挿話 Who's that Boy? (2)

 時間は遡り、

 二月某日。


 その日は聖嶺学園高校の入学試験の当日だった。


「うあ゛……」


 試験開始三十分前、遠矢一夜の横で小さな悲鳴が上がった。見ると隣の席の男子生徒が自分の筆箱を覗いて硬直していた。


「消しゴム忘れた……」


 悲鳴の理由はそれらしい。


(マジか。こんなポカミスかますやつ、本当におると思わんかった……)


 ある意味、新鮮である。


 彼はそうとうショックだったらしく、そのまま机に突っ伏してしまった。


 一夜は改めて彼を見た。

 小柄で可愛らしい顔立ちの少年。彼を見て一夜は、最初、年下かと思ったが、ここは高校受験の会場。そんなはずはない。ならば、これでも自分と同い年なのだろう。


「……」


 ここで無視するのは簡単なのだが、何となく放っておけない気分だった。

 仕方なく一夜は自分の消しゴムを半分に切った。


「……やる」


 投げた半分の消しゴムは机で跳ねて、伏せている男子生徒の頭に当たった。


 彼は弾かれるようにして起き上がると、机から転がり落ちそうになっていた消しゴムをすんでのところで掴み取った。なかなかの反射神経だ。


「いいの?」


 彼は消しゴムを握りしめ、聞いてきた。


「かまわん。ただし、なくすなよ。それ以上は面倒見きれん」

「うん。助かるよ。ありがとう!」


 そう礼を言いながら、彼は眩しいほどに満面の笑顔を見せた。





 それから半月ほど経ったある日――、


 一夜は大型書店で本を探していた。


 祖父の書斎にはまだまだ未読の本があるのだが、一夜が書斎に出入りするのを義母がよく思わないので、こうして買いにきているのだ。


 書架に並ぶ背表紙を指でなぞりながら興味をそそられる題名を求める。


 と、そのとき――、


「あ~~~~っ!」


 辺り一帯に響き渡る絶叫。


 こんなところで叫ぶのはどこのアホだ、と思いながら首を巡らせると、少し離れた場所にこちらを指さして立つひとりの少年がいた。


 それは聖嶺学園の入試会場で出会った忘れん坊だった。


「キミはあのときの親切な人!」


 そう言ってから彼はこちらに駆け寄ってきた。


「……」

「あぁ、よかった。また会えた。あのとき、お礼を言おうと思っていたのに、気がついたらキミ帰ってたからさ」


 そう言って彼は嬉しそうに笑顔を浮かべる。


「ね、それってサングラス?」


 今の一夜はレンズに薄いブルーの色がついた眼鏡をかけていたので、それが彼の興味を引いたのだろう。低い背で一夜の顔を見上げながら聞いてきた。


「いや。……かけてみるか?」


 彼の興味津々の顔が眼鏡をかけてみたいと訴えていたので、一夜は思わずそれを差し出した。


「え? いいの? じゃあ、かけてみるね。……うわ、くらくらする」

「当たり前や。それ、度入っとるからな」

「そっか。……どう、似合う?」


 そう言いながら彼は顎を引き気味に上目遣いで一夜を見つめる。


「……」


 似合うか似合わないかで言うなら、似合わないと答えるしかないだろう。ただ、その様子は子どもが背伸びしてサングラスで格好つけようとしているようで可愛らしい。そういう意味では似合っているかもしれない。


「……かもな」

「ホント!? じゃあ、僕が眼鏡かけるようになったら、こんなのにしようかな。……はい、ありがと。返すね」


 一夜は帰ってきた眼鏡をかけ直した。


「で、何か用か?」

「あ、そうだった。消しゴム貸してくれたお礼を言おうと思ってたんだ。ありがとう。おかげで今日、合格通知が届いたよ。特進クラス、無事合格っ」


 彼は嬉しそうに笑う。


「そらよかった。……そうか、今日やったんか。朝から家出てたんでわからんかったわ」

「キミも合格してたらいいね」

「まあ、でも、俺は通常クラスやから、同じクラスになる可能性は欠片もないけどな」

「む。それは残念」


 彼は口をへの字に曲げた。


「あぁ、そうだそうだ。もうひとつ忘れてた。消しゴム返さないといけないと思ってたんだ」

「そんなもんええわ」

「いや、それじゃ僕の気がすまない。新しいのを買って返すよ。え~っと……。ごめん、まだ名前聞いてなかった。僕は千秋那智」

「……遠矢一夜」

「よし、じゃあ、遠矢。さっそく文具コーナーへGOだっ」


 そう言って一方的に決めてしまうと、千秋と名乗った少年は一夜の腕に自分の腕を絡ませて、むりやり引きずるように文具コーナーへ歩き出した。





 家に帰ると合否の通知はまだきていなかった。遅くとも明日に届くだろうと思い、多少気になりながらも離れの自室に戻った。


 それからしばらくしてドアがノックされた。


「一夜さん、お電話です。何でも聖嶺学園の学生課とか」


 流麗な京都弁は義母のものだった。


「……すぐに行きます」


 その一夜の返事に対する返答はなかった。


 部屋を出ると母屋と離れを結ぶ渡り廊下の先に義母の背中が見えた。追いつかないように距離を取って歩く。


 程なく母屋に辿り着き、受話器を取った。


『遠矢さんでしょうか? こちら聖嶺学園高校の学生課事務所のものですが――』

「何かありましたか?」


 合格にしても不合格にしても合否通知ですむはずだ。こうして直接電話をかけてくるような事態を一夜は想像がつかなかった。


「はい。先日の入試なのですが、実は遠矢さんの成績が非常によかったため特別進学クラスの方へ繰り上げ合格にしたいと思いまして。もし遠矢さんがそちらをご希望されるのでしたら、そのように手配いたしますが……」


 ああ、そういうことか。一夜はようやく納得した。


 一夜は中学の担任にも今の成績ならば特進クラスを充分に狙えると言われていた。だが、それでも通常クラスを受けたのは特進クラスの授業時間の多さが嫌だったからだ。


 それを考えればこの話も断るべきなのだろう。


 だが、このとき頭に浮かんだのは、昼間会ったばかりに千秋那智の顔だった。


「……」


 少し考えてから一夜は答えた。


「せっかくなので、特進クラスでお願いします」







 今ひとつ意味の感じられない入学式が終わり、遠矢一夜は教室に戻ってきた。尤も、この教室に入るのは初めてなので、戻ってきたという表現は今日だけは正確ではない。


 黒板に張られた座席表を見て自分の席を探す。順に辿っていると、先に千秋那智の名が現われ、直後に自分の名があった。席は前後に並んでいる。


 千秋那智――


 彼とは、入学試験のときに席が隣同士となり、その後、街の書店でばったり再会した仲である。一夜から見て彼は、無闇に明るくて子どもっぽく、そして、わけもなく気になる存在だった。本来希望していなかったこの特別進学クラスに進んだのも、彼がいるからだと言っていい。


 その千秋那智が教室に入ってきた。


 一夜同様、黒板の座席表を見てから自分の席へと向かう。席に辿り着く数歩手前でついに一夜に気がついた。


「ああっ! キミはあのときの親切な消しゴムでサングラスの人!」

「……」


 その言い方は大雑把すぎるが間違っていないこともない。正確な表現に戻すには訂正箇所がありすぎてどこから指摘したものか迷い、結果、黙り込んでしまった。


「えっと……」

「……遠矢」

「ああ、そうだったそうだった。遠矢だったよね」


 そう言うと那智は机の上に鞄を投げ出し、椅子に横向きに座った。


「遠矢って通常クラスじゃなかったっけ?」

「繰り上げ合格。入試のときの成績がよかったらしいな」

「うおぉ、マジ? すごいなぁ」


 那智は盛大に感激した。


 どうやら彼はその時どきの感情を表現することに躊躇いのない性質らしい。反対に一夜はそれを表にすることを好まないたちである。


「僕はどうだったんだろ? 点数が出るわけじゃないからわからないけど。きっとギリギリ合格だったりするんだろうなぁ」

「入ってしまえばそんなもん関係ないわ。繰り上げもギリギリも補欠合格も一緒。いちいち言わん限りわからん」

「そりゃそうだ」


 一夜の言葉に同意すると、那智は子どもっぽい笑顔を見せた。


「因みに、特典は?」

「……もれなく入学金免除」

「げ。それってほとんど特待生扱いじゃん」


 今度は目を丸くした。本当にころころと表情がよく変わる。


「ホンマの特待やったら学費も免除になっとるわ」

「いや、それでもタダになる額は大きいよね。バカにできない」

「そうか?」

「そうかって……。もしかして遠矢の家って、お金持ち?」

「らしいな」


 思わず吐き捨てるように言ってしまった。

 一夜にとって家の話題はどう転がっても面白いものにはならないので、どうしてもそれが態度に出てしまう。


 しかし、那智にはそこは気にならなかったらしい。


「なに、その無関心さ」


 代わりに目が向いたのはこちらだった。


「俺、愛人の子やから」


 一夜はさらりと言った。


「母親が死んで、父親のところに引き取られたのがちょっと前。そんなんで家に愛着も感心もあったもんやないわ」


 しかし、これはイーコール一夜が父親を軽蔑しているという意味ではない。正妻に隠すことなく堂々と愛人を三人も作っている男ではあるが、正妻ともども愛人たちもしっかり養っているし、できた子に愛情を注いでもいる。勿論、それが立派だとは思わないが、軽蔑するつもりもない。


「それはまたちょっぴりハードな感じの家庭の事情だよね」


 那智は困ったような顔をして苦笑いを浮かべた。


 直後、担任の教師が入ってきて、一夜の高校初の那智との会話は打ち切られた。





 それから数日後の昼休み――、


 一夜はいつも通り家から持ち出してきた文庫本を読んでいた。昼休み終了の予鈴五分前のことである。


「遠矢、遠矢。ついに見ちゃったよ」


 やや興奮気味に那智が教室に戻ってきた。一夜の前の自分の席に、これまたいつも通り横向きに腰を下ろす。


「UMAでもおったか?」

「そんなんいるかっ。……まあ、もうすぐUMAの域に到達しそうなでぶ猫はいるけどね」

「ほう」

「いや、それはおいといてさ」


 開始直後に早くも脱線の兆しを見せた話を、那智は自ら元に戻した。


「片瀬先輩だよ、片瀬先輩。知らない? 今日初めて見たけど、すっごい可愛いの。もう人形みたい」


 そう言うと少し前に見た映像を頭の中でリピートしているのか、那智は夢見心地な表情を浮かべた。


「……それ知らんかったわ」

「うそっ!? けっこう有名な話だよ。知ってるやつは入学前から知ってて、片瀬先輩目当てに受験したってのだっているらしい。しかも、先輩、受験日当日に何かの用事で学校にきてて、うっかり見てしまった生徒が試験に手がつかなかったって話だ」

「やっぱりUMAか」


 そこまでいくと立派な都市伝説である。


「失礼なこと言うなっ」


 那智がやけ喰ってかかる。


「いいから一度見てみろって。損はないから」

「興味ない」


 那智の言葉を突っぱねるように一夜は応えた。


「えー、何で? 女の子が気になったり、好きになったりしない?」

「しない」


 またも一夜は間髪入れず返した。


「前に言うたやろ? 俺の家の話。そのせいで周りからあまりええ扱いは受けてこんかったしな。そんなんで他人に興味なんか持つ気にもならんわ」


 愛人の子だ何だと後ろ指を差されてきた一夜は、小学六年のときに母親と死別すると、地元の旧家であり事業家の父親に引き取られた。しかし、そうなったところで今度は嫉妬とやっかみが加るだけで、陰口を叩かれることには変わりはなかった。


「あー、そりゃ軽い人間不信だね。気持ちはわかる。半分くらいは」


 那智は腕を組んで、うんうん、と頷いた。真剣なのかそうでないのか判じがたい態度である。


 そして、当然、一夜はそれをふざけていると判断した。


「……わかられてたまるか」

「いや、わかる」


 しかし、那智は一転して鋭い口調で言い返してきた。

 互いの主張が真っ向から対立し、しばし睨みあう。


 やがて――、


 すっ、と那智が顔を寄せてきた。まるで内緒話をするように声のトーンを落とし、口を開いた。


「実は僕は捨て子だ」

「……」

「疑うなら教会に聞いてくれてもいいぞ。僕、あそこに小五の途中までいたから」


 そこまで言って那智は離れた。


「幸い僕は最初から親の顔を知らないから、遠矢みたいに死に別れることもなかったけど、差別と偏見はあった。そこは一緒だ」


 だから、気持ちはわかる。と、そう繋がるのだろう。


「でもさ、周りにそういうやつがいたからって自分以外の人間をひと括りにするのはどうなんだろ。敵と同じくらい味方はいると思うんだよね。実際、僕はそうだったし」

「……」


 なんなんだ、こいつは。――それが一夜に素直な感想だった。


 親を知らないから死に別れる辛さも知らない。だから、自分の方がまだマシだと言うのか。そんなバカな。どう考えたってそっちの方が不幸ではないか。


 その那智が周囲に味方を見出せるのなら、今まで自分は何だというのだろう。


 一夜にはそれができなかった。

 周りは程度の低いやつらばかりだと、そう決めつけてしまった一夜には、そういう考えに及ばなかった。考えることすら放棄していた。


「……」


 そこまで考えてようやくわかった。


 那智は、一夜がなれなかったものだ。

 一夜がならなくてはいけなかった姿を、似た境遇である那智はしっかりと捉え、それになっていたのだ。だから、彼は一夜のように斜に構えることなく、まっすぐに世間に、己の境遇に向き合って生きているのだろう。


 だが、それがわかったところで、だ。


「今さらそんな気にならんわ」

「諦めるの早っ。この歳でもう諦めるのかよ。見た目は年上っぽいのに、中身はさらに老成してやがるな、さては」

「……ほっとけ」


 確かに今さら周囲に対する見方を変えようとは思わない。


 だが、この新しい環境で出会った級友だけは大事にしたいと思う。彼を自分以上に大事にできたなら、そこから何か変われるような気がするのだ――。

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