第12話 浴室

「ねえ、夜月。あたし、もう一人でも大丈夫だよ」

 その日の夜に、千冬は夜月にそう言ってみた。

 千冬は、自分の為にいちいち依子を呼びつけて、彼女を煩わせていることが耐えられなくなっていた。それに、どうして自分が一人きりになりたいのか、千冬には自分で何となく分かっていた。

 何をどうしようと、もう終わりなのだ。もうすぐあいつがやって来る。自分を壊しに、夜月を壊しに、二人の生活を壊しに、あいつが不幸を背負ってやって来る。

 まだ父親にはこの家は見つかっていないようだったが、あの執拗な性格からすれば、いずれ近い内にこの家を見つけ出すのは確実と思われた。

 それに、外へ出ている時、いつどこであの男と出くわすかと思うと、彼女は身が縮む思いがしていた。夜月には出来るだけ気付かれないようにしていたが、いつも息が詰まりそうな思いで外を歩いていた。

 自殺の原因が、あの男と出会ってしまったからだということは、夜月には言ってはならない。

 夜月に助けを求めれば、彼は何とかしようとしてくれるだろう。しかし、その為に夜月は頭を悩ませ、あんな男なんかの為に苦しまなければならない。それに、現実的にそういう状況がやってくることになったら、その煩わしさに、きっとあたしの事が嫌いになるだろう。あたしは、夜月に迷惑を掛けてばかりだ。夜月があたしと一緒に居るメリットはこれっぽっちもない。あたしと別れてしまいさえすれば、夜月は厄介な悩み事からは簡単に解放される。

 また、夜月と二人でこの町から出て行くという手もあるかもしれないが、けれども、どこへ行ってももう同じような気がする。あたしに目を付けた以上、あの男はどこまででも追い駆けてくるだろう。あいつはそういう奴だ。今すぐどこか遠くへ引っ越して、一年二年と上手くやり過ごせたとしても、あの男はきっとまたあたしを探しにやって来る。その度に引っ越しを繰り返していたら、生活は滅茶苦茶になってしまう。

 世界という広い舞台で繰り広げられる、果てのない鬼ごっこ。誰かの影に怯えながら暮らす毎日。あたしは夜月と一緒に居ない方がいい。

 あいつがこの世にいる以上、そして、あいつがあたしに目を付けることを思い出してしまった以上、いつかあいつが、あたしを昔みたいに滅茶苦茶にしにやって来る。そうなる前に、すべてを終わらさなくてはならない。

 そう、あたしの全てを……。

 夜月は、一人になってももう大丈夫だという、千冬のその言葉を聞いて、彼女を強く抱きしめた。そして、かなり間をおいてから、静かに言った。

「じゃあ、どうしてちゆがあの日の晩に自殺しようとしたのか、俺に教えてくれるか? あの日、何があったのか? ちゆはまだあの日の事を俺に話してくれていない。俺がそれに触れようとすると、上手く話題を変えて、触れて欲しくなさそうにしてた。でも、原因を聞かないと分からないだろ。俺はちゆの事が知りたい。ちゆの全部を抱えたい」

 千冬は心の中で思った。

 重たいだけだよ、夜月。ありがとう。でも、もういいんだよ。夜月はあたしの事なんか抱えなくたって。ありがとう。ほんとにもういいの……。

 千冬は、夜月の胸に顔を埋めたまま、じっと黙り続けていた。

 しばらくすると、夜月の胸から、がっかりしたように長く息が吐き出されるのが感じられ、そして、彼の手が頭の方に伸びてきて、髪を優しく撫でてくれた。

 千冬は少しだけ顔を上げて、夜月の顔を上目遣いにちらりと覗き見た。

 夜月は、とても悲しそうな顔をしていた。

 嫌だ。

 夜月のこんな顔は見たくない。あたしのせいなんかで、夜月にこんな顔をさせたくはない。

 夜月が力無く笑って言った。

「まあ……すぐには言いにくいか。でも、その内教えてくれよな。俺、ちゆに本当に早く元気になって欲しいから。その為なら、俺は何だってしたいんだ。ほんとに、何だってな」

 あたしが、のこのこと生き残っているから。

 夜月に甘えて、もう少しだけ生き続けようとしたから。

「けどな、姉ちゃんにはもう少しだけ来てもらっててもいいかな?俺が安心するからさ。いや、別にちゆの事が信じられないって訳じゃないんだけど、でも、やっぱり……もうちょっと様子見た方がいいような気がして」

 なんとか語尾を取り繕おうと、夜月はしどろもどろしている。

 千冬は作り笑いをして言った。

「もう、大丈夫だって、夜月。でも、夜月がそれで安心してくれるんだったら、もう少しそうしてもらってもいいかもね。依子さんにはちょっと気遣っちゃうけど。あたしにしたって、依子さんに一緒に居てもらった方が楽しいしね」

 彼は、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「あたし、お風呂入ってくる」

「俺も一緒に入るよ」

「じゃあ、洗いっこしようか?」

「いいね」

 一緒に浴室に入り、夜月の背中を流してあげた後、千冬は湯船に浸かりながら、彼が頭を洗うのを見ていた。

 そうして、水に濡れた夜月の頭を見ていると、千冬の頭の中には、また嫌な思い出が甦ってくる……。


 中学校に上がってから、千冬はずっと成績が良かった。

 それは、親に取入って彼らの機嫌を損ねないようにする為でもあったが、何よりも勉強することは、千冬の人間的な矜持の支えともなっていた。両親にまともな人間として扱ってもらっていなかった彼女は、他の人間よりも何かを頑張ったと思うことで、どうにか人としての尊厳を保っていた。

 中学一年の冬。

 千冬はその年の秋口から、長いこと体調を崩しており、運の悪いことに、二学期の期末テストのちょうど当日というその日になって、風邪を更に悪化させてひどい熱を出してしまった。朝起きてからそれに気付いた彼女は、親に見つからないように自分でこっそりと体温計で熱を計ってみた。三十八度四分。まともに動くことさえもままならないような状態。普通の家庭の子供であれば、親に言って試験を後日に受けるようにしてもらうとか、仕方がないので平均点をつけてもらうようにしておいてもらうとか、それなりに対処することも出来たのだが、千冬は両親に、しんどいから学校を休む、などと言うことは出来なかった。とてもではないが彼女の泣き言が通用するような親ではなかった。

 千冬はそれまでの間、学校を一度も休んだことがなかった。彼女には学校を休むということは許されていなかった。また、成績も、親の世間体だけの為に、常に上位を維持しておかなくてはならなかった。親を恐れていた彼女は、小学生の時でさえ、一度も成績を落としたことがない程だった。しかし、今回ばかりはそれも困難に思えた。

 それでも千冬は、高熱に軋む身体を引きずって学校へ行き、どうにか試験を受けて帰って来た。

 数日後に返ってきたその試験の結果は、他の人には充分なものだったが、しかし、彼女にとっては最悪なものだった。暗記系はどうにかなった。普段から学習していた分の貯金があったので、理科や社会といった暗記ものの科目は、当日の体調にも左右されずにきっちりと点数を取ることが出来た。だが、数学だけはどうしようもなかった。いつも八十五点以上を維持していたのに、その時の点数は七十二点だった。それでも平均点以上は充分にあり、全く問題のない点数ではあったのだが、千冬の両親はそれを見て、彼女を許してはくれなかった。いや、むしろストレス解消の大義名分が見つかって喜んでいたぐらいだった。

 答案用紙が返ってきたその日、彼女は家に帰るまでの間、生きた心地がしなかった。あれから、風邪がまだきちんと治っておらず、今は、ショックのせいもあるのか、熱がまたぶり返してきていたようだった。頭がくらくらして、帰る道すがら足元がおぼつかない。その日はたまたま父親も仕事が休みだということもあって、二人共が揃って待っている家に帰ることが怖ろしくて堪らなかった。

 玄関を開けて、家に入り、震える手で両親に数学の答案用紙を渡した。

 母親はその数学の点数を見るなり、いきなり逆上して、千冬の顔を平手で張った。

「何なんだよ、この点数はよ! お前、舐めてんのか? 何のために毎日毎日高い金払って学校に行かせてやってると思ってるんだよ。こんなんでいい高校に行けると思ってんのか? お前は、私達にまだ迷惑かけるつもりでいるのかよ!」

 父親が落ち着いた声で言う。何かが気にくわないにも拘わらず、父親がこういう冷静な態度でいる場合は、彼が何か良からぬ事を考えている時だった。

「千冬、これでは駄目だろう? 高校に行けなかったら、俺たちにもすごく迷惑がかかるし、それだけじゃなくて、千冬自身にとってもあまり嬉しいことじゃないだろ? 俺達はな、なにもお前が憎くて言ってるんじゃあない。お前の為を思って言ってやってるんだぞ。……しかしまあ、この点数はちょっと頂けないな。少しお前の育て方が甘かったのかもしれない。ごめんな。お父さん達、反省しないといけないよな。お前をこんな風にしてしまったんだから。悪かったな、千冬。今から、お前の根性をもう一度叩きなおしてやるよ。なあ、母さん?」

 父親の声が、どこか遠くの方から聞こえてくるような気がする。

 彼は一体、何を言っているのだろうか。その、理屈の通らない台詞。自分は今から、どんな事をされるのだろうか。

 千冬の後頭部に、虐待を受ける前のあのぞわぞわした嫌な感覚が走った。彼女の精神が、今から虐待されるのだということを感じ取った時は、決まってこの嫌な感じが後頭部を襲った。寒気というか悪寒というか、首の後ろのすぐ上あたりがずーんと中から引っ張られるような感覚。

 それに、恐怖に全身の皮膚がざわついているのも分かる。

 千冬は、いつも襲ってくるこの後頭部の内部の異変から、自分がこれから父親に何かされるのだということを悟った。何か、とても怖ろしい事を。

「ちょっと来い、千冬」

 父親の声が冷徹に響いた。

 千冬は両親に、お風呂場の方に引きずって行かれた。

 何スルノ?

 怖イ。嫌ダ。ヤメテ。

 誰カアタシヲ助ケテ……。

 父親は千冬を連れて浴室に入り、水道の蛇口を捻った。

 しかも、お湯ではなく水の方を。 

 今は十二月だ。水は、触っただけでも痛いぐらいの冷たさである。

「今からお前の根性を叩き直してやるからな、千冬。お父さん達が悪かったよ。朝な、テレビで滝に打たれる修行をやってたんだ。たぶんこれなら、いくらなんでもお前にもきっと上手くいくぞ」

 母親が笑っている。

「そうだよ、千冬。私たちが悪かったんだよ。許してね。今から、私たちの愛をあげるからね」

 浴室内に響く、母親のその無機的な声。

 狂ッテル。

 コノ人達ハ、狂ッテイル……。

 千冬は両側から両親に腕を捕まれて身体を支えられ、その気の狂いそうな言葉を聞きながら、湯船に冷水が貯まっていくのを見つめていた。身体がぶるぶると震えているのが、恐怖のせいなのか、それとも熱のせいなのか、良く分からなかった。

 現実感が遠退いた。彼らは、あたしを本気でこんな冷水につける気でいるのだろうか? 今のこの風邪を引いたままの身体で、そんな事をされたなら、あたしは死んでしまうかもしれない。

 けれど、彼女は知っている。

 これから、それが現実になることを……。

 みるみる内に、湯船は冷たい水でいっぱいになった。

「さすがの俺たちでも、お前にこの中に入れだなんて言わない。お前は修行僧じゃないんだしな。それに、そんなことをしたら、お前はもしかすると死んでしまうかもしれないしな。だからな……」

 それを聞いて、千冬はほんの少しだけほっとした。

 しかし、次の瞬間――。

「だから、こうするんだよ!」

 父親は千冬の後頭部の髪の毛を掴んで、千冬の頭をその冷たい水の中に思い切り突っ込んだ。

 ……!

 千冬は、それがあまりに衝撃的だった為に、何がどうなったのか、一瞬理解できなかった。水を冷たいと感じることさえ出来なかった。冷たい筈の水は、ちりちりと首から上の皮膚を焼いて、耐え難い痛みを与えた。

 そんなことよりも、息が出来ない。父親が髪の毛を掴んでいる為、全く身動きがとれない。

 熱を出して、ただでさえ喘ぐように呼吸していた千冬は、すぐに肺の中の酸素を失って、冷水の中でもがき苦しんだ。肺の中には、空気の代わりに冷たい水が大量に入ってきた。一瞬だけ開けた目に湯船の底が見えたが、刺すような水のその冷たさに、千冬はまたすぐに目を閉じた。必死に手足をばたばたさせるが、頭を掴んだ手は一向に緩む気配がない。

 息ガ、息ガ出来ナイ!

 唐突に頭を持ち上げられて、やっと水ではなく空気を少しばかり取り込むことが出来て、千冬は激しくせき込んだ。

 両手で口を押さえて震える。涙と鼻水が、どっと溢れ出してくる。

 風邪で炎症を起こした喉が、ひゅーひゅーと鳴っているのが聞こえた。

 まるで、それが当然のように、千冬はまたすぐに水の中につけられる。

 水の外で、父親と母親が千冬を馬鹿にしたように笑っているのが耳に入った。

 他にも二人が何か言っているのが聞こえたが、千冬の脳は彼らの言葉をきちんと分解することが出来なかった。何も考えられず、呼吸のことだけにしか神経がいかない。

 苦シイ! 苦シイ! 苦シイ!

 息ガ出来ナイ! 息ガ、息ガ、息ガ、息ガ!

 苦シイ! 助ケテ!

 オ父サン、オ母サン――!

 気を失う寸前に、また頭を引き上げられる。

 ほんの少しだけ息を吸うと、また水につけられる。

 その繰り返し。

 殺シテ! モウコノママ殺シテ!

 モウ嫌ダ……。

 嫌ダ、嫌ダ、嫌ダ、嫌ダ。

 死ンダ方ガマシダ!

 苦シイ! 苦シイ! 苦シ過ギル!

 気ガ狂ウ。頭ガオカシクナルウゥゥ! 

 また、頭が水中から引き上げられる。

 千冬はあまりの苦痛と恐怖に、頭のヒューズがはじけ飛んで、パニックを起こして叫んだ。

「きゃあああああ――!」

 一瞬、千冬の気が変になる。

 バシャッ。

 ガボガボッ……。

 悲鳴を消し去るように、頭はまた冷水の中に浸けられる。

 それを、何回ぐらいやられたのか?

 どのぐらいの時間が経ったのか?

 意識はずっと前からすでに遠ざかり、千冬はまるで、ただの生きた人形のよう。

 目が白目を剥く。

 全身がだらりと弛緩する。

 思考はすでにストップしている。

 やがては、抵抗して手足をばたつかせることも出来なくなる。

 心にひび割れがいく。

 心が壊れてゆく。

暗闇が膨張して、心の中の正常な部分をどんどんと侵食してゆく。

 ひどい悪寒の中で、千冬は、がくがくと身体を痙攣させながら失神した。

 その狂った行水の後、千冬が目を覚ますと、彼女は病院のベッドに寝かされていた。

 ひどい気分。頭ががんがん鳴っていて、全身に悪寒がする。呼吸もままならない。

 彼女は肺炎を起こしていた。何とか命に別状はなかったものの、決して死んでもおかしくはないような状況だった。

 病室で母親からそれを聞かされた彼女は、どうしてそのまま死んでしまえなかったのだろうかと思った。そして、その時初めて、千冬の脳裏には、死ねば楽になれるかもしれないという考えが浮かんだのだった。

ソウダ……。

 アタシナンテ、死ンデシマエバイインダ……。

 しかし、死ぬという行為は、彼女が思ったよりも簡単なものではなかった。

 死は怖ろしかった。

 死んだ後、自分はどこへ行くのか? どうなってしまうのか? 自分の存在がこの世から消えてしまうという事実は、彼女に強烈な恐怖感を与えた。

 それにまた、千冬のこれまでの人生の中には、何の救いもなかった。今まで彼女が読んできた本の中には、必ず救いがあった。

 やって来るヒーロー。もたらされる希望。訪れる幸福。

 自分にも、そういった救いが何かあっていい筈だった。だから、それが訪れるまでは死ねないような気がしていた。

 このまま生きていれば、何かいいことがきっと訪れる。

 彼女はそう信じた。過去に読んできた多くの本の中にも、そうやって生きる事への希望を持つように書いてあった。

 自殺したい一方でまた、そんなような気持ちが、いざ自殺しようとなった時に千冬を躊躇わせた。

 彼女が初めて手首を切ったのは、中学二年生の頃。

 彼女は、家にあった果物ナイフで、その時の衝動に任せて手首を切ってみた。手首からは、思っていたよりも大量の血が吹き出してきて、その時は、それに驚いて気を失っているところを、帰ってきた父親に簡単に見つかってしまった。

 けれども、後で彼女は目を覚ましてから、その時の手首の痛烈な痛みが、どことなく自分の心を浄化してくれたような気がしたことに気が付いた。それから、彼女は手首を切るという自傷行為を覚え、そして、何度となく自殺を図るようになった。

 死への恐怖から、結局は未遂に終わったり、または、本気で切った時には、不運にも誰かに見つかってしまったりして、今の今まで実際に死んでしまうことは出来なかった。

 しかし、今度の千冬の決意は固かった。

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