で、ハニィなわけよね?」
「は、はぁ……」
いちばん最後のは意味不明ですけどね。
「それなのに他人行儀に『片瀬先輩』なんて言うのはおかしいと思うの」
「そこに辿り着くわけですね。それはただ単にそう呼ぶ以外なかっただけで、特に深い意味は……」
「『円先輩』、『ゆこりん先輩』、『紗弥加姉』……。何だかわたしだけ距離を感じるわ」
先輩は拗ねたようにそう言う。
「じゃあ、どう呼べば?」
「ふふん~♪ ……司ちゃん」
一気に飛んだな、おい。
「いや、それはどう考えてもマズいでしょう」
「そうかしら? わたしは気にしないけど?」
「ええ、まぁ、今の先輩はそうでしょうけどね。きっと明日の先輩と僕が気にします」
「え~、つまらな~い」
そう言って口を尖らせる姿はかわいいけど、世の中、できることとできないことがある。
「とは言え、僕だってね、先輩がそんなふうに思っていたことに関しては反省してるんです。だから、まぁ、『司先輩』あたりで、許して下さい」
「んー………」
先輩はじっと僕を見つめてくる。
こっちもわりかし思い切ったこと言ってるつもりなんだけどな。今まで当たり前だったことを変えようとするのは、なかなか難しいことだ。こと人間関係において、しかも距離を縮めようとするなら尚更だ。
そして、先輩は言う。
「ええ、いいわ。それで手を打ちましょ」
ほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、おやすみ……」
「寝るなーっ」
結局、先輩に二階へ上がってもらうのに、それから三十分かかった。
まだ酔いが残っているのか、足取りが怪しく、階段なんか見てるだけでハラハラしたが、そのわりには落ちそうで落ちなかった。
そうして父さんたちの寝室に押し込む。
「そっちの母さんのベッドを使って下さい。お風呂は入れるようにしておきますので、いつでも遠慮なくどうぞ。僕は部屋にいますから、何かあったら呼んで下さい。いいですね?」
僕がそう言ってる最中にも先輩はベッドにうつ伏せに倒れ込んでいて、僕が言ったことに片手を挙げて応えた。本当にわかってるんだか。
「ま、いっか」
このまままた眠りに落ちそうな勢いだったので、僕は挨拶もせずにそっと部屋を出た。
廊下を進み、父さんの書斎の前を通って自分の部屋に戻る。自室のドアを閉めてようやく人心地ついた気持ちだ。
「「はあぁ~~」」
盛大にため息を吐く。
ふたりで。
「って、何で先輩もいるんですかっ!?」
なぜか先輩もついてきていて、僕の横に立っていた。
コントか。
先輩はふらふらと吸い寄せられるようにベッドに向かうと、そのままぼふっと倒れ込んだ。
「那智くんのベッド~」
「……」
変態だ、変態がここにいる……。
「ああっ、もう、わかりました。先輩はそこで寝て下さい。僕が向こうで寝ますから」
とか言いながら、もう一度同じことを繰り返したら、それこそコントだな。
電気を消して部屋を出る。
と、そのとき――、
「那智くん」
今までとは打って変わってはっきりとした声だった。
振り返ると、ベッドの端に腰をかけている先輩がいた。
廊下から差し込む灯りだけの薄い暗闇に、先輩の姿が浮かび上がっている。それは少し妖しくて、いつもより綺麗だった。
目が、離せない。
「那智くん。ねぇ、そばにきて……」
艶のある蠱惑的な囁き。
その声に僕は為す術もなく従い、足が前へ進む。
先輩のすぐ目の前――の、その一歩後ろ。手を伸ばしても届かない距離。
そこがギリギリのラインだった。
だというのに、
先輩は身を乗り出すと、僕の手を掴んで引っ張った。
「うわっ……」
僕と先輩はふたりしてベッドに倒れ込んだ。
「うふふ~。つかまえた~」
「え~っと……。これはどういうことでしょう……?」
いったいどうやったのか僕がベッドの上に仰向けに寝ていて、先輩は僕の顔の左右に手をついて上から見下ろしていた。
「男の子が部屋に女の子を入れてしまったんだから、押し倒されても文句言えないわよね?」
「そ、そりゃまた積極的な女の子の理屈ですね」
普通は逆だろう。
「でもね、先輩――」
そう言いながら先輩の両肩に触れる。
そして、体を入れ替えるようにして、力を入れて引っ張った。
「きゃっ」
小さな悲鳴の後、僕と先輩の位置がきれいに入れ替わっていた。今度は僕が先輩を見下ろしている。
「僕だって男なんですよ」
「うん……」
先輩は優しく微笑んだ。
僕は先輩の目を見たまま続ける。
「先輩、僕、早く先輩に言わないといけないと思ってたことがあるんです。僕ね、先輩と一緒にいられることが嬉しいんです。そして、これからもずっと一緒に生きていくって約束をしたことも。……まぁ、どこまで本気になるかわかりませんけど。先輩ばっかりはしゃいでますけど、僕も同じ気持ちなんですよ」
「那智くん……」
先輩が目を閉じる。
先輩の瞳に魅せられていた僕の目は、今度は自然にその唇へと移った。
そうするのが当たり前であるかのように、僕はゆっくりと顔を寄せる。そして、もう数センチで唇が重なるというとき――、
「すぅ……、すぅ……」
「寝るのかっ!」
思わず額にチョップして力一杯突っ込んだ。
先輩は一瞬、眉を寄せて苦悩するような顔をしたが、それでも起きる気配を見せなかった。
ちょっと面白かったので、もう一回やってみる。
「うぐ……」
やっぱり起きない。
「まったく……」
ため息を吐く。
いったい今日何度目のため息だろうな。
仕方ないのであまり揺らさないように注意しながらベッドを降りた。机の上のメモ帳を破り、いくつか走り書きをしてベッドの横に置いておく。
「おやすみなさい、司先輩」
そして、僕は部屋を出た。
朝――、
父さんたちの寝室で寝ている自分に気づいて、ようやく昨日のことを思い出した。
先輩はどうしただろうと思いつつも、部屋は覗かずに階下に降りた。普段ならリビングへ行くのだけど、階段を下りている最中ダイニングキッチンほうで人の気配を感じたのでそちらに行ってみた。
当然だけど先輩がいた。
「あら、おはよう」
「お、おはようございます」
キッチンに向かって何やらやってるわりには先に先輩から、しかも背を向けたまま挨拶を投げかけてきて面食らった。
「もしかして朝ご飯ですか? そんなの僕がやったのに」
「気にしないで。昨日、泊めてもらったでしょ? だったらこれくらいはしないとね。ほら、もうすぐできるわ」
「あ、じゃあ、顔洗ってきます」
僕は引き返して洗面所に向かった。
風呂場手前の脱衣場を見ると、どうやら先輩はお風呂を使ったようだった。昨日、部屋に残したメモに、お風呂にはいつでも入れることと、新品のタオルを用意してある旨を書いておいたので、それに従ったのだろう。
顔を洗ってキッチンに戻ってくると、もう食事が並べられていた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
まずはトーストにかぶりつく。
普段、とりあえずご飯を炊いて、後はテキトーに何かを添えてすませていることがほとんどな僕にとって、こうした洋風の朝食は新鮮だ。
「あ、そうだ、司先輩。もう大丈夫なんですか? 昨日はけっこう酔ってたみたいですけど」
「え……?」
突然、先輩は手にトーストを持ったまま動きを止めた。
「……」
「……」
「……」
「な、那智くん、今、何て……?」
長い沈黙の後、先輩は恐る恐る聞いてきた。
「『けっこう酔ってたみたいですけど大丈夫ですか』?」
「じゃなくて、その前」
何だかえらくベタな会話だな。
「司先輩」
「司先輩1?」
僕の言葉に間をおかず、先輩がオウム返しで言葉を繰り返した。
「いや、そんなに驚かなくても……。昨日、そう呼ぶことにしようって決めたじゃないですか」
「え?」
「え?」
「……」
「……」
「え、ええ、そうだったわね」
先輩は宙に目を泳がせながら答えた後、なぜか斜め下を向いて考え込んでしまった。そうしてやがて、にや~っと笑い出した。
それからも先輩はしばらくにやにやしていたが、もうそれについては触れないことにした。
「それにしても――」
先輩が口を開く。
「こうして那智くんと朝ご飯を食べてると新婚みたいだわ」
「そうかもしれませんね」
僕は努めて事務的に返す。
「あら、面白くない。那智くんならもっと照れてくれると思ったのに」
「あのねぇ……」
やはりからかうつもりで言っていたのか。
まぁ、本当はそんなことを真面目に考えると恥ずかしくて仕方ないから、思考にフィルタをかけて考えないようにしてるのだけど。
「ねぇ、那智くん?」
「はい?」
「次に迎える一緒の朝は、もっと特別なことがあった朝かしら?」
僕は飲んでいたカフェオレを思わず吹き出しそうになった。むりやりそれを飲んだ後、咳き込んでしまう。
「そういう反応、那智くんらしくてかわいいわ」
どうやらこれには大いに満足したようで、先輩はくすくすと笑っている。
僕の精神鍛錬が足りないのだろうか。
それとも、僕は一生こんな感じにからかわれるのだろうか?
それだったら嫌だな……。
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