第23話 退院

 彼女の退院を待って、夜月は、千冬と二人で誠一の所を訪ねて行った。

 色々と相談事や聞きたい事もあり、彼はどうしても誠一に会いに行く必要があった。

 山奥のあの美術館に着くと、まるで待ちわびてでもいたかのように、誠一が飛んで来た。彼は、相変わらず中学生のようにしか見えなかった。

「やあ、待っていたよ」

「色々とお世話になりました。この子が、前にもお話ししていた千冬です」

 入院中に、千冬は夜月から全てを聞かされてはいたものの、目の前に居る誠一が、想像していたよりもずっと幼かったので、彼が何十歳も年上なのだとは、にわかには信じ難かった。

「これはどうも」

 彼は満面の笑みを浮かべながら、千冬に握手を求めた。

 そして、二人を応接間に案内した。

 部屋には先客があり、それは夜月には見覚えのない人物だった。

「やあ、また会えたね、井本君」

 その人物も、夜月と千冬に握手を求めてきた。

 相手が誰だったのか、夜月が小首を傾げていると、その人物は自己紹介をしてくれた。

「私は坂城秀一朗。君が最後のメモの人物として会いに来てくれた男だよ。あの時は驚かせて済まなかったね」

 申し訳なさそうに笑う。

 坂城にそう言われても、夜月には相手の言うことが呑み込めなかった。あの最後の人物は、全身傷だらけだった筈だ。顔にも大きな傷があった。目の前の坂城には、目立った傷もなく、それ所か皺も殆ど無い。見たところ、肌はさらっとしたものだ。それに、あの男は五十は越えていた筈だが、彼はどう見ても三十代にしか見えなかった。

 誠一が四人分の紅茶を入れてきて、二人をもてなしてくれた。

「さっ、どうぞ。お二人の為に、美味しいチョコレートのタルトも焼いておきましたよ」

 それから四人で、誠一が焼いたケーキを食べながら紅茶を飲んだ。

「美味しい!」

 千冬が頬を押さえる。

「それは良かった。……さてと、夜月さん。今日は、事の真相ってやつをあなたに明かしましょう。あなたが、何故あんなにも多くの人間の所を回ることになったのか。どうしてあんなに暗い穴に入って行かなくてはならなかったのか。色々と順番にね」

 ここに来て、誠一のその説明を聞くまでもなく、夜月には大方の想像が付いていた。

「まあ、とりあえずはこのビデオを見てもらいましょうか……」

 そう言って、誠一はテレビの電源を入れ、ビデオの再生スイッチを押した。画面には、あのお寺の階段が映し出されて、そこへ夜月がやって来た。夜月は、険しい顔をしながら、急いで階段を登って行く。夜月が画面から見切れてしまうと、すぐに場面が切り変わって、今度は、あの草地が映し出された。テープは既にきれいに編集されているらしく、次々と場面が切り替わる。

 現在のカメラ位置は、夜月が縄梯子を固定する為に使った木のすぐ側の所らしく、そのカメラには、夜月が広場に入って来てからの様子が良く捉えられていた。夜月が穴に近付いて来るにつれて、何度かアングルが切り替わる。初めから、広場には何台ものカメラが取り付けられていて、それらがあの時、一斉に夜月を狙っていたらしい。

「すみません、夜月さん。申し訳ないのですが、あなたの行動の一部始終をビデオカメラに収めさせて頂きました。気に障ったら許して下さい。でもね、これは必要な事ですし、また、私達みんなの要望でもあるのですよ」

 穴を見付けた夜月が、中を覗いてから、一旦引き返すシーンが映し出されている。誠一はビデオを少し早送りして、夜月が再び戻って来て、木に縄梯子を括り付けている所までを全部飛ばした。

 画面は急に暗くなり、穴の中の場面になった。暗視カメラによって、穴の中を這いずって進む夜月の姿がかなり鮮明に捉えられている。こんな所にまでカメラがセットされていたことに、夜月は驚いた。

 要所要所で、誠一がそれらの場面に説明を挟んでいった。

「千冬さん、見て下さい。あなたの彼は良く頑張ったでしょう? それもこれも、みんなあなたの為にね。あなたを羨ましく思いますよ。ほらっ、この映像を見ているだけでも、あの穴がどれだけ暗くて狭く、そして恐ろしかったか良く分かるでしょう。画面を見ているだけで、背中がぞくぞくしてきませんか。夜月さんはね、我々が驚くほどの勇気と頑張りを見せたのですよ……。不老不死の薬が手に入ると思えるからこそ、人はこの穴に入っていけるのですが、それでもこの穴の恐ろしさはただ事ではない。初めての場合は、この穴のあまりの恐怖に躊躇してしまって、途中で引き返す者が殆どなのです。夜月さんがこれを最初の一回で行き切ったというのは、全く驚きという他はない。余程あなたに対する想いが強かったという証拠です」

 画面の中の夜月は、穴の狭さに四苦八苦しながらも、あの下り坂の所までやってきた。息を詰めてその下り坂を見つめている夜月の恐怖が、画面からでもひしひしと伝わってくる。

「……そうです。一番の難所はここなのです。何故なら、見てもお分かりの通り、この下り坂を後ろ向きに戻るのが相当困難なことは、見ただけで簡単に予想が付きます。実際のところ、力の無い者にはおそらくこれを後ろ向きに登って帰るのは不可能なことでしょう。つまり、この坂道は、下りた先がそのまま行き止まりだったりした場合には、生きては帰れない事を意味しているのです。ここを下ることが出来ずに、薬を手に入れるのを諦めた者もいます。まあ、その前に、多くのあの面会人たちの了承を得ることがまず大変なので、この穴まで辿り着くこと自体、相当難しいことなのですが。千冬さんは、夜月さんが沢山の面会人たちに会って来たことはご存じですか?」

 千冬は、こくりと頷いた。

 画面の中で、夜月はとうとう泣き出してしまった。恐怖にむせび泣きながらも、彼は坂を下っていく。

 夜月はそんな自分の姿を見て、その小心者ぶりがひどく恥ずかしくなった。だが、横に居る千冬は、鼻をぐずぐず言わせながら、目には涙を浮かべていた。 

 千冬は、胸に熱いものが込み上げてきて仕方がなかった。穴の中の恐怖感は、誠一が言った通り、この画面を見ただけでも容易に肌で感じ取ることが出来る。自分だったら、果たしてあの下り坂を下りて行けたかどうか。自分が夜月に代わって穴の中を進んでいるのを想像しただけでも身震いがした。この穴の恐怖は、本当にただ事ではない。それなのに、夜月は自分の為に、死を本気で覚悟してまで、あの下り坂を下りていったのだ。

 千冬が目に涙を浮かべている様子を見ながら、誠一が言った。「このシーンは、ちょっと感動ものでしょう。千冬さんが涙ぐむのも無理はありません。この場面には、夜月さんの覚悟があります。ああして、真に死を覚悟した者だけが、あの不老不死の薬を手に入れることが出来るのです。私達も、不老不死になって我々の一員となる者を、簡単に受け入れる訳にはいかないのですよ。ですから、こうした試練を用意して、その人が不老不死になるべき資格があるかどうかを試すのです」

 なおも、夜月はじりじりと坂を下っている。

「不老不死になろうとする者の動機は様々です。ある者は、精神を病んでしまった子供達を助ける事に強い使命を感じて、薬を飲んで、未来永劫そういった子達を救うという役目を自分に課した者もいるし、癌にかかった重症患者とその恋人が、愛する者と一緒に生きられるように二人で薬を飲んで、文字通り永遠の愛を誓ったというケースもあります。本当に、理由は人によって様々なのです。また、単純に死ぬのが恐くて、という人や、ずっと先の未来を見てみたいから、という、安易で浅薄な理由しか持たない者が、この穴に導かれることはありません。我々の仲間になる以上、それなりの人格者でなくてはならないのです。夜月さんの、千冬さんを幸せにしたいという想いには、とても真摯なものがありました。だからこそ、我々はあなた方を仲間に迎え入れてもいいと判断したのです」

 画面の中の夜月は、ついに坂を下り切って、赤い鞄の所までやって来た。彼は、空洞になったその一室をライトでくまなく照らして、とうとう赤い鞄を見つけた。

「この時、実際に手にしてみて、あの赤い鞄自体についてはどう思いましたか?」

 夜月は、軽く笑って言った。

「これは、すぐにおかしいと思いました。鞄が新し過ぎる。赤い鞄の言い伝えは、もう相当前からあるのだから、鞄は本来もっと古ぼけたものだった筈です。あれは、素人が見ても、ここ数年以内に作られたものであることが分かります。ということは、あの鞄があんなにも新しかったのは、誰かが後から置いたということになる。ものすごく人為的な匂いがしました」

 誠一は、笑みを浮かべながら頷いた。

「その通りです。あれは、あれを手にした者に良く考えてみるように促す為の、ヒントの内の一つだったんですよ。私達は、私達の意図をちゃんと汲み取って欲しかった。面会人、穴、鞄。ああして色々と仕掛けを打っていたのは、あの赤い鞄の真の意味に気付いて欲しかったからです。あと、この坂城もまた、そういった意味では、重要なヒントの一つとなるべくして、最後に会って頂いたのです」

 坂城が照れ笑いして言う。

「あれは、少しばかり過ぎた演出だったかもしれないね。メイクも大袈裟すぎるぐらいのものだったし。あれで結構、やっている本人としては恥ずかしいものなんだよ。それに、芝居めいた感じになり過ぎていないかとか、必要以上の事を言ってしまわないかとか、色々と心配になってしまったりもするからね。でも、僕達はあれも必要な示唆の一つとして、最後には必ず、死に切れない男を装った僕と会ってもらうことになっているんだ。不老不死になってしまうことの意味を、その人に良く考えてもらう為にもね。事が重大なだけに、そういった仄めかしは多過ぎるぐらいでもいいように思ってるんだ。これでも一応、赤い鞄を手に入れようとしている人には、我々もそれなりに色々と気を遣っているんだよ」

 夜月は、得心がいったように頷いた。

 ビデオの中の夜月は赤い鞄を手にして、また穴を這いずって戻り始めた。

「ここは飛ばしますね……」

 誠一が早送りする。

「この辺りかな」

 早送りを止めると、ちょうど夜月が穴の入口に着いて、縄梯子を登るところだった。

「ここからのシーンは、我々を大いに楽しませてくれました。夜月さん、あなたのこの後の行動は実に素晴らしかったですよ。それに、あんなスリリングな展開は、かつて例に無かったものです。あの男が千冬さんを連れてあそこへ現れた時には、さすがに私も焦りました」

 少しの間、夜月と父親とのやり取りがあって、その後、夜月は父親に命令され、赤い鞄を彼の方に向かって投げた。千冬がそれを拾い、中身を父親に手渡し、そして、父親が薬を口の中に放り込んだ。

 それを見て、誠一が苦々しい顔をする。

「ここの所が、我々の最大の誤算です。まったく、頭が痛い。また、全くの第三者が薬を飲んでしまったという事態は、赤い鞄始まって以来の不祥事だとも言えます」

 誠一は笑いながらも、少し困ったような顔をして見せた。

「我々は本当は、申し訳ないが、あなた方に薬を飲んでもらいたかった。薬を飲んで、不老不死になった後、あなた方はしばらく経ってから、その生と死の自家撞着に気付く、というのが我々の描いていたシナリオだったのです。しかし、失礼ながらも、夜月さんが我々の想像以上に賢明な方だった為に、上手くはいきませんでした。不老不死の薬だと知っていて、あなたがそれでも赤い鞄を手に入れようとした時点で、我々は、てっきりあなたが自分達で薬を飲むものだとばかり思っていました。千冬さんを死なせない為にね。それが、あの男に薬を飲ませる為だったとはね。薬を手に入れて、あんな使い方をした者は今までにいません。あなたには、あの男だけではなく、私達もまんまと騙されてしまいましたよ。……あんな男が不老不死になってしまって、我々は今後、あの男の後処理に少々手を焼くことになるでしょう。なにしろ、我々にとってあの男は、地球上で最も厄介な存在になってしまったのですからね。あの男を野放しにしておくのは、かなり危険なことです。彼を放っておけば、きっと私たち不老不死の者達の存在そのものにも関わってくることでしょうから」

「僕がここに来たのは、それもあったんです。あの男の始末をどうつければ良いのかって。それと、これはお返ししときますね」

 夜月は、赤い鞄を誠一に差し出した。

 誠一は頷いて、それを受け取りながら言った。

「言うなれば、彼は我々の責任です。とりあえずは、夜月さんはあの男のことはもう気になさらないで下さい。後始末のことは我々に任せて下さって結構ですよ。まあ、悪いようにはしませんから。あの男は私達の手でたっぷりと懲らしめてやりますよ。それに、彼は願ってもない研究材料となってくれるかもしれません。ですから、そう悪い事ばかりでもないんですよ。お気遣いには及びません」

「すみません……」

 画面では、千冬が父親に耳元で囁かれて、ナイフを手首にもっていこうとしている。

「ここは、本当に手に汗握る場面でした。この男は、どうしようもないぐらいに酷い男ですね。私は、この部屋でリアルタイムにこの時の様子を見ていたのですが、すぐにでもあそこへ飛んでいって、この男を締め殺してやりたくなりましたよ。まあ、この後で夜月さんが言われた通り、不老不死にしてしまった方が、よっぽどこの男を酷い目に遭わせることが出来るのですがね」

 千冬は、自分が死のうとしていたことに、ひどい気恥ずかしさと、改めて激しい恐怖を覚えた。

 死のうとしている彼女を目の当たりにして、夜月がパニックを起こして泣き叫んでいる。

「ここでも、千冬さんを救ったのは夜月さんでした。実を言うと、あそこに設置されたビデオカメラは、不老不死の者たちの各家庭のテレビに常時つながれていて、誰もがあの時の状況をモニター出来るようになっていたのです。この時は、みんなが揃ってはらはらしたことと思います」

「ごめんなさい……」

 千冬が視線を落とし、消え入りそうな小さな声で謝った。

 それを受けて、感慨深げに誠一が首を大きく横に振る。

「いえいえ、謝ることはありません。この時のあなたの絶望感には、同情して余りあるものがあります。あなたがここで死を選ばなかったことを、みんなが誇りに思っていますよ。私達の間では、あれから数日経った今でも、ずっとこの時の話題で持ちきりなんですからね。ここで、あなたが本当に死んでしまっていたらどうなっていたのかとか、この時既に夜月さんが薬を飲んでしまっていたらどうだったのかとか、色々と想像力をかき立てられます。あなた方二人の事は、これからもずっと、私達の間で語り継がれていくことでしょう。そう、それこそ永遠にね。ふふふっ……」

 誠一が、皮肉っぽく笑った。

 千冬がナイフを落として、夜月がわざと父親を仕留め損じ、父親がついに不老不死になった後、夜月の長い台詞が始まった。

「あなたが笑い始めた時は、私もあの男と同じように、あなたが少しばかりおかしくなってしまったのだと思ってしまいました。他のみんなも、後で聞いた所によると私と同じ様に思ったようです」

「事があまりにも上手く運んだんでね。思わず笑いが込み上げてきてしまいました。……僕には、ああするしかなかったんです。本当は、あの父親を殺してやりたかったんですけど、それだと僕は人殺しになってしまいます。殺人者にはならずに、かつ、あの父親をこれ以上ないってぐらいに懲らしめてやるには、もうあれしか方法を思い付かなかったんですよ」

「なるほどね……。ですが、あの時、あの男にぶつかっていったのはどうしてなんですか? 初めからあの男を殺す気がなかったのであれば、そんな必要も無かったように思ったんですけど」

 夜月は、少し考え込むようにしながら言った。

「何ていうか……僕はやっぱり、あの父親を殺してやりたかったんだと思います。たとえ擬似的にでも、あの父親を殺してやったんだっていうような、そんな実感みたいなものが欲しかったんじゃなかったのかなあって。それに、あの父親に対しても、一瞬でも僕に殺されたんだっていう、強烈なショックを与えてやりたかったのかもしれないって気がするんです。ただまあ、これは後になって自分で良く考えてみたら、なんとなく実はそういう事だったんじゃないかなって思うだけで、あの時は、自然に身体がそういう風に動いてしまったってだけのことなんですけどね」

 それを聞いて、誠一は溜飲が下がったようだった。 

 画面の夜月は、しゃべり続けながら、千冬の背中をゆっくりと撫でさすっている。

「あなたのお話しは、全く実に素晴らしかった。実を言うなら、私は感動して少し泣いてしまいました。そしてね、自分があなたの言う呪われた不老不死である事を思って、改めて悲嘆に暮れました」

 夜月は、憂いを帯びた顔になった。

「いいんですよ、気になさらなくても。私達の事は、別に夜月さんのせいではないのだし」

 部屋に居た四人は、しばらく画面中の夜月の台詞に聞き入っていた。やがてそれが終わり、夜月は襲いかかってきた父親を縛りあげて、穴の中に落とし、千冬を背負って山を下り始めた。

 彼女を連れて下山する夜月の姿を眺めながら、誠一が話し始めた。

「赤い鞄を手に入れようとする者は、私達と出会うことで、中に何が入っているのか知ることが出来ます。しかし、その者は、自分自身で赤い鞄の本当の意味を紐解かなければならなかった。中の薬は飲んではいけなかった。薬は飲まずに、改めて死の意味を見つめ直し、幸せの意味を知ること。それこそが『赤い鞄』だったのです。夜月さんは、見事にそこへ辿り着きました。死を前提にした生という事象の意義を、きちんと見つめ直すことが出来た。そう、夜月さんの言われる通りです。――死があるからこそ、人は幸せになれるのですよ。死が人を幸せにするのです。赤い鞄を見つけた者は、死の意味を知ることで、幸せの意味もまた知らなければならなかった。夜月さんは、非常に聡明でした。我々の中の何人かは、その意味を見出すことが出来ずに、薬を飲んでしまってから後悔している者が少なからずいるのです。かく言う私も、そんな内の一人に数えられるのですが」

 彼は自嘲気味に笑って、少し悲しそうな顔をした。

「そうした赤い鞄の事に関しては、いくらか不満もあるかもしれません。鞄を探している者に対して、そういったことが初めから分かっているのなら、どうして事前に止めてやらないのかと。ですがね……我々も寂しいのですよ。常により多くの同士を求めているのです。それなりに信頼できる人格を持った仲間をね。あの面会人たちにしても、薬を飲んでしまったという点については賢明だったとは言い難いのですが、それ以外の部分では、みんな頼れる仲間達です。彼らも今では、きちんと自分の運命と向き合って前向きに暮らしていますよ。我々はこの社会の中で、目立たないように生きていかなければなりません。その為にも、仲間は多い方が色々と都合がいいのです。今回の夜月さんの場合は、自分から赤い鞄を探して我々に接触を図ってこられましたが、こちらがどうしても仲間になって欲しいと思う人が見つかれば、我々の方から、それとなく話しを持ち掛けたりすることもあります。夜月さんが今までに出会ってきた面会人たちは、いわば審査機関のようなもので、あれを私達は審判の輪と呼んでいます。あの輪の中に入ってくるきっかけは、人によって実に様々です。夜月さんが輪の中に入ってこられた時、私達は、夜月さんにも仲間になって欲しいと思いました。まあ、最終的に薬を飲むとなると、それなりに愚かさも加味されてしまいますが、我々としては、その人がある程度の人格者であればそれでいいのです。この町はね……不老不死の者達が集まって隠れ住む、少しばかり謎めいた町なのですよ。それと、夜月さんが出会ってきた者達の中には、夜月さんのように赤い鞄の秘密を解き明かして、薬を飲まなかった者もいました。あの中に、上品な人妻がいたでしょう? あの女性は、そんな内の一人なのです。……全ては、赤い鞄の意味を判ってもらう為の伏線でした。まあ、夜月さんには必要のないものだったかもしれませんがね。それでも、我々の用意した伏線が少しでも功を奏したのであれば幸いです。ただ、今回は我々にとって非常に残念な結果に終わってしまいましたが……。しかしながら、夜月さんが赤い鞄の本当の意味に気が付いてくれて、私達はとても嬉しく思っていますよ。せっかく我々の事を良く理解してくれるあなたが、いずれは死んでしまうというのが本当に残念でなりませんが」

 やれやれというように、誠一は首を振って見せた。

「……さてと、例によってまたクッキーも焼いてあります。紅茶のおかわりも入れましょうか。今度は、アールグレイの最高のものをお出しします」

「あっ、あたし手伝います」

 彼と同時に千冬も立ち上がった。

「そうですか。でしたら、お言葉に甘えましょうか」

 誠一は新しい紅茶をポットに用意し、それを千冬に持たせた。自分はクッキーを小鉢に入れて戻って来た。

 千冬がそれぞれのカップに紅茶を注ぐ。どこをどう見ても少年にしか見えない誠一は、千冬のその様子をまるで親が我が子を見守るようにして見ていた。

「千冬さんが元気になられて、本当に良かった」

 千冬が照れ臭そうに笑った。

「今現在の研究課題は、我々はどうすれば死ねるのかという事です。はははっ……全く皮肉なものですね。生きているのに、死ぬ努力をしなければならないなんて。本来であれば、死ぬ為に生きる努力をするのですが……。私達の生きる目的は、普通の人とは全くの逆になってしまったのです。ですが、死ねるという事さえはっきりと分かってしまえば、その時こそ、本当に私達は永遠の生を楽しむことが出来るように思います。死ねるとなれば、生き続けることが真に喜びに変わることでしょう。……現時点で、我々の仮説では、頭を完全にすり潰してしまえば恐らくは死に至ることが出来る筈なのですが、恐くてまだ誰もそれを試した者はいません。頭にしても、半分に割ったぐらいでは、すぐに引っ付いてしまいますからね。まあ、さすがに頭部は、腕がまた生えてくるみたいにして修復されることはないと思いますが、薬の力がどの程度のものなのか、その辺りの詳しい事は本当にまだはっきりしていないのです。また、頭をすり潰したとしても、それでもなお薬の力において、精神だけは魂などとして残るというのであれば、それこそ私達は永久に救われない存在になってしまいます。まあ、生物学上、そんなことにはならないと思うのですが。しかし、これは魂が在るのか無いのかとか、死後の世界が在るのか無いのか等といったような、掴み所の無い問題も絡んできますので、当分の間は答えが出せないでしょう。けどまあ、私は、いずれは私達が死ぬ方法も見つかるだろうと思っているのです。……それにまた、そんなに一方的に死に向かわなくても、私達には、不老不死の者だけにしか出来ない何かがあるような気がします。我々は、そういった前向きな可能性の方も模索中です。仲間を求めるのは、それらの事を共に考え、実践していく同士を増やしたいがためでもあるのですよ。夜月さんや千冬さんにもその仲間になって欲しかったのですが、それが叶わぬならば、折角の縁ですから、せめてあなた方が死ぬまでの間だけでも、私達に協力してはもらえませんか? 不老不死となってしまった者達に於ける生と死の問題について、一緒に考えて頂きたいのです」

「もちろん、協力させて頂きます」

「そうですか。それは嬉しい。それと、もう一つ。……一歩間違えれば、不老不死などという永遠の不幸を背負わそうとしていた私達の事を、どうか恨まないで下さい。今お聞かせしたような理由から、我々も必死なのです。これからも、赤い鞄の言い伝えを真剣に追い求める者がいれば、彼らにはその機会を与えるつもりでいます。それは、実際的には、私達が幸せになる為でもあるのでね。夜月さん達を危険な目に遭わせてしまった事については、みんなを代表して、私の方から謝っておきます。本当に済みませんでした」

 誠一と、そして坂城も深々と頭を下げた。

「いいんです。僕達はあなた方のお陰で、本当の幸せを見付けることが出来たんですから」

「あたしも、とても感謝してるんです。だって、あのままだったら、あたしはほんとに死んでしまっていたと思うから。それを助けてもらって、あなた方がいて下さったことに心から感謝しています」

「そう言って頂ければ幸いです」

 誠一は坂城と顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。

「今日は、一日お暇ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

「でしたら、今日もまた、この間みたいにゆっくりしていって下さい。あなた方と過ごせるのは、私達にはとても喜ばしいことなので。坂城と私とで、最高の夕飯をご馳走しますよ」

「ええ。ありがとうございます」

 それから夜月達は、この間のように裏山を散策して、帰って来てからゆっくりと夕食を作った。数多くの料理に舌鼓を打ちながら、主にこれからの不老不死者の可能性について話し合った。

 夜も更けて、帰るには遅くなり過ぎてしまった為、夜月と千冬はそのまま朝までお世話になることにして、夜通し話し続けた。

 翌朝は、二人とも仕事に戻らなければならなかったので、陽が昇るとすぐに誠一たちに暇を告げた。

「あっと言う間に時間が過ぎてしまいましたね。ぜひ、また遊びに来て下さい。私はここを一応の住処としているのですが、なにぶん色々と忙しい身なので、方々を飛び回っていてあまりここには居ません。とりあえずは、千冬さんのお父さんをどうにかしないといけませんしね。お二人には、私の携帯番号をお教えしておきます。こんな便利なものも、昔から考えれば想像も付かないような物なんですが……」

 そう言って、誠一はメモをくれた。それは、彼が以前に夜月に渡してくれたメモと同じ種類のものだった。それを見て、夜月は苦笑した。

「いつでも連絡して下さい。近い内に、また訪ねて来てもらえると嬉しいです」

 夜月は、そのメモを丁重に受け取った。

「では、お二人の幸せを心から祈っています」

 夜月達は二人に深くお礼をして、彼の家を後にした。

 帰りの車中では、夜月と千冬は時々顔を見合わせて微笑むぐらいで、あまり話しはしなかった。

 暫くしてから、助手席に乗っていた千冬は疲れて眠ってしまった。

 夜月は改めて、自分の側に千冬が居ることを思い、運転しながら少しだけ泣いた。

 早朝、六時二十分。

 二人を乗せた車は、朝靄の中に吸い込まれてゆく――。

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