3.

 さて、それから少し日にちがたった土曜日――


 聖嶺学園は悪名高きゆとり教育のころから、土曜日も毎週授業を行っている。と言っても、三時間だけだけど。


 今、僕はその三時間の授業を終えて、一夜とともに帰宅しようとしている。が、上靴から革靴に履き替え、昇降口を出たところで声をかけられた。


「おーい、那智ー。なーっち。なったーん。おーい」


 いろんな呼び方で僕の名前が連呼される。


 こんな賑やかな人を僕はひとりしか知らない。しかし、辺りを見回してみてもその姿はどこにもなかった。


「上よ、う~え」

「上?」


 言われた通り上を見上げると、三階の教室の窓から顔を出している四方堂円先輩がいた。今から部活なのか、クラブのジャージ姿だった。


「いいものあげるから、ちょっとこっちおいで」


 そう言って手招きをする。


 円先輩に『いいものあげる』なんて言われると、何となく警戒してしまう。


「ほいっ」

「? ……うわっと――」


 近寄ると何かを投げて寄越してきた。それは小さなもので、けっこう近くにくるまで視認できず、キャッチする段になって慌てた。


 掌に収まったのは五百円硬貨だった。


「ポカリとウーロン。なっちも好きなの買っといで。遠矢っちもね。釣りはとっといていいから」

「つまり、円先輩は僕にパシれとおっしゃる?」

「そういうこと。タダでって言ってるんじゃないんだからいいでしょ? アタシら、第二体育館に行ってるんで、そっちに持ってきてくれたらいいから」

「……りょーかい」


 肩をすくめてから僕はそう答えた。


「ああ、それから、体育館に入るときはシューズね。上靴はダメだから」


 円先輩はつけ加えると、ニヤニヤ笑いながら手を振って僕らを送り出した。





「お人好し」


 食堂に向かって歩いてると、早速一夜に文句を言われた。

「あんなもん無視れ。わざわざ引き受けてやる義理なんかあるか」

「まぁ、いいじゃないの。たいして面倒な用事でもないし。それくらい頼まれてもさ」


 僕はなだめるように言い返す。


「今から帰ろうかいうとこ呼び止められて、せっかく履き替えた靴をもっかい上靴に戻して食堂行って、今度はシューズ持って体育館行くののどのへんが面倒でないねん」

「……」


 マズい。一夜が不機嫌モードに突入した上、いつもとは逆に口数が増えてる。最悪のパターンだ。片瀬先輩の丁寧語並にマズい。ここはさっさと用事をすませて帰るに限る。僕は歩く足を速めた。


 そして、食堂――


「ポカリにウーロン茶、と。……どうしよう? ホントに僕らの分も買っていいのかな?」


 食堂の隅の自販機でまず頼まれたものを買う。それからふと手を止め、後ろに立つ一夜に聞いてみた。因みに、校内の自販機は学校価格なので外のよりも安い。五百円なら四本買ってもお釣りがくる。と言っても、二、三十円くらいのものだけど。子どものお駄賃だな。


「かまうか。パシりの報酬としてもろとけ」

「それもそうだね。じゃあ、僕はコーラにしようっと。一夜はどれにする?」

「……コーヒー。下の段の左から二番目のやつ」


 指定された缶コーヒーを買って一夜に渡す。円先輩の注文の品を左手に、右手には僕のコーラを持つ。後はこれを体育館に届けて任務完了。一夜の不機嫌度がこれ以上増大しないうちに終わらせてしまおう。


 途中、再び昇降口に寄って体育館用のシューズを取ってから目的の場所へと向かう。


「一夜、何だったら先に帰っていいよ。お腹すいてるでしょ?」


 そう、僕らはまだ昼食をとっていない。今日は土曜日なので弁当を持ってきていないのだ。僕が引き受けた用事で一夜まで帰宅を遅らせるのは悪いと思ったのだけど、


「もうちょっとつき合うたるわ」


 とのことなので、ふたりして体育館へと向かった。


 前にも言ったかもしれないけれど、第二体育館はバスケットボール用の造りになっている。だから、近くまでくるとバシンバシンという、あのボールをつく特有の音が聞こえてきた。


(あれ? てことは、円先輩ってバスケ部?)


 そんな疑問を頭に浮かべながら中を覗くと、円先輩と他数名の部員がいた。まだ練習時間前のようで、思い思いにシューティングをしている。


「あ……」


 そして、僕は気づいた。体育館のステージ前に片瀬先輩がいることに。


 その姿を認めて呆けていると、先輩も僕を見つけたらしく、胸の前で小さく手を振ってきた。


 こういう思いもよらない場所でばったり出くわすと、どうしていいのかわからず戸惑ってしまう。まぁ、先輩と遭遇して慌てなかったことのほうが少ないけど。


「さーんきゅ、なっち」


 今度は円先輩だ。入り口で立ち尽くしている一夜と僕を見つけて寄ってきた。


「円先輩ってバスケ部だったんですね」

「そうだよ? 知ってると思っていちいち言わなかったんだけど」

「知りませんでした。……あ、これ」


 言いながらポカリとウーロン茶を差し出す。が、円先輩はポカリだけを手に取った。


「そっちは司のだから。アンタが渡してやって」

「ええっ!?」

「『ええっ』じゃなくて。ほら、あがったあがった」


 ここはあなたの家ですか?


「なるほど。最初からこういうつもりやったんやな」


 僕の横で、今まで黙っていた一夜がようやく口を開いた。


「バレたか。鋭いね、遠矢っち」

「つき合うてられん。さき帰るわ」


 そう言うと一夜は踵を返し、背中越しに手を振りながら帰っていった。


「なぁに、あれ?」

「さあ? お腹すいてるのかな?」

「お腹すくと遠矢っち、不機嫌になるの?」


 そんな性質があるとは本人からは聞いていない。まぁ、そうでなくても、ここのところ機嫌悪い率うなぎ登りだけど。


「あ、そうそう。ちょっとアタシにつき合ってよ、なっち」


 と、円先輩は僕を誘導するように歩き出した。僕はシューズに履き替え、その後を追う。向かった先は、案の定というべきか、片瀬先輩のところだった。


 歩きながら、片瀬先輩を見てから落ち着きがなくしている心をどうにか静める。何も緊張することなんかないとわかっているのだけど、未だにこのていたらく。


 すぐに片瀬先輩のもとに辿り着いた。


「ど、どうぞ。……先輩もバスケ部だったんですか?」


 最初に言う言葉を決めてシミュレーションまでしていたにも拘わらず見事に噛んだ。


 そんな僕の心の動揺など知る由もなく、先輩は笑って答える。


「まさか。円に見にこいってむりやりつれてこられたの」

「円先輩が?」


 その張本人に目を向けると、ちょうどポカリを飲んで水分補給を終えたところだった。


「よーし、なっち、一対一やろうぜぃ」

「何で僕が!?」

「ケチケチしない。この前、昼休みに見てたけどさ、なっち、けっこう巧いじゃん。いい勝負になるんじゃない?」


 昼休み? ああ、スリー・オン・スリーやったときか。

 そう言えば、あのとき円先輩もあの場所にいて、一夜と何か話してたな。未だに話の内容は謎だけど。


(ついでに片瀬先輩の前で大恥かいたのも思い出しちゃったよ……)


 なにせ顔面直撃、転倒のコンボだものな。


「身長と体格の差、男女の基本的な身体能力の差、ぜんぶ引っくるめて差し引きゼロってとこでしょ?」


 こっそり落ち込んでる僕の横で、円先輩が指先でボールを回しながら言う。


「つまり、先輩は僕よりタッパがあってガタイもいいので、男には負けないぞ、と」

「てめ、この!」

「わあ、暴力反対! 暴力反対!」


 口は災いの元。飛びかかられて、ヘッドロック喰らいました。


 まぁ、円先輩が僕より背が高いのはまぎれもない事実。体格もいいが、同時にしなやかさも感じる。ついでに言うとスタイルもよろしいようで、ヘッドロックなんか気軽にかけないでほしいと思う。何その暴力的な凶器。


「どうしよっかな……」


 いろんな意味で危険なヘッドロックから解放されても、僕はまだ勝負を受けるか決めかねていた。


「逃げるんだったらさっきの金返しなさいよ? 当然、遠矢っちのもね」

「わかりました。やればいいんでしょ、やれば」


 円先輩のほうが二八倍くらいケチです。


 渋々準備をはじめた。ブレザーを脱いでネクタイを外し、カッターシャツの袖をまくる。脱いだブレザーとネクタイはまとめてステージの上に置いた。


「円先輩と勝負することになっちゃいました」

「ふうん。よかったね」

「……」


 な、なんだあ?


 ブレザーを置くついでに横にいた片瀬先輩に話しかけたら、えらい素っ気ない口調の返事が返ってきたぞ。しかも、心なしか口を尖らせて、そっぽ向いてる気がする。


 あっちもこっちもわけのわからない展開に首を傾げながら、とりあえず準備運動をはじめた。


(円先輩、最初から相手させるつもりでシューズ持ってこさせたんだな)


 靴紐を固く結び直しながらそんなことを思っていると、頭の上から声が降ってきた。


「円、バスケ部の主将だから」


 片瀬先輩だった。

 やっぱり素っ気ない口調。つーか、先輩、真後ろに立つのやめて。怖いから怖いから。


「マジでぃすかー?」

「うん」


 これはまいった。中学時代に女バスの主将だったという宮里(通称サトちゃん)とは辛うじて互角だった。単純にそれがさらに高校バスケで鍛えられたと考えても、確実に円先輩のほうが実力は上だろう。


「円先輩、ボール貸してください」

「あいよ。アップは念入りにね」


 準備運動に続いてボールを使ったウォーミングアップに入る。


 まずは軽くランニングシュート。次にセットシュートの感覚をつかむためにフリースロー。最後にスリーポイントシュート……は、ハズレ。悔しいのでリバウンドをタップで放り込む。……まぁ、こんなものか。


「先輩、いいですよ」

「んじゃま、やりますか。うちの練習が一時からだけど十五分前には集まるから、実質十分少々ってとこかな」


 なら、攻守交代して各三本ずつくらいか。


 一対一はその名の通りの勝負。スリー・オン・スリーのような競技やゲームでも何でもなくて、主にゴール前の一対一を想定した練習のひとつである。


 僕はリング正面のスリーポイントラインに立ち、円先輩がその僕と向かい合うような位置に立つ。


「司にいいとこ見せなよ」

「……」


 言われなくてもそのつもりだけど、いちいち言われたくはない。


 僕は黙ったまま片手でバウンドパスを出し、先輩もすぐにそれを返してくる。こうしてボールを一往復させるのは、はじめる前の挨拶や合図、儀式みたいなものだ。


 円先輩はボールを返すとともに間を詰めてきた。僕はフェイクを入れて円先輩を振り、すぐさま出した脚を戻してシュート体勢に入る。


(うわ、速っ……)


 さすがと言おうか、円先輩の動きは僕が予想している以上に速かった。もうすでにシュートコースを塞いでいたのだ。が、チェックに跳んでしまっている以上もうこっちのものだ。僕は脇を突破してレイアップシュート。先輩が着地して振り返ったころには、すでにボールはリングを通っていた。


「那智くん、すっごーい!」


 片瀬先輩の口から歓声が上がった。


 いや、まぁ、名誉挽回、汚名返上のつもりでいいとこ見せようとは思っていたけど、ここまで感激されると、正直照れる。


「おーおー、やるねえ、なっち。軽いお遊びのつもりだったのに、二度もフェイク入れたりしてさ。いきなり全開じゃない。てゆうか、速いわ。やっぱ男子と女子の違いってやつ?」

「すいません。ムキになっちゃって」

「いいよいいよ。そのかわりアタシもこっからは本気だから」

「……」


 怖いことを言う。





 いや、もう惨敗だった。

 これでもかというほど、完膚無きまでやられた。


 結果的に僕が取ったのは最初の一本だけ。要するに、円先輩が本気出したら僕なんか相手にならないいうことなのだろう。


「ホント、速いの何のってさ。こっちはついていくのがやっとよ?」


 というは円先輩の弁。よく言うよ。シュートもドリブルもまともにやらせてくれないし、挙げ句、むりやり撃ったシュートは外れて、リバウンドはすべてゴール下で競り負けた。完敗だ。


「いい刺激になったわ。またつき合ってよ」

「丁重にお断りします。何度やっても勝てそうにないし」

「なっちって意外とケチ」


 僕より四百九十六倍くらいケチな人に言われたくない。


「お、もういい時間ね。あたしがいつまでも部外者と遊んでたら示しがつかんわ」

「じゃあ、わたしも帰るね」


 そう言ったのは片瀬先輩だ。


 先輩はもう床に置いていた鞄を持っていて、円先輩が「おう、じゃあな」と返すと、にっこり微笑んで去っていった。


 ふたりでその後ろ姿を見送っていると、バン、と背中を叩かれた。痛い。


「追っかけなくていいの?」

「へ? でも、あまり近づくとマズいし」


 そのあたりの事情は円先輩も知るところのはず。


「面白くないやつ」

「と言われましても、ね」


 僕は床に腰を下ろし固く結んでいたシューズの紐を解きはじめる。


「まったく、せっかくのアタシの厚意をアンタは……」

「厚意?」

「そ。わざと知らん振りしてるふたりを近づけてみたら面白そうじゃない?」


 それのどこが厚意だよ? いらんお世話だぜ。





 時刻は午後一時前。


 帰ったら二時近くになっているだろうから、途中でスーパーに寄ってお昼と、ついでに夕食の材料も買って帰ることに決める。今、冷蔵庫に何が入っていたっけ? と、思い出しながら靴を履き替え、昇降口から出ようとすると――


「円と仲いいんだ……」

「わあっ!?」


 下駄箱の陰、死角から声をかけられた。


 跳び上がるほど驚き、情けない悲鳴を上げながら振り返ると、下駄箱にもたれて立つ片瀬先輩がいた。不貞腐れたようなふくれっ面とジト目で僕を見ている。


「せ、先輩?」

「『なっち』『円』の仲だもんね」


 いやいや、誰も呼び捨てにしてませんがね。


「あれは円先輩が『四方堂先輩』じゃ呼びにくいだろうからって……」

「しかも、あんなにくっついちゃってるし」


 先輩は僕の言葉を遮るように続ける。てか、そもそもこっちの話なんか聞いてないっぽい。


 くっつく? あのヘッドロックのことかな? あれはただ単に円先輩が乱暴で暴れん坊なだけだと思うけど。


「変な噂たてられても知らないんだからね」


 そう言うと口を尖らせて、ぷい、とそっぽを向いてしまった。体育館でもそうだったけど、あのときよりも酷くなってないか。


「あー、えっと……もしかしてまた何か怒ってますか?」

「怒ってません!」


 三六〇度どこからみても怒ってますね、ハイ。


 ただ、いつもと違うのは面と向かって言わない上に、口では否定してることだ。


「それにね――」


 まだありますか。


「わたしが応援してあげてたのに、全ッ然気がついてなかったでしょ」


 うげ。それは気づかなかった。


 結局、また僕が悪いわけね。僕のばか、まぬけ、いかでびるっ。


「……すみません。僕、夢中になると周りが見えなくなるみたいで」


 さすがにこればかりは素直に謝るしかない。


 すると、先輩はきょとんした顔で僕を見た後、ふぅ、とため息をひとつ吐いた。


「もういいわ」

「?」

「那智くんが一生懸命になるとそうなるって知ってるから」


 いちおう許してもらえた、のかな?


「あ、那智くん、ネクタイ曲がってるわ。直してあげる」

「え? ああ、さっき外したときかな? 自分で直す……ぐえっ」


 ネクタイ直す振りして、首締められました。まだ怒っていらっしゃるようです。


「ふーん、だ」


 そう言って先輩は歩き出した。また拗ねたような顔をしているが、さっきまでとは違って険のある感じではない。きっと言うことを言って僕の首を絞めて気がすんだのだろう。


 昇降口の扉まで進んだところで先輩の足が止まった。


「那智くん、帰らないの?」


 そして、振り返る。


「や。一緒にいたらマズいかなって」

「あ、そうか」


 今やっと気づいたように言う。


 大丈夫かな、先輩。自分が注目されてるって意識が薄いんじゃ……と思っていたら、周りをきょろきょろと見回しはじめた。


「この時間だと残ってる人も少ないみたいだし。一緒に帰ったらダメ、かな?」


 片瀬先輩は少し上目遣いな感じの視線で、恥ずかしそうに聞いてくる。


 破壊力満点。

 その表情は反則だと思う。


 今度は僕がきょろきょろする番だった。確かに辺りに生徒はいない。帰る人は皆帰って、残ってる人は部活に出ているのだろう。


「ま、まぁ、今ならいいんじゃないですか?」

「よかったぁ」


 喜ぶべきは僕のほうだろう。だって、もう少し片瀬先輩と一緒にいられるのだから。けれど、そこでひとつ思い出す。


「あ……」

「何? どうかしたの?」

「僕、帰りにスーパー寄らないと」


 我ながらせっかくの機会に何を言ってるのだろうと思った。まるで一緒にいられない理由を探しているかのような、本心とは真逆の行為。


「何か買って帰らないと昼も夜も食べるものないんですよね」

「え? もしかして、那智くん、ひとり暮らしだったの!?」

「うん。生活力のない父さんの転勤に母さんがついていっちゃって」

「ふうん。そうなんだ」


 そう言うと先輩は顎に人差し指を当て、宙に視線を彷徨わせて何やら考えはじめた。


 この時点で、嫌な予感とかはなかった。いつもの面白いものを見つけたいたずらっ子の顔をしていなかったこともあるが、たぶん、それが深い意味も他意もない、純粋な親切心から出た厚意だったからなのだろう。


 かくして片瀬先輩は僕に問うてくる。


「じゃあ、うちにくる? 簡単だけどお昼くらいご馳走できるけど?」

「え゛っ!?」








 きっと僕は間の抜けた顔で、その家を見上げていたに違いない。


 日本の平均的な家庭よりもひと回りほど広い敷地に、洒落た造りのきれいな邸。それが片瀬先輩の家だった。


「どうしたの?」


 表でいつまでも邸を見上げている僕に先輩は声をかけてくる。


「あ、いや、きれいな家だと思って」

「去年改築したばかりだから。家はお父さんがデザインしたのよ。お父さんね、ちょっとは名の知れた建築デザイナなんだから」


 そう言った先輩は心なしか誇らしげだった。


 ということは、いわゆるデザイナハウスというやつか。格好いいなあ。うちも広いけどものは古いから、こういうのには憧れる。


 片瀬先輩が門を開けて中に入っていく。


(ここ、先輩の家なんだよな……)


 そう思うと緊張する。


 まぁ、家の人がいるだろうし、ふたりきりになるわけじゃないんだから、何も身がまえる必要はないはず。

 そう自分に言い聞かせて緊張をほぐす。


「ああ、大丈夫よ、那智くん。今日は誰もいないから」


 いやいや、ぜんぜん大丈夫じゃないですから!





「はー……」


 思わず感嘆の声がもれる。


 外観通り中もきれいだった。リビングとキッチン、ダイニングが遮蔽物なしでひとつの空間を形成しているので、ものすごく広い。全面窓から庭が一望できるのもそう感じる理由のひとつなのだろう。


 てか、リビングに螺旋階段がある家なんて初めて見た。


「広いですね……」


 そのまんまの感想だな、僕。


「そう見えるようにしてるだけよ。実際には普通の家とさほど変わらないわ」


 子どものような感想しか出てこない僕に、先輩はくすりと笑って答えた。


 そうは言うが限られた空間を最大限に利用したり、錯覚にせよ広く見せることこそデザイナの技術ではなかろうか。


「適当に座ってて」


 ただただ呆けるだけの僕に先輩が言う。


 先輩はキッチンにいる。当然のことながらダイニングに食事をするためのテーブルがあるのだが、それとは別にキッチンにもカウンター席のようなものがある。また、キッチンは使いやすいよう配置に工夫がなされていて、きっと料理をしていても楽しいだろうと思う。


「はい、どうぞ」


 先輩が出してくれたのは冷たいお茶だった。


「ごめん。わたし、先に着替えてくるから、それ飲んでゆっくりしてて」

「あ、はい。いただきます」


 そこで僕はようやくソファに座った。


 僕にお茶を出した後、先輩は軽い足取りで螺旋階段をのぼって二階に上がっていった。リビングから見上げたところにある二階の廊下にドアがいくつかあるので、そのどれかが先輩の部屋なのだろう。


「ぶっ……。げほっげほっ……」


 と、危うくお茶を吐き出しかけて咳き込んだ。


「そんなに慌てて飲まなくてもいいのに」

「す、すみません……」


 まさか何の気なしに階段を上っていく片瀬先輩を目で追っていたら見てはいけないものが目に入りかけた、なんて言えるはずもない。


 何で女の子って制服のスカートをあんなにも短くするんだろう? いや、それが嫌とか変とか言うのじゃなくて純粋な疑問。僕も男なので短いほうが好きだけど。でも、相手が片瀬先輩になると、何というか激しく攻撃的だ。


 リビングにひとり残され、やることがないので庭に目を向ける。敷地が広い分やはり庭も広く、なんとバスケットボールのゴールがあった。とは言え、所詮は日本の土地。ゴールはひとつだけ。コートとしては半面も取れないだろう。いいところフリースローレーン、プラスアルファくらいで、完全に趣味の産物だ。


「お待たせ。すぐに何か作るからね」


 そう待つこともなく二階から声が降ってきた。


 反射的に声の聞こえたほうに目を向けかけたが、思いとどまる。またスカートが短かったらマズいからだ。耳で先輩が降りてきたことを確認してからようやく先輩を見る。


「……」


 基本的にベクトルは同じだった。

 肩が剥き出しのトップスにローライズのデニムパンツ。肩出しヘソ出し。制服が私服に変わったところで、露出度が高いのはそのまんま。足か上半身かってだけの違いだ。


(心臓に悪いです、先輩……)


 そんな僕の精神根幹部への負荷なんて知る由もなく、先輩はリビングを抜けてキッチンへと向かった。


「那智くん、オムライスでいい?」


 冷蔵庫を覗き込んだまま訊いてくる。


「別に何でもいいですよ。こっちはご馳走になる身ですから、贅沢は言いません」

「そう、よかった。今あるもので作れそうなものがそれくらいしかないってものあるんだけど、オムライスはわたし、けっこう得意なのよ」


 片瀬先輩はカウンタの向こうで自信満々の笑みを見せる。


「じゃあ、楽しみに待たせていただきます」

「ええ、そうして」


 先輩は早速作業に取りかかった。





 程なく料理ができあがる。


「「いただきます」」


 僕らはテーブルに向かい合わせに座り、合掌してから食べはじめた。


 片瀬先輩が作ったオムライスは本人が得意だと言うだけあって、実に美味しかった。そのことを僕は素直に伝える。


「このくらい朝飯前なんだから」


 先輩は得意気にそう言ってのける。


「お父さんが仕事に出てる以上、家のことはわたしがやるしかないもの。自然とこれくらいはできるようになるわ」

「……」


 それは、つまり。


「そう。お察しの通りうちは父子家庭よ。若くしてお父さんが建築デザイナとして独立して、夫婦でがんばってきたみたいだけど、その苦労がたたったのね。わたしが六つのときにお母さんは病気で亡くなったわ」


 意外にあっさりと、先輩はそれを口にした。


「大変、だったんですね」

「みんなそう言ってくれるわ」


 けれど、その表情が少しだけ曇り、


「『大変だったね』『苦労したのね』。でも、そんなの結局は当事者じゃないとわからないものよ」


 今度は寂しそうにそう漏らした。


「……すみません」


 確かにそうだ。僕に父子家庭の辛さなどわかるはずがない。


「ううん。ごめんなさい。わたしのほうこそ変な言い方しちゃって」


 先輩は笑ってそう言ったが、気まずい沈黙が残った。

 黙々とオムライスを食べる。

 話す言葉はなく、スプーンと皿がぶつかる音だけがあった。


「そうだ。先輩んちの庭ってバスケのゴールがあるんですね」


 何か沈黙を埋めるための話題はないかと探していた僕は、庭のゴールを思い出して話を振った。


「うん。お父さんの趣味なの。物置にボールもあるはずよ。後で出てみる?」

「あ、ちょっと触ってみたいかも。少し真面目に練習しようかな? 今日、円先輩にコテンパンだったし。そしたら再戦……でっ!?」


 正面から脛を蹴られた。

 その蹴った犯人は何ごともなかったような顔で食事を続けている。……ちょっと怖かった。


「……」

「……」


 気がつけば先程よりもさらに気まずい雰囲気になっていた。

 いったい何だというのだろう?





 食後、片瀬先輩が物置からボールを引っ張り出してきてくれて、僕はそれで少しばかり遊んでみた。


「お父さんって高校までバスケをやってたらしいの。それで去年の改築の際に、ね。とは言っても、休みの日にちょっと体を動かす程度にしか使えないみたい」


 たぶんそんなところだと思っていた。


 ここには広さ以前に致命的な欠点があった。それは地面が芝生だという点だ。芝生だとボールがぜんぜん跳ねない。実際、ここにきてみてボールをついてみたが、ドリブルをするにはかなり厳しく、シューティング程度しかできそうにない。


「那智くんはバスケ部には入らないの?」


 シュートする僕に片瀬先輩が聞いてくる。


 先輩は開け放ったリビングの全面窓に腰掛けて、ボールで遊ぶ僕を横で見ていた。


「僕? うーん、背がね、どうしても……っと」


 リバウンドしたボールがもうちょっとで植木鉢に突っ込みそうになって、僕は慌てて拾いに走る。


「高校でバスケやろうってやつはみんな体格もいいし、実力もあるから。僕程度じゃ、ね」

「えー。確かに那智くん、小っちゃいけどものすごく上手いのに。ほら、あのときだってジャンプした後にこうして、こうして、こう……」


 言いながら先輩は右腕を上げたり下げたりした。


「ん? ああ、ダブルクラッチですか? あれはあれでテクニックとしては高度だけど、器用なやつならわりとやってのけるから」


 そこでふと湧いた疑問に首を傾げる。


 先輩は言う『あのとき』っていつだろう? 今日、円先輩と一対一をやったときにはダブルクラッチはやっていない。となると、先輩がいてそれをやったときと言えば……。


「あれ? 先輩、もしかしていつぞやの昼休みのスリー・オン・スリー、見てたんですか?」

「うん。見てたわよ」

「うわ、ぜんぜん気づいてなかった」


 てっきり僕のことなんかぜんぜん見えてなくて、最後の騒ぎでようやく気がついたのだと思っていた。


「だから言ったでしょ? 那智くんが何かに一生懸命になると周りが見えなくなることくらい知ってるって」

「……」


 見ていなかったのは僕だった。いやもう、まったくもって面目ない。


「ねえ、那智くん。那智くんならフリースロー、何本くらい連続で入る?」

「フリースロー、ですか? どうだろう。五、六本なら決めれるかな?」


 答えながら一本、シュートを撃ってみる。

 リングに当たって激しい音を鳴らしながらも、何とかゴールした。


「ふうん。……じゃあ、十本。連続で十本入ったらキスしてあげる」

「ぶっ! 何その唐突な提案!?」


 ボールを追っていた僕は危うくひっくり返りそうになった。


「いいじゃない。……なあに? 那智くんは男の子なのにチャレンジ精神ってものがないわけ?」

「む」


 先輩、えらく挑戦的だな。

 謎な景品は兎も角、そこまで言われたらやらないわけにはいくまい。僕は長年に渡って体に染み込んだ感覚で、ゴール真下から四.六メートルの距離を取った。


 まずは一投目……。


 ガンッ


 ボールはリングに嫌われて見事に外れた。


「せ、先輩……」

「はいはい。今のは練習でいいわよ」


 先輩は笑いながら先回りして言った。


 交渉の末、五本だけ練習をさせてもらえることになった。


 中学レベルでも十本連続というのはそれほど難しいものでもないと僕は思っている。五本の練習で三投目までにシュートをしっかり決めて、残り二投でそれをトレース。その感覚を体に覚え込ませれば十分に可能だ。


「では、本番いきます」


 改めて一投目……。

 スパンッ、と小気味よい音を鳴らしてボールはリングを撃ち抜いた。


「ナイスシュート!」


 先輩が手を叩いて歓声を上げた。


 ボールが地面を転がり、僕のところへ戻ってくる。シュートの際、手首のスナップがしっかり効いていて、且つ、ボールがリングにノータッチで通ると、回転の関係で自分のところに戻ってくるのだ。このあたりからも僕は理想的なシュートが撃てていると実感した。


 続く二投目から六投目までもほぼ同じ軌道を描いてリングを抜けた。


 七投目でリングに当たって一瞬ひやっとしたが、リングの淵を二周した後、内側へと落ちた。今まで数えたことはないが、おそらくこれで自己ベスト更新だろう。


 八投目でズレた軌道を修正し、九投目では再び理想形のシュートを決めることができた。


 そして、最後となる十投目――


 僕はあまり跳ねない芝生に力を入れてボールをつき、むりやりドリブルをしながら精神統一をはかる。


 と、そこで思わぬ邪魔が入った。


「那智くん、あと一本。決めたらご褒美のキスが待ってるぞっ」

「え……」


 あー、えっと……フリースローを十本連続で決めるという課題にばかり意識がいっていて、そのことをすっかり忘れていた。


 本気、なのか?


 聞けばすむことなのだが、何だか怖くて聞けなかった。てか、顔すらまともに見られない。

 いや、そんなの聞くまでもなく冗談に決まっている。そうに違いない。……でも、過去に二度、前科があるし。そうとも言い切れないのかもしれない。もし仮に、万が一、ひょっとして、何かの気まぐれで本気だった場合、それは口なのか頬なのかが問題になる。いったいどっちだ?


「……」


 ちょっと待て、僕。何を真面目に考えているんだ。これはあれだ、僕の動揺を誘うための先輩の罠だ。今一度冷静になれ。よし、何か別のことを考えよう。六、二十八ときて四百九十六の次は何だったっけ? ……ええい、ダメだ。思い出せない。


「……」


 そう言えば僕、今までに二度もキスされてるんだな。一度目は身動きできないときで、二度目は意識がないとき。……そんなのばっかりというのは男としてどうよ? 不覚を取りすぎだろ。


「……」


 くそっ、何でこんなことになってるんだ? そうか、お昼につられてきてしまったのが悪かったんだな。お昼をご馳走になっても、結局は買いものにいかないと夕食に困ることには変わりないじゃないか。迂闊。


 ……。

 ……。

 ……。


 あー、僕、もうなんかグッダグダだな。


(兎に角、無心で撃つんだ……)


 ごくり、と唾を飲み込む。


 そして――


「……」

「あ~らら」


 無心どころか雑念入りまくりのシュートは、別の意味でリングにノータッチだった。


「残念無念、また今度♪」


 唄うように先輩が言う。

 僕はというと残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちだった。


 果たして、ご褒美のキスはいったいどこまで本気だったのだろうか? もちろん、そんなの怖くて聞けないけど。

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