2.

 那智くんはひとまずは三日間の謹慎となった。正式な処遇については、その間に行う職員会議によって決められる。


 ただでさえ担任教師への暴力事件なのに、那智くんが殴った学年主任兼生活指導の尾崎先生はかなりの力をもっているため、最悪の場合、退学もあり得る。そうおしえてくれたのは、職員会議に参加したわたしの担任の先生だった。


 そして、火曜日の今日、那智くんが学校に呼ばれ、その処遇が言い渡されることになっていた。





 わたしは一日千秋の思いでこの日を待ち、今日学校にきてからもひどく緩慢に感じる時間の中で一日を過ごした。


 そうして放課後――


 わたしは校門付近で那智くんが出てくるのを待っていた。時間はもう五時を過ぎて、那智くんが学校に呼ばれて一時間以上が経っている。話がこじれているのだろうか。


(最悪の場合、か……)


 そのときはわたしも、と思っている。


 那智くんがああいう行動に出たのはわたしのせいだ。自分のことは何を言われても耐えていたのに、根拠のない卑劣で品のない中傷がわたしに向けられた途端、那智くんは逆上した。わたしのために、と自惚れるつもりはない。ただ単に耐えかねていたものがそこで爆発しただけだろう。でも、わたしがいなければそういう事態は避けられたかもしれない。そう考えれば、やはりわたしのせいと言える。


 来客者用の玄関にようやく那智くんの姿が見えた。一緒にいるのはお父様とお母様だろう。那智くんもこちらに気づき、ひとり先に駆け寄ってきた。


「先輩、わざわざ待っててくれたんですね」


 久しぶりに会った那智くんの顔は、いつもと変わらず明るかった。少しほっとする。


「うん。それで、その……どうだったの、結果は」


 わたしが聞くと那智くんはピースサインを出し、にっこり笑った。


「無罪」

「それ、違う」


 思わずおでこを叩く。


 笑顔を見せるから最悪の処遇は出なかったのかと期待すればこれだ。しかも、こんな冗談が飛び出すから安心かと言えば、そうとも言い切れない。この子は笑いながら「退学でしたー」とか平気で言いそうで怖い。


「それで、本当はどうなの?」

「五日間の停学ですみました。だから、週明けから学校にこれますね」


 安堵のため息が漏れた。


 思わず那智くんを抱きしめたい衝動に駆られたが、それは理性で抑えた。何せここは学校で、それ以上に那智くんのご両親がおられるのだ。


「お父様とお母様?」

「うん。ガラスを割ったときは何とか勘弁してもらったけど、さすがに今回はね」


 言ってるうちにおふたりはもうそばまできていた。


「あなたが片瀬さんですね。息子から聞いていますよ。いつもお世話になっているようで」


 お父様が軽く頭を下げる。


 那智くんのお父様はもう初老と言っていいお歳のように見えた。髪には白いものが混じりはじめているが、それを上手く使って整えてある。背も高く、落ち着いた雰囲気のおじ様だった。老紳士という言葉が自然と頭に浮かぶ。


「いえ、こちらこそ。それにこのたびはわたしのせいでこんなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「そんなことありませんよ。第一、どんな理由があろうと手を出した那智がいちばん悪いのですから」


 そう言ってお父様は微笑む。安心できる笑顔だ。


「ええ、その通り。あなたが気に病む必要などどこにもありませんよ」


 今度は隣のお母様だった。


 お母様は、お父様に比べればまだ若いようだったが、それでも高校生の子を持つ親としてはいくぶんか歳がいってるだろう。和装が似合っていて、お父様と並ぶに相応しい素敵な方だった。同じ女としてこんなふうにきれいに歳をとりたいと思う。


「まったく、私の育て方が悪かったのでしょうか」


 と、ため息まじりのお母様。


 那智くんのようないい子を育てながら、それでも育て方が悪かったなんて言い出したら、世の親のほとんどが海より深く反省しなくてはならなくなる。犯罪者の親なんか切腹ものだ。


「今はお仕事で家から離れていらっしゃると聞きましたが、やはり今日のためにこちらへ?」

「ええ、そうです。あ、いや、仕事が忙しくてゴールデンウィークにすら戻ってきてやれなかったので、ちょうどよかったですよ。休みを取る口実ができましたからね」


 途中からわたしに気を遣ってくれているのがよくわかった。それでもそれを心苦しく感じないのはお父様の人柄なのだろう。


「あなた。そろそろ」

「ああ、そうだな。……そうだ、片瀬さん。よろしければうちに寄っていきませんか? こんな時間まで那智を心配して待っていてくれたのです。ここまま帰らせるのも失礼だ」

「いえ、でも……」


 助けを求めるように、ちらりと那智くんを見る。それを受けて那智くんも何か言いかけていたけど、それよりも早くお母様が口を開いた。


「そう言えば以前にうちの那智がそちらでご馳走になったとか。なら、何かお返しをしませんと。これはお夕飯を張り切らないといけないかしら?」

「これで決まりですな。……みんな門を出たところで待っていなさい。すぐに車を取ってこよう」


 そう言うとお父様は足早に来客者用の駐車場へと向かった。あまりの展開の早さに、わたしは呆気にとられる。


「すみません、先輩。父さんも母さんも強引で」

「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど」


 でも、不思議と悪い気はしない。


 それにもう少し那智くんと、彼を育てたお父様とお母様と一緒の時間を過ごしてみたかった。





「古い家で驚いたでしょう?」


 応接室でお父様が苦笑交じりに言った。


 那智くんの家は洋館風の邸で、確かに古さを感じる。最近の家と比べれば不便だろうと思う部分も多々あった。例えばリビングとダイニングキッチンが完全に分かれて別室になっているので、こうしてお茶をするだけでも大変だ。実際、先ほどからお母様が何度も行き来している。何か手伝おうと思うのだけど、あなたはお客なのだからと笑いながら言って、何もさせてもらえない。少し申し訳ない気分だった。


「この家は那智がうちにきたとき購入したのです。そのときに一度は改築したのですが、やはり古いのはどうにもなりませんね」

「いえ、でも、素敵なおうちだと思います。もちろん、お世辞ではなくて」

「そう言って頂けると嬉しいですよ」


 お父様は本当に嬉しそうに笑みを見せた。


 ここはそれまでふたりで生きてきた夫婦が、新しい家族のために買った家なのだ。そう考えるとそれだけで大きな歴史のような気がした。とても温かい。


「ご覧の通りここは古いですが、広さだけは無駄にありましてね。那智の遊び場のようになって困りましたよ」


「おかげで怪我ばかりしてましたねえ」


 お母様も思い出を語るようにしみじみと言い加える。


「また余計なことを。恥ずかしい。……まぁ、一時期、月イチでどこかから落ちてたけどね。木に登って落ちて、塀を乗り越えようとしてまた落ちて、屋根に上っては転がり落ちて。あと、階段落ちもやったかな。最上段から」


 階段落ちって、池田屋じゃあるまいし。


 指折り数える那智くんの話を聞いていると、彼がやんちゃ坊主だったことがよくわかる。よくもまぁ今まで大事に至らなかったものだ。那智くん、君はスーパーマンか。


「おじ様、よろしければもう少し那智くんの話を聞かせてくれませんか?」

「せ、先輩、何を――」

「ええ、喜んで」

「父さんもっ」


 あっちを向いたりこっちを向いたり、変な流れを止めようと那智くんは必死だ。その気持ちはわかる。わたしだって自分を話題に盛り上がられたら嫌だ。でも、ここはわたしの好奇心のために我慢してもらおう。


「さて、何から話しましょうか」


 お父様がそう言い出すと、那智くんは観念したようだった。ソファの上であぐらをかいて、口はへの字に曲がっている。


「私たちと那智が出会ったのは、この子が小学生のころでした」


 しばし思案してからお父様は話をはじめた。


 それはわたしがいちばん聞きたかった話だった。出会ったきっかけや家族になるまでの経緯。それがわたしは知りたかった。


「ある日、私は道を歩いていて気分が悪くなり、蹲ってしまったのです。そこに通りかかったのがこの子でした。那智は私が動けないと知るや否や、道路に飛び出して体を張って車を止めました」


 それを聞いてわたしは思わず吹き出していた。


 いかにも無鉄砲な那智くんがやりそうなことだと思った。


「その車に乗せられ運ばれたのがあの教会でした。那智は言うのです。『ここが僕の家だよ』と。自分の境遇に引け目を感じることなく、屈託のない笑顔でね。それからすぐに私たちの交流がはじまりました。休日にこの子を家に招いたり、妻とふたりで教会に足を運んだりもしました。教会に行くとね、たくさんの笑顔が見れるのです。その中心にはいつもこの子がいました」

「ええ。それはよくわかります」


 わたしがそう言うとお父様は微笑んだ。自慢の息子を誉められた父親の笑顔だ。


「那智はね、うちにくる前からそういう子だったのです。素直で、真っ直ぐで、生い立ちなどまったく気にしない明るい子です。私たち夫婦はこの子の人格形成に何ひとつ関わってませんよ。最初から那智は那智でした」


 前半はおそらくそうだろうと思っていた。後宮さんも、那智くんはそういう境遇でも真っ直ぐ育ったと言っていた。

 だけど、後半は強く否定したい気持ちが残る。今の那智くんがあるのはお父様とお母様がいてこそのはず。この素敵な夫婦の愛情によってきっと那智くんの中に何かが生まれているはずだから。


 お父様は話を続ける。


「そうしているうちに私たちはこの子を引き取りたいと思うようになりました。もう薄々気づいているかと思いますが、妻は子どもの産めない体なのです」


 わたしは黙って頷いた。


 お父様の言う通り、わたしは何となく察していた。このように子どもに対して優しい顔を向けられる夫婦に子どもがないのは、特に経済的不安がないのならば後はそういう理由しか考えられない。


「子どものいない私たちにとって那智との出会いこそが天からの授かりもののようなものでした。ですが、この子を引き取りたいと願うことは、同時に大きなわがままでもありました」

「そんな。どうしてですか?」


 そう願うことはごく自然なことのように思う。


「先ほども言ったように、那智が教会の中心にいたからです。傍目から見ても施設の子どもたちに与える影響は大きいとわかるのに、そこからこの子を連れ去ることは罪悪感にも似た辛さがありました」

「……」

「それでも私たちは決断しました。もうほかには何も望まないつもりで、一生に一度のわがままを通させてもらったのです。教会の先生も、きっと神様も許してくださるでしょうと言ってくれました」


 当たり前だ。そんなことも許してくれない神様ならいなくて結構。魂を対価に三つも願いを叶えてくれる悪魔のほうがよっぽどマシだ。


「那智と出会って一年。ついに私たちはこの子を新しい家族として迎えることができました。……そこに写真があるでしょう。それが当時の私たちですよ」


 お父様は書架の中にある写真立てに目を向けた。


「見せてもらってもよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」


 わたしは立ち上がり、木製の写真立てを手に取った。


 そこには今よりも少しだけ若いお父様とお母様、そして、小さな那智くんが写っていた。那智くんを真ん中に、三人でソファに座っている。


「それは那智が私たちの子どもになって、初めて我が家にきた日に撮ったものです」

「記念なんですね」


 わたしはそれを持って再びソファに座った。隣に座る那智くんにも写真を見せる。


「かわいいわ、那智くん」

「そりゃ子どもだから」


 やはり恥ずかしいのか写真から顔を背け、不貞腐れたように素っ気なく言った。


 今もかわいいし、今も子どもだと言ったらきっと怒るだろう。


「その日から那智は私たちのことを 『お父さん』 『お母さん』 と呼んでくれました。なぜだと思いますか? 頻繁に交流があったとは言え、赤の他人をそう呼ぶのはなかなか難しいことだと思いませんか?」

「それだけおじ様たちが慕われていたということではないでしょうか」

「それもひとつの理由でしょうね。ですが、それ以上に私たちがそう望んだから、この子はそれに応えたのだと思っています。きっとあの年でもう人の顔色を窺ったり、場の空気を読んだりすることに長けていたんでしょうね」

「……」


 もしそうならそれは賢いと同時に不幸なことだ。そうならざるを得ない環境があったということなのだから。


「……違うよ」


 それまで黙ってお父様の話を聞いていた那智くんが口を開いた。


「僕は、例え頼まれたって、やりたくないことや嫌なことまでしようとは思わない。僕は父さんと母さんが本当の親になってくれることが嬉しかった。だから、そう呼ぶことに何の抵抗もなかったんだ」


 そうきっぱりと言う那智くんは、やはり恥ずかしいのか、あらぬ方向に顔を向けて誰とも目を会わせないようにしていた。


(ああ、この子は……)


 やっぱりいい子だ。


 わたしはご両親の前なのに、思わず那智くんを片手で引き寄せ、その頭を静かに撫でた。愛おしいと思う気持ちがあふれてくる。


「那智くんは、優しいね」

「ちょっ、ちょっと先輩……!?」


 那智くんが傾いた姿勢のまま戸惑ったように抗議してくる。だけど、お父様とお母様は何も言わず、そんなわたしたちを目を細めて見ていた。


 決してそれに気をよくしたわけではない。

 それはごく自然に発生したもので、周りから見て多少奇異に映ろうが通例的なものの観点から例外に分類されようが、今のわたしには何ら関知しないし、その言動を阻むものではない。


 だから――


 だから、わたしは那智くんを放してその言葉を口にした。


「おじ様、おば様。那智くんをわたしにくださいっ」


 横で、那智くんがひっくり返っていた。

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