第6話 捜索
千冬が自殺を試みて、夜月が赤い鞄の事を真剣に考え始めてから、一週間が過ぎようとしていた。
その時、夜月は昼食を食べ終えてから、パートのおばさんと一緒になって乾物コーナーの商品整理をしているところだった。
通路を挟んだ向こう側の、お菓子コーナーにいた小学生ぐらいの男の子が、一緒に居た友達の男の子に向かって、こう言っているのが夜月の耳に入ってきた。
「なあ、お前、赤い鞄って知ってるか?」
夜月はそれを、どうせまた、いつものこの町によくある日常会話なのだろうと思っていたのだが、彼らの会話に対して、聞き耳だけは立てていた。
「知ってるよ。俺のお姉ちゃんが言ってたもん。赤い鞄の中には、何か入ってるんだろ?」
「うん、そうだよ。じゃあ、その赤い鞄の中に何が入ってるのか知ってるか?」
「うーん。それはお姉ちゃんも知らないって言ってたなあ……」
「そうだろ。俺は知ってるよ。中に何が入ってるのか。それと、赤い鞄がどこにあるのかもな。すげーだろ」
「へー、どこにあるんだよ? 知ってんだったら、今から取りに行こうぜ。何かいいものが入ってるんだろ?」
「ばーか。馬鹿だな。そんなに簡単に取りに行けるもんなら、とっくにみんな取りに行ってて、みんな幸せになってるじゃんかよ。お前、いま幸せか?」
「うーん……そんな難しいこと言われてもなあ」
「だろ。うちの母ちゃんだって、毎日父ちゃんと喧嘩ばっかりしてるしさ、周りのみんなも全然幸せそうじゃないしな。だから、赤い鞄はまだ誰も見付けてないんだよ」
「でも、どこにあるのか、お前知ってるんだろ?」
「一応な。この前にもお前に言ってた、あのおじさんがそう言ってたからさ。俺、あのおじさんのこと好きだしな。だから、これは信用できる話しなんだぜ。なんかさ、赤い鞄は山奥のすっごく深い所にあって、取りに行くのはよっぽどじゃないと無理なんだって。大人にだって難しいって、おじさんがそう言ってた」
夜月は、その会話が少しだけ気になった。どこがどうという訳ではない。ただ、何となく気になっただけだ。
その男の子達の所へ歩み寄って行って、軽い調子で訊いてみた。
「ぼく、赤い鞄のこと知ってるのか?」
いきなり話しかけられて、その男の子は多少吃驚したようだったが、夜月の問い掛けに対して快活に答えた。
「うん。おじさんが教えてくれたんだ」
「おじさん? おじさんて、君ん家のおじさん?」
「ううん。近所のおじさん」
「そのおじさんの事、お兄さんにちょっとだけ教えてくれないかなあ? お兄さんも赤い鞄のこと知りたいんだよ」
「……いいよ。でもね、だったら何か奢ってよ。こいつの分も入れて、二人分ね」
その子達の会話は、この辺りでは本当に昔から良くある会話で、赤い鞄を実際に探すには何のあてにもならないようなものだったし、その子の取り引きに応じてやるのも馬鹿馬鹿しいように思えたのだが、結局、夜月は二人に二百円ずつで手を打って、そのおじさんなる人物の事を聞き出した。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「ああ」
この時、夜月は本気で赤い鞄を探してみるつもりになっていた。そんなものが本当にこの世にあるのかどうか、かなり怪しかったし、中に入っている物が何なのかも良く分からなかったが、他にもう頼るものが無かった。今は、何でもいいから寄る辺となるものが欲しかった。
たとえそれが、現実味を欠いたものであったとしても。
千冬を救いたい――。
その一心で夜月は、神様だろうが悪霊だろうが、そして、ただの世迷い言であろうが、何にだって縋り付きたい気持ちだった。
赤い鞄を探すきっかけとしては、さっきの子供の会話なんかを頼りにしていくのは、相当心許なく思える。だが、どちらにしろ、きっかけは何処でどういったものを選ぼうと、もう同じことだ。怪しげな倉庫で見つけた古い古文書。竹薮に落ちていた瓶の中に入っている曰くありげな古い地図。はたまた、夢のお告げ。どれを取っても信憑性の無いこと甚だしい。
ならば、始まりが子供の会話からであってもいいだろう。どうせ、赤い鞄を探すには、いずれはこの町に住む誰かに聞き込みに回る事になるのだ。たまたまそのきっかけが、子供の会話だったというだけの事だ。
夜月は、明日の休日を利用して、そのおじさんの所に行ってみようと思った。千冬を一人にさせたくないから、本当は一緒に連れて行きたい所だったが、町の迷信に過ぎない赤い鞄を探しに行くなどと言ったら、彼女にその馬鹿さ加減をたしなめられそうな気がする。千冬の事は、また依子に任せるしかないだろう。
赤い鞄……。
翌日はあいにくの雨で、外に出るのは幾分ためらわれるものがあったが、千冬には店の取引先との打ち合わせがあると言い訳しておいて、依子が家に来てから、夜月は車を駆って赤い鞄を探しに出掛けた。
昨日、子供から教えてもらったおじさんの家は、夜月の家からは距離的にはそれほど遠い所ではなかったが、周辺が一戸建ての密集した住宅街で、正確な場所は相当分かり辛かった。
フロントガラスを濡らす雨が鬱陶しかった。家を出た時は小雨だった雨も、途中から土砂降りになり、ドライブがてらに軽い感じで赤い鞄を探しに出掛けるという、夜月の当初の目算は見事に外された形となった。
こんなことだったら、家に居て千冬と一緒に過ごしていた方が良かったのかもしれない。そうした後悔も芽生えつつあったが、ぐるぐると辺りを車で回っている内に、ふいに目的のアパートが見付かった。
教えられたアパートは、やけに近代的な外観のものだった。見た目にも新しく、セキュリティーなどもしっかりと整備されているようだ。
そのアパートを見て、彼は少々がっかりした。謎を追う対象としては、ここの建物は新し過ぎる。もっと古めかしくて、怪しげな平屋とか洋館だとかをイメージしていたのに、こんな現代的な建物の中に、謎だの秘密だのがあるような気はこれっぽちもしない。
しかし、せっかく来たのだから、今となっては引き返すのも馬鹿らしく、夜月は車をその辺に適当に路駐して、建物のエントランスに入り、おじさんなる人物が住んでいる筈の部屋の番号を押してから、インターホンの返事を待った。程なくして、相手が出た。
「はい……」
その声を聞いて、夜月はますます失望した。声は、何の変哲も無い、いかがわしさの欠片もない様なごく普通の中年男の声だったからだ。
俺は、一体何をやっているんだろう。こんな所に来るんじゃなかった。下らない……。赤い鞄探しだなんて、俺は一体何を考えていたんだろう?
夜月は、自分のやろうとしていた事の馬鹿馬鹿しさに半ば呆れ返りながら、仕方なくインターホンに向かって用意してきた返事を返した。
「あっ、突然お邪魔致しまして、申し訳ありません。わたくし、雑誌の編集をしている者でして、赤い鞄の噂について調査しているのですが、先日、こちらの方で赤い鞄についての詳しい情報がおありだということを聞いて参りまして、ご都合がよろしければ、ぜひお話をお伺いさせて頂きたいのですが……」
言ってしまってから、夜月はこんなにも唐突に訪問したのも失敗だったかもしれないと思った。突然、知らない人間が自分の家を訪ねて来たら、誰だってびっくりして警戒するだろう。夜月はますます、自分は何をやっているのだろうかという思いに駆られた。
しかしながら、相手からは意外にもあっさりとした承諾の返事が返ってきた。
「あっ、そうですか。でしたらお上がり下さい。今、ロビーのロックを解除しますので」
カチャリと小さな音がして、左手にあった硬質ガラスのドアロックが外れたのが分かった。夜月はドアを押して、建物の中に入った。何の警戒心も抱かずに、夜月を家に招いてくれるその男に、夜月は不信感を抱かずにはいられなかったが、ここまで来たらもう、事態の流れるままに、それに従って行動するしかなかった。
二0三号室のドアをノックすると、すぐに戸が開いて、男が顔を覗かせた。
「いらっしゃい。どうぞ上がって下さい。汚い部屋ですけど」
夜月は、相手のそんな対応にも、どこか違和感を覚えた。見ず知らずの人間を、こんなにも簡単に家に上げてしまうのは少しおかしい。話しをするだけなら、玄関先でも充分に用は足りる筈だ。
そうは思いながらも、男に招かれるままに部屋に上がった。勧められた座布団の上に腰を下ろし、台所で紅茶を入れてくれているらしいその男の横顔を見つめた。
歳は四十手前といったところか。少し太り気味だが、ごく標準的な体躯。多少古くさい顔立ちのイメージはあるものの、目鼻立ちもそこら辺にいる中年男性となんら変わりはない。
夜月が探していたのは、見た目にも怪しい、普通でない男だった。この男性は平凡過ぎる。あえて特徴的な所といえば、長く伸ばした髪を後ろで括っていることぐらいだが、それ以外には特にどうという所もない、普通の中年男。何か特別な秘密を知っているような神秘的な印象は、この男からは全く感じられなかった。夜月の失望感は、ますます高まった。
「雨で大変だったでしょう」
「ええ……まあ」
上目遣いに頷く。
「ここの場所、すぐに分かりました? ちょっと分かりにくい所に建ってるでしょ、ここ。周りは似たような住宅ばっかりですからね」
やけに気さくな話し方。
この男、職業は営業かなにかだろうか。はきはきした割舌の良いしゃべり方は、いかにも現代風サラリーマンといった感じ。だが、だからこそ余計に神秘性からは遠ざかる。
「編集のお仕事も大変でしょう?」
夜月は、嘘を吐いて身分を偽るという事に関しては、当然ながら全くの素人だった為に、男にいきなりその虚偽の部分を突っ込まれて少し焦った。
「ええっと……はい。そうですね」
本題に入らず、相手が世間話しから入ってくるというのも、相当やりづらかった。最初の予定では、玄関先で適当に赤い鞄の事だけを聞いてから、すぐに帰るつもりだった。家に上がり込む羽目になってしまった事が既に不測の事態。
「どうぞ。安物の紅茶ですけど」
「すみません。あまりお気遣いなく……」
男はゆっくりとした動作で、テーブルを挟んだ夜月の向かい側に腰を下ろした。
「どういった雑誌の編集をされておられるんですか?」
これも、夜月には訊かれたくない質問だった。それにまた、このまま放っておいたら、男はまだまだ赤い鞄の話しには触れてくれそうにない。仕方がないので、夜月は少し苦し紛れながらも、相手の質問は無視して、むりやり話題を振ってみた。
「あの、赤い鞄の事について知っておられるという話しなんですが……」
夜月のその質問に、男は意味ありげに笑って、紅茶を一口啜った。それから、視線を落として言った。
「まあ、慌てずにゆっくり話しましょうよ。せっかくおいで頂いたんだし……」
彼は、すぐに赤い鞄の事について教えてくれるつもりはなさそうだった。それ以前に、この男がそんな重要な事を知っているのかどうかも怪しいが。というよりも、仮にこの男が何らかの情報を握っていたとしても、赤い鞄の言い伝え自体が元々あってないような話しなのだから、今こうして男と向かい合って話していること自体、無駄な努力と言わざるを得ない所だった。今更ながら、それに気が付いた夜月は、今自分がこうしていることに少しばかりうんざりしてきた。
それに、この男は実は話し相手が欲しいだけの、ただの寂しがり屋なのかもしれない。そんなのに長々と付き合わされるのもごめんだ。ここは適当に男に合わせておいて、さっさとお暇した方が良さそうだ。
夜月は男に訊ねた。
「失礼ですが、ご結婚は?」
「結婚ねえ。昔はしていましたし、子供もいたんですけれどね……それももう随分と昔の話しですよ。今となっては女房にも先立たれて、子供も、もうとっくに……。今は寂しい一人暮らしです」
やはりなんとなく話しの内容からしても、この男は話し相手に飢えているだけのような気がする。赤い鞄のことなんかも、どうせ大したことは知らないのだろう。
「お仕事は何をしておられるんですか?」
男は顎を掻きながら答えた。
「今はインテリア関係の営業を……。退屈な仕事ですよ」
「そうですか」
夜月は次の話題を考える為に、紅茶の入ったティーカップを手に取った。ちらりと男の顔を見る。男はさっきから、夜月の顔を見たまま、ずっと微笑している。けれども、その顔は、夜月の憶測とは少しばかり違い、突然の来客のお陰で話し相手が出来たことを喜んでいる、といったような感じの表情ではなかった。どこか、何か腹の中に思うことでもあって、にやにやと笑っているような様子。
夜月は紅茶に軽く口を付けてから、ふーっと一息吐いた。
男の方が、口を開いた。
「赤い鞄を探しておられるそうですが、あなたは、赤い鞄がこの世に実際に存在していると思いますか?」
思いもかけず男が本題に入ってくれて、夜月は少し安堵した。
「まさか。口裂け女なんかと似たような類の作り話でしょう? 赤い鞄の噂は、この町にしか伝わっていないこの町特有の噂ですけれど、でも、そんなものを本気で信じている人は誰もいませんよ。私も仕事でなければ、わざわざ赤い鞄の言い伝えの元を辿ろうだなんて、そんな馬鹿げた真似はしません」
この町では、赤い鞄の存在は、一般には幽霊やUFOなどの存在と同系列に捉えられている。幽霊がいるのかいないのか、などといったものと同じく、赤い鞄についても、それが在ると信じている人もいれば、全く存在しないと思っている人もいる。標準的な考え方としては、お化けなどに対する物の見方と同じように、「おそらくは無いだろうが、でも、もしも本当にあったら面白いだろうな」というのがごく普通である。
「そうでしょうね……。でも、ここらの子供達はその言い伝えを周りから聞かされて育つ。あなたも今までに、ご両親や近所の方々から、散々赤い鞄のことについて聞かされてきたでしょう? あなた、子供の頃、赤い鞄の中に入っているものは何だと思っていましたか? 誰もが必ず一度は考えることだとは思いますが」
「さあ、あまり深く考えたことはありませんが」
「良くある噂じゃあ、願い事が叶う魔法の石が入っているだとか、意中の異性を確実に自分の虜にする不思議な媚薬だとか、もっと現実的なところでいくなら、時価数百億という巨大なダイヤモンドの原石が入っているだとか、他にも色々と言われていますよね」
「ええ……」
赤い鞄の中に、一体何が入っているのかということについては、この辺りではもう様々な説がある。この町の人間が、長い間寄ってたかって考え続けてきたのだ。中には相当無茶苦茶なものも多い。
人の心を覗ける眼鏡、空を飛べる靴、人魚の肉、天使になれる輪、途轍もない超能力者になれる薬、嫌いな誰かを必ず呪い殺せる人形、一度覚えたことは二度と忘れなくなる超天才になれる薬、過去でも未来でも世の中の事が何でも見通せる水晶玉、絶対なる幸運が訪れるお守り、等々……。
一般にこの町では、赤い鞄に何が入っているのか、ということについて考える遊びは、一体何があれば人間は幸せになれるのか? という、ある種哲学的な命題を考えるものとして定着していて、それはこの町の人間に、知恵比べの遊びとして昔から親しまれている。
男が話し続ける。
「それ以前に、赤い鞄なんてものが本当にあるのかどうかも怪しいですけどね……。もしかするとそれは、生活に貧窮していた昔の人々が、現実の苦しみから逃れる為に生み出した宗教みたいなものなのかもしれない。赤い鞄はその信仰を支え、何でも望みを叶えてくれる、いわば神のような全能の象徴として存在してきたとも考えられます。さっきも訊きましたけど、あなたは、現実にこの世のどこかに赤い鞄が存在しているだなんて思っていますか?」
「さあ、どうでしょうねえ。私には良く分かりません。でも、たぶん噂は噂でしょうけどね」
「そうですか……」
そう言って、男はまた紅茶を一口啜り、そしてまた笑みを浮かべながら夜月の顔を見つめた。それを怪訝に思いながらも、夜月は黙って相手の次の言葉を待った。
男がまた繰り返す。
「あなたは本当に、赤い鞄の存在を信じていらっしゃらないのですか?」
「ええ、まあ。それが普通だと思いますが……。一般的な良識がある人なら、そんなあやふやなものを信じている人はいないでしょう。赤い鞄は、この町に伝わるお伽話に過ぎません。むしろ信じている人の方が神経を疑われてしまうと思いますよ」
すると男は、にやりと笑ってこう言った。
「だったら、あなたは何故、そんなにも本気になって赤い鞄を探そうとしているのですか?」
「えっ……」
夜月は予想外の言葉を投げ掛けられて、少し驚いた。
そして、慌てて言った。
「わたしはその、別に探している訳ではありません。お邪魔させて頂いたのは、ただ雑誌の取材の為でして……」
「でも、それは嘘だ」
男はきっぱりと言い放った。
何だ、この男は。一体何なんだ……? こいつは何を言っているんだ。何の根拠があってそんな事を言い切ったりするんだ?
「そんなことは……」
夜月が言い訳をする前に、男はそれを遮って話し始めた。
「雑誌の取材者は、それらしいショルダーバッグかなんかを持ち歩いているものです。情報収集には欠かせない、地図だとか録音テープだとか、そういった物が入ったそれなりのバッグをね。あなたはそれをお持ちでない。見たところ、せいぜいが手帳をお持ちになっている程度だ。とてもではないが、あなたは雑誌の編集をしている者には見えない。あなたは雑誌の編集者だと身分を偽って、私に嘘を吐いている。失礼ですが、名刺を見せて頂けませんか?」
ぐうの音も出なかった。反駁の余地はどこにも無かった。
夜月は、雑誌編集者を装うといった、その下地の部分を作らずに、軽い気持ちでここへやって来た。男にそこの部分をそれだけ明解に突かれると、何も言い返せなかった。
夜月は顔を赤らめ、黙って俯いた。まるで、悪戯が見つかって先生に叱られている小学生のような居心地の悪い気分だった。
それにまた、子供の噂話なんかを頼って、こんな訳の分からない男の所にやって来、相手に詰問を受けていることに対していくらか腹も立った。
「お互いに、本音で話し合いましょう……。別に私は、あなたの嘘を咎めるつもりはないのですよ。あなたと本音で話し合いたいだけです。あなたがどうして赤い鞄を探しているのかという、その確かな動機をね。私にとっては、あなたが雑誌の編集者かそうでないか、実際にはどういった仕事をしているのか、そんな事はどうでもいい事です。私はあなたの本当の動機が知りたいだけです。それを聞いて私が納得いけば、私の持っている赤い鞄の情報をお教えしましょう。それを信じるか信じないかは、あなたの自由ですが」
夜月は座り直して、相手の顔をまじまじと見つめて言った。
「赤い鞄の……情報……?」
ここへ来た動機とは全く相反するのだが、夜月は、この男は何を言っているのだろうかと思った。この男は、おかしいのではないだろうかと。
自分で訊きに来たくせに、夜月には段々と、この男がネッシーや雪男などといった、非現実的なものを信じる狂信者に見えてきて、逆に男を説き伏せたいような気分になってきた。そんなものを信じている相手の方がおかしいのだと。それには、先程の屈辱感が夜月を発奮させているせいもあった。
「あなたの方こそ、嘘を吐いています。赤い鞄なんかこの世にある訳がないのだから。あなたがそれを知っているというのも嘘だ。仮に知っていたとしても、その情報が確かなものかどうかなんて信じられたものじゃない。それとも、あなたは絶対に赤い鞄が存在しているっていう証拠でも持ってるんですか?」
「あなたも、面白いことを言う人だ。自分で真剣にそれを探しに来ておきながら、そんな事を言うなんてね。……しかしながら、いきなり痛い所を突いてしまって、少しばかりこちらに反発を覚えたのであれば謝ります。私の言い方も、ちょっと意地悪だったかもしれない。別に私は、あなたを責めるつもりは全然なかったのですよ。失礼しました」
男はそう言って頭を下げた。
そんな風に男に謝られると、夜月は少し戸惑った。
「まあ、何があったのか言ってごらんなさいな。ひょっとして、あなたの力になれるかもしれない。私は見た目よりは、色々と人生経験を積んでいるんですよ。ふふふっ……」
男は自嘲気味に笑った。
それから、夜月はその男に、自分の彼女である千冬のことを救いたいのだという事を、今までの経緯と共に話した。話している間中、どうしてこんな男に人生相談を受けてもらわなければならないのかと自問しながら。
夜月が話し終えてから、男は大きく頷いた。
「お話し、とても良く分かりました。あなたはどうやら真面目に赤い鞄を探しているようだ。それに、あなたからは誠意を感じる。あなたはとても優しい方だ。私はあなたの話しを気に入りましたよ」
そう言って、男はその場でメモ用紙に走り書きをして、それを夜月に渡してくれた。
「この人の所へ行きなさい。赤い鞄の秘密については、直接私の口からは言えない。その人が、また色々と教えてくれるでしょう。まだ半信半疑かもしれないですけど、赤い鞄は本当にこの世に存在するんですよ。決して町の噂なんかではなくね……。私はあなたを担ぐつもりはない。最後まで信じて赤い鞄を見付け出すか、途中で馬鹿馬鹿しくなって諦めるか、それはあなた次第です。検討を祈っていますよ……」
夜月は狐につままれたような気持ちで、その男の家を後にした。 まさか、こういう結果になるとは思っていなかった。
つまり、それは今になって分かったことだが、夜月自身、あまり赤い鞄の存在に対する信憑性については信じていなかったということになる。聞き込みにしたって、あちこちで下らないがせネタを掴まされて、虚しく歩き回る自分の姿を予想していた。まさか、あんな真剣な答えが返ってこようとは思いもよらなかった。
少なくとも、あの男は赤い鞄の存在について本気のようだった。しかしながら、赤い鞄を信じている者が自分だけでないと知るのは、夜月にとっては少し勇気づけられることでもあった。
今は、縋れるものなら何だっていい。やれるだけやってみるだけだ。人は今の自分の行為を愚かしいと笑うかもしれないが、可能性があるのなら今はそれを追ってみたい。赤い鞄が本当にあるのかどうか、今はまだかなり疑わしいが、無いともまた決して言い切れないのだから。
彼は、少しやる気になってきていた。男の情報がどこまで信用できるものなのか良く分からなかったが、少なくとも、これから頑張って探していけば、どこかでそれらしい核心にぶつかりそうな気がする。夜月は、あの男に言われたように、今度こそ本気で赤い鞄を信じてみるつもりになっていた。
外ではまだ雨が降り続いていた。腕時計を見ると、十一時半。結構長い時間あの男の家に居たようだ。どこかで適当にお昼でも食べて、このメモの住所に行ってみるか。ここから少し距離はあるが、行って帰ってきても、たぶん夕方までには家に帰れる筈だ。千冬の為にも、陽が暮れるまでには帰宅しなくてはならない。
彼は車を発進させた。夜月は気付いていなかったが、二0三号室の窓から、あの男が夜月の様子を見ていた。
その男の表情からは、笑顔は消えていた。
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