第8話 インサイドベットの生き方
■ ■ ■
安曇編集プロダクションに勤める先輩の一人、足立阿智。
彼は、ギャンブル中毒だ。
「いいか牧野。ギャンブルってのはな、勝利戦略が重要なんだ」
「はぁ。御託はいいんで仕事してくれませんか、足立さん」
いつだったか、そんなふうに彼が話しかけてきたことがあった。
その時は、本業である季刊雑誌の校正作業が立て込んでいて、はっきり言ってバカの相手をしている余裕はなかった。いや、先輩のことをバカにするわけではなく、仕事をしないバカの相手をしている時間がないという意味である。
というか、暇なら手伝えよと怨嗟の思いを抱いた。
「はぁ、余裕が無いな。そんなんじゃ、博打の神様が逃げていくぜ?」
やれやれと言った風に、肩をすくめてみせるダメ先輩。
それを見ながら、呆れた様子で真樹は答えた。
「博打って言っても、先輩の場合パチンコでしょ? あんなの、いくらでも調整されているって聞きますよ。そんなのまじめにやっても、お金を飲まれるだけじゃないんですか?」
「ばっかお前。そういった調整とか、回転率をしっかりと見て、出る台を見極めるのがパチプロってもんだろうが」
「……いつから転職したんですか」
一応、この会社に席をおいているはずであるが。
転職するあかつきには、ぜひとも設けたお金でご飯をおごってほしい。
「まあ、確かに無駄って言われても仕方ねぇけどよ。だが、全部が全部、与太話ってわけじゃねぇんだぜ」
そんな風に話半分に聞いていたのだが、そこで、足立は急に、真面目くさった声を出す。
「何事にしても、傾向と対策は必要だ。どんなことも、それを怠っていいことはない。逆に、人事を尽くせば、必ず天命は微笑んでくれんだよ。どんなにお金をつぎ込んだって、釘打ちが悪かったり、回転率が最悪だったりすると、出やしない。出るための努力ってのは、一定以上しないと、まず勝負の土俵にも上がれねぇんだよ」
傾向と対策。
学習において必須と言われる要素ではあるが、そんな言葉をギャンブルに使ってほしくはない、と真樹は思う。
しかし、そこで思わぬ声が入った。
「足立の言うことも、バカにはできねぇぜ、真樹ちゃん」
意外にも、匡が足立の肩を持ったのだ。
「お、なんだ近江。やっぱお前は話がわかるじゃねぇか。そうだよな、やっぱりリサーチは必要だよな、うん」
「いや。お前の場合はそれ以前に中毒だから。つーか、パチンコの控除率じゃ、長期的な勝ちは無理だっつの」
匡は苦笑しながら、真樹に向けて言う。
「それより、傾向と対策って話。ギャンブルにかぎらず、勝負事ってのは研究して、準備を整えたものが勝つからね。足立の言ってる、人事を尽くしてってのは、あながち間違いじゃないんだよ」
真樹にとって理解しやすい例を上げると、ゲーム理論だ。
将棋やチェスといったボードゲームは、二人零和有限確定完全情報ゲームと言って、理論上は完全な先読みが可能である。しかし、それを阻害するのは相手の思考であり、その先読みのぶつけあいこそが、勝負の本質だ。
定石を研究し、相手の思考を読み、より合理的な手を選択する。
それに限らず、物事とは、準備をしているのとしていないのとでは、結果に雲泥の差が出る。
知識がなければ割を食うが、逆に言うと知識があれば、逆に相手を食い物にできるのだ。
そんなことを説明されて、足立は調子の乗った。
「ほぉら見ろ牧野! これで、俺が日夜パチスロに通っているのが努力の証であると分かっただろ! 大体、控除率は悪くても、パチンコは還元率が良いんだ。ちゃんと勝つ台に座ればいいだけの話なんだよ」
「……そりゃ台ごとの還元率だから、平均するとかなり下がるぞ」
足立の言葉に、匡がボソリと呟くように言う。
見るからに残念な先輩から目をそらして、作業画面へと視線を移して、一言。
「はいはい。じゃあ今度勝ったら牛カルビ定食おごってくださいよ」
「おい。ちゃんと聞けって」
そんな、在りし日の記憶。
しかし、その時の『ギャンブルの勝利戦略』も、バカにできないものであると、このサングローリー号、ギャンブルクルーズに乗って、真樹もようやく実感するのだった。
※ ※ ※
全身を覆う気怠さに負けて目を覚ました。
クルージングが開始して、三日目。
昨日の朝も、似たような起床の仕方だった。どちらも、落ち着けない気持ちをなだめるように瞼を閉じ、必死で寝つこうとして夜を過ごした。
主な原因は、隣にいる年上の男性だ。
「よぉ、おはよう。真樹ちゃん」
すでに身支度を整えて、自前のノートパソコンを広げて作業をしている近江匡が、ベッドから半身を起こした真樹の方を振り返った。
寝ぼけ眼で真樹はその姿を見つめる。
昨夜の憔悴した様子から、完全に調子を取り戻している匡の姿。それを見ていると、恨めしいような憎らしいような、割り切れない感情が胸の中で燻った。
「もうすぐで朝食だからさ。それまでに、シャワーでも浴びてきたら?」
真樹の気持ちも知らずに、さわやかにそんな風に言う匡。
「……はい」
何を言っても仕方ないと悟り、真樹はせめてもの抵抗としてそっけない返事を返してから洗面所へと向かった。
昨日と、一昨日と、二度の夜があった。
どちらも、匡はさっさと床に入り、ほどなくして寝ついた。
隣に年頃の女性がいるにもかかわらず。
自身が年頃の男性であるにもかかわらず。
別に、意識して欲しいわけではない。
事実、彼に女性として意識してもらうのを想像しても、どうにもピンと来ないというのが本音だ。
それはおそらく、彼自身がまったく真樹を『女性』として見ていないからだろう。彼が真樹を見る目は、あくまで『後輩』であって、異性ではないのだ。
その関係に不満はない。
むしろ、誇らしいとすら思う。
守られる立場とはいえ、近江匡に目をかけてもらえているということが――ほんの少しでも、彼の人生の中に、立ち位置があるということは、真樹にとって誇りともいえる事実だ。
だがしかし。
そういった本音とは無関係に、さすがに異性と同じ部屋で寝るなんて言う事態を前にして、平常心でいられるというのが釈然としないのだった。
(私だけ意識しているみたいで、ちょっと悔しい)
外泊とはいえ、私生活の、無防備な姿を見られるということには、やはり抵抗がある。寝顔なんてなおさらだ。それなのに、向こうはまったく気にした様子がない。
こちらは踏み込まれたくない境界を設けているというのに、向こうは平然とその境界を取っ払っているという事実が、心の中をざわめかせるのだ。
羞恥心や、嫌悪感のような感情ではない。
無抵抗に全てをさらけ出している匡を、まるで自分が拒否しているかのような感覚。
それがたまらなく、嫌なのだ。
(考え過ぎだってのは、分かってるんだけどなぁ)
バスタブで熱いシャワーを浴びながら、真樹はわだかまりに似た感情を均していく。割り切れない思いを無理やり整えて、自分を律する。
夜だって、あと二回しかない。
それに、今日はとうとう自分のお金でギャンブルに手を出す。
怖いけれど、どこかわくわくもしている。この感覚こそが、ギャンブルの魔力なのかもしれないと、落ち着かない気持ちにもなっていた。
温まった身体から水気を取り、ドライヤーで濡れた髪の毛を乾かす。それから簡単にメイクをして、準備万端だ。
胸の中の熱い感情を意識しながら、真樹は匡の元へと向かった。
※ ※ ※
ルーレット。
カジノと言えば、ルーレットを連想する人間も多いだろう。
回転する円盤の中に球を投げいれ、落ちる場所を当てるというこのゲームは、カジノの女王とも呼ばれ、世界各地で愛されている。
その華やかさとルールの簡単さから、初心者が初めに手を出しやすいゲームと言う点でも有名である。
ポーカーやブラックジャックといったカードゲームと違い、基本的には駆け引きが絡むこともないため、完全な運のゲームとなる。
参加方法は簡単だ。
ルーレットの出目を予想し、ルーレットテーブルに描かれている表の好きなところにチップを置く。ただそれだけの、シンプルなものだ。
賭け方は様々だ。
特定の数字だけを狙う一目賭けから、隣り合った数字、十字の方向にある数字をまとめて賭けるなど、関連のある数字をまとめて賭ける『インサイドベット』
それに対して、縦一列に賭けたり、偶数か奇数か、赤か黒かと言った大まかなくくりで賭ける『アウトサイドベット』
大別はこの二つであり、賭け方によって倍率は変わってくる。
ややこしそうだが、実際に体験してみると簡単なことに気付く。
ルーレットの特徴は何よりこのプレイのしやすさであり、どんな賭け方をしようとも、控除率は一定に保たれるというフェアな面が強みだ。
――もっとも、期待値という面で見れば、カジノ側が有利に設定されているのは前提である。
それでも、日本のパチンコなどに比べれば数倍ましであるが。
三日目の午前十時。
牧野真樹は、サングローリー号四階の、ルーレット台の前に座って唸っていた。
彼女の目の前には、ルーレット台専用のチップが置いてある。
ルーレットはそのゲームの性質上、プレイヤーごとに別の色のチップが用意される。真樹にあてがわれたチップの色は緑色で、はたから見てもその数は少ない。
はじめ、真樹は五万円分をチップに変えたのだが、その分は見事に溶けてしまい、今は追加の二万円で勝負をしているところだった。
チップは大きさと絵柄で分けられており、基本的には五百円チップ、千円チップ、五千円チップ、一万円チップの四種類。
最低ベットは五百円。最高は五十万円。
一般的なカジノのルーレットとしては、ミニマムは平均的だが、マックスベットが高めに設定されている。
しかし、こうしてチップで見ていると、金銭感覚がおかしくなっていくから不思議だった。すでに五万円も溶かしているのに、ちょっと損をした程度の気分である。追加で二万円をチップに変えた時こそ、財布が軽くなる痛みを感じたが、それもすぐに消失した。
これこそが、ギャンブルの恐ろしいところなのだろう。
小さな勝ちはしていても相対的には負けていることに不満を覚えつつ、真樹は不機嫌そうな顔で次のゲームに向けて準備をする。
ディーラーが一度ベルを鳴らす。
ベット開始の合図だ。
真樹以外の参加者は五人だが、それぞれが好みの場所にチップを置いていく。しかし、ここまで連敗してきた真樹は、じっとその様子を黙って見ているだけだった。
やがて、ディーラーがホイールを回転させる。そして、ホイールの回転とは逆方向に向けて、ボールを投げいれた。
回転するホイールとボールを眺めながら、真樹は迷いつつも自分のベットを行う。
掛け金は、五百円チップを一枚。
賭けた場所は『赤』
ルーレットにおいてもっとも配当が少ない代わりに、二分の一で結果が出る、赤黒賭けと呼ばれる方法である。
やがて、ボールを投げいれてしばらく経ったところで、ディーラーがテーブルを撫でるような仕草をとる。
「ノーモアベット」
それ以上の追加ベットはできない。あとは、結果が出るのを待つだけだった。
ほかの参加者たちも一様にルーレットへと真剣なまなざしを向けている。回転するホイールと、その外周を疾駆するボール。やがてボールは回転中のホイールの中に転がり落ち、弾かれながら中心を走り抜ける。
固唾を飲んで見守る参加者と、感情の色の見えないディーラー。緊張の糸が張りつめているその一瞬は、ちょっとした刺激でも決壊しそうなダムのようだった。
ほかのテーブルで歓声が響いている。しかし、このテーブルはまだ重圧の中にあった。この場にいるだけで胃の奥がきりきりと痛んでいく感覚に襲われる。もう何度も感じた嫌な感覚に、真樹は「早く終われ」と思わず願ってしまった。
人の想いをしり目に、結果は純然と提示される。
00のポケットに入った白いボールは、その存在感を誇るようにそこにあった。
「あ、……」
がっくりとうなだれる。
ほかの参加者たちも同様で、中には五万の金額を賭けて負けた者もいたようだ。台の空気が暗いものへと変わる。
ディーラーがテーブルの外れチップを回収するのを、皆が恨めしそうな目で見つめていた。
真樹は五百円の賭けだったが、それでも負けて気持ちのいいものではない。しかし、負けた金額が小さすぎるため、実感がわかないのも真実だった。
実際、そうやって真樹はここまで五万円を溶かしてきた。
最高で賭けるにしても二千円か三千円。負け筋が見えると、ちまちまとミニマムベットの五百円でお茶を濁すという、あまりにもお粗末な賭け方をしていた。
「むぅ」
何の解決にもならないが、とりあえず唸っておく。
勝てなかったことがさらに不機嫌を加速させるが、しかし不機嫌の根本にあるのは、ギャンブルそのものが原因と言うわけではなかった。
――かかっ。負けちまったな。よし、次頑張ろうぜ、真樹ちゃん。
うなだれた自分に向けて、そんな言葉がかけられるのを期待していた。
しかし、真樹の求める言葉を言ってくれる男はここにはいない。
それがどうしようもなく不満で、ついつい真樹はふてくされたような感情を垂れ流しにしてしまうのだった。
※ ※ ※
そもそもは、匡が一人で五階に行くと言い出したのが原因だった。
今回の目的である、五階以上の上流階級御用達の高級カジノ。
当然のように匡と一緒に行くつもりだった真樹は、正装に身を包んで準備を完了した匡の言葉に驚いてしまった。
「んじゃ、真樹ちゃんは四階で適当に遊んで、飽きたら部屋でゲームでもしてて」
「え? 私も一緒に近江さんについていくつもりですけど」
思わずそう言ったのだが、それに対して驚いたのは匡も同じだったようで、まったく気遣いのない言葉を反射的に返してきた。
曰く。
「はあ? 連れて行くわけないじゃん」
レートは違うし、客層も違うし、何より危険だ。
それが匡の言い分だったのだが、初めの一言にカチンと来てしまった真樹は、そっぽを向いてつい言い捨ててしまった。
「分かりましたよ! じゃあ私一人で遊んできますから、近江さんもご勝手に!」
別に喧嘩するつもりでも、険悪な空気になるわけでもなかったのに、なぜか真樹一人だけが、つんけんとした態度をとってしまった。
別れ際の匡の様子が、困ったような表情をしていたのを考えると、彼としては悪い扱いをしたつもりはなかったのだろう。
だから、これは真樹の勝手なわがままだった。
それはよくよく理解している。しかし、それでももやもやは残るのだった。
※ ※ ※
「近江さんの馬鹿……」
ずっと胸の中でくすぶっていた気持ちをつい言葉として出してしまう。
そのつぶやきを自身の耳で聞いたことで、急に恥ずかしくなって軽く顔を伏せるように目線を落とした。
そうこうしているうちに、ベルの音が鳴った。
次のゲーム開始の合図だ。
まだ心中に残っている羞恥心から目をそらしつつ、真樹は次のベット先を考える。
ルーレットに必勝法というものはないが、戦略自体はいくつかある。
代表的なのは、一回のゲームにおける賭け方である。
ベッティングシステムとも呼ばれるが、要するに一度にいくらの金額を賭けるかの戦略だ。
ルーレットは、前回の結果が次回の結果に影響しない、独立事象のギャンブルだ。
一回ごとの確率は独立しているため、ギャンブルとして見た場合、控除率がゼロではない限り、期待値は常にマイナスになる。
つまり、長時間プレイすればするほど、相対的には負けやすいのだ。
その上での勝利戦略としては、簡単に次の二パターンがある。
・大きな勝ち負けの勝負をする
・小さな勝ちを繰り返し、大負けしない
これはギャンブルの基本的な戦略でもあるのだが、ルーレットの様なゲームの場合、この基本こそが最善の戦略と言える。
とはいえ、所詮は戦略。
必ず勝てるわけじゃないし、はっきりと言って負けてしまうことの方が多い。
実際、真樹はずっと、小さな勝ちのために小さな負けを続け、結局ここまで来てしまった。
大きな勝負に出ようと思ったこともあるが、その勝利戦略である『倍賭け法』、すなわち『マーチンゲール』と呼ばれる戦略は、ある程度の資金力があってようやく成り立つ戦略である。
リミットが十五万しかない真樹は、生半可にその戦略を知っているがゆえに手が出ないのだった。
(……でも、なんかジリ貧って感じ)
もう一つ。
勝利戦略の一つとして、ディーラーが次に狙う出目を読む、というものがある。
これに関してはオカルトじみた話になるが、ディーラーは狙った出目を出すことができると言われることがままあるのだ。
実際は、ホイールの回転とボールの回転の二つの障害がある以上、人の手でどうこうできるものではないので、あくまでオカルト的な話である。
ただし、出目を狙うのは無理でも、特定の出目を外すのはテクニックとして存在するという話は、一言告げておこうと思う。
さて。
ルーレットにおいて、一つのゲームで確率的に勝ちやすいのは、比較的二分の一に近い『偶数奇数』か『赤黒』、『ハイロー賭け』の三つであるが、これらはルーレットの目に0や00が含まれるために厳密には二分の一ではない。
そういったところも最終的な期待値を下げる要因であり、ルーレットの持つギャンブル性の高さともいえよう。
「……ま、いっか」
ごちゃごちゃ考えるのが面倒になった真樹は、直感に任せる。
結局このゲームでは、ハイロー賭けのハイ、すなわち1から18のどれかの目が出るという選択にした。
配当は二倍。
ベットは千円にした。
ディーラーの「ノーモアベット」の声を遠くに感じながら、真樹はじっと台を凝視する。
ちなみに、真樹の様なアウトサイドベットな賭け方は、当たりの確率が高い分、配当は低い。もし、より高い勝ちを狙うならば、特定の数字を狙うインサイドベットが必要になる。
インサイドベットは、配当の倍率が段違いで、六つの数字のどれかが当たることを賭ける六目賭けでも六倍。一つの数字に賭ける一点賭けに至っては、三十六倍というとんでもない倍率になる。
もちろんそんな賭け方をして当てるのは、それこそフィクションな話だ。
一点賭けで当たる確率は三十八分の一という途方もないものである。そんな冒険、してみようなどと思いもしない。
それはそれとして。
今回のゲームに関しては、真樹の賭けは当たりを引いた。
ボールは黒の8のポケットに入った。
ハイ賭けしていた真樹は、千円の二倍、二千円の配当を受け取ることになった。
ディーラーから送られる配当分のチップを受け取り、ほっと一息ついた。何戦も負け続きだったので、勝つことができてほっとしたのだった。
と、その時だった。
「ちまちました勝ち方で満足してんじゃねェよ、姉ちゃん」
横合いから、高い声で馬鹿にするような言葉がかけられた。
声の主は、椅子に座った真樹と同じくらいの高さにいた。
帽子をかぶった、中学生くらいの子供だった。
よくても高校生ぐらいだろう。中性的な顔立ちで、大人しくしていれば少女のようでもあった。
アウトドアなベストとジーンズという格好は、この船の中ではミスマッチだが、この子が着ていると自然と馴染んで見える。
その子供は、けらけらと楽しそうに笑いながら、真樹に話しかけてきた。
「なんつーか、姉ちゃんの賭け方って、恐る恐る、って感じだよな。そんなんじゃ、すぐに負けていつまでたっても大勝はできないぜ?」
「……いいんだよ。大勝はしない代わりに、大負けしないようにしてるんだから」
子供の言葉、とわかってはいても、ついついムキになって反論してしまう。
そんな真樹の様子が面白かったのか、子供はさらに調子に乗った笑い声を重ねる。
「はは、大負けはしないように! そりゃあいい、傑作だ」
ケラケラと、癇に障る笑い方だった。
相手は子供なのだから、苛立つのは大人げないとは思う。しかし、その少年の笑い方には、どこかませたところがあった。
無理して大人ぶっているという様子ではなく、純粋に、真樹のことを下に見て、あざけ笑っている。
怪訝に思って少年を見下ろした真樹は、ぎょっとする。
少年は、子供らしからぬ笑みを浮かべていた。
笑みはシニカルに。瞳は大きく喰らうように。
「そんなもんは負け犬の発想だぜぇ? 『お姉ちゃん』」
雰囲気が変わる。
声色は嘲るようなものから威圧するものに変わった。
「はっ。大勝はしないけど大負けはしないだァ? ふざけんじゃねェっての。そんなもん、ギャンブルじゃねェだろうが。宴会でルーレット回してんのとはわけがちげェんだよ。現金賭けてんだ、緩い感覚で遊んでんじゃねェぜ?」
まだ幼さの抜けきっていない高い声は、年相応のもののはずなのに、その言葉は粗暴な成人男性のように感じた。あまりの剣幕に圧された真樹は、思わず身を縮ませてしまう。
大きな瞳を見開き、皮肉気に形の良い唇をゆがめながら、子供――少年の言葉は続く。
「現ナマちらつかせている以上、そいつァ命の端っこ賭けているようなもんだ。勝てば潤うし負ければ乾く。気持ちじゃねェ、現実がだ! それがリアルな痛みじゃねェから、どいつもこいつも勘違いしてやがる。誰一人、金の目減りが命の削れだって感じちゃあいない! 必死になっちゃあいないんだ!」
少年は、乱暴に頭を掻くようにして帽子に触る。そのまま皮肉気に笑いながらポケットに手を入れると、続けてテーブルに手を伸ばした。
「だったら、必死になるようにしなきゃダメだよなァ? 一度行くと決めたら、
少年の伸ばした手の先には、チップが握られている。
色は紫色。無造作に握られた七枚のチップを、彼はそのまま台に置いた。
黒の8。
一点賭け。
チップは一万円チップを七枚。なんと、七万円を一気に賭けた。
「そうだろう? 『おねえちゃん』」
いつの間にやら、開始のベルは鳴っていたらしい。
ホイールはすでに回転しており、ボールも投げ入れられている。
「な、何をしてるの!」
驚いた真樹と、気にした風もない少年の様子。
黒の8と言えば、つい先ほどのゲームの出目と同じだ。
常識的に考えて、二度続けて同じ数字が出るわけがない。それ以前に、一点賭け自体が、無謀としか言いようがない。
そんなことを言おうとしたが、まるでその言葉を予見しているかのように、少年は鼻で笑うようにして言う。
「おいおい姉ちゃん。こいつは独立事象だぜ。前回の結果は、関係ねェよ」
小馬鹿にするような物言い。
それどころか、続けて少年はとんでもない行動に出た。
なんと、真樹の手元のチップをすべて、同じ黒の8に移動させたのだ。
あまりの出来事にあっけにとられた真樹は、その行動を止めることすらできなかった。
総額一万七千円分のチップが、少年のチップとともに黒の8に置かれる。もはやあふれるようなその置き方に、周囲の誰もが瞠目する。
真樹が慌てて自分のチップを戻そうとしたときには遅かった。
ディーラーの無情な一言、「ノーモアベット」の声が響く。
それでも真樹が手を伸ばせば、ディーラーは止めはしなかっただろう。
通常ならマナー違反で止められるが、今回の場合は子供のいたずらの様なものだ。真樹が唖然として行動が遅かったため、ディーラーも迷いながらベット終了を宣言したのだが、この時点で強硬に意思表示をすれば、真樹の分の掛け金はノーゲームとなったはずだ。
しかし、何が何だか分からなくなってしまった真樹は、思考がショートしてしまい、硬直して行く末を見守ることしかできなくなった。
ルーレットが回る。
ぐるぐる回るホイールに、ボールが駆け込む。からんからんと弾かれながら転がるボール。それらの絵がまるで遠い出来事のように真樹の目に映る。
すぐそばで少年がつぶやく。
「複雑な理屈や、変な期待なんてもんは関係ねェんだよ」
その笑みは勝ち誇っている。
勝負はまだついていないのに?
まるで勝利を確信しているかのようなその笑みは、しかしルーレットの勝ちを確信しているのではない。
――おそらく彼は、人生の置いての勝ちを確信しているのだ。
こんなルーレット程度のけち臭い勝ち負けなんてどうでもよい。たとえ勝とうが負けようが、そんなものは同じことだ。
だからこその一点賭け。
だからこそ――勝利の女神が微笑まずとも、勝利を自ら手繰り寄せる。
「……あ」
ボールがポケットに入った瞬間、真樹は思わず声を漏らしてしまった。
「ほら見ろ」
当然の結果に得意然とした彼は、傲慢な様子で楽しそうに吐き捨てる。
「勝ちなんて簡単に取れる。大勝なんてもんは珍しいもんじゃあねぇんだ。どこに転がってるかもわからねぇ死体を探すより、生きるってのは簡単なんだぜ?」
出目は、黒の8。
一点賭け――配当は、三十六倍。
どくり、どくりと心音が高鳴る。
全身の血が沸騰したように熱くなって血管を駆け巡る。興奮していると、真樹は感じた。しかしそれとともに、吐き気にも似た、気色の悪さが胸に湧いてくる。
まるで泥でも飲み込んだような不純な興奮。
吐き出したいのに胸にうずくまる喉元の違和感。
呼吸を乱しながら、真樹は少年を見る。
少年は笑っていた。
シニカルに、ニヒルに――それは途方もなく、ラジカルな笑い方だった。
似ている、と直感的に悟った。
それはもう五年前。まだ学生だったころの真樹が、どうしようもない困難にぶち当たって、途方に暮れていたところを、さっそうと現れたあの男――あの近江匡と劇的な出会いを果たしたときに感じたものと、酷く似ていたのだった。
認めたくない。
そう思いながらも、認めざるを得ない。
この絶対性を、この圧倒感を。
それは、あの近江匡と、同じ種類のものだ。
真樹の前には、先ほどの勝利の証であるチップが送られてくる。
その総額、六十一万二千円。
おそらく一度に使うことはめったにない金額が、その手の中にあった。
そんな勝利を演出した少年はと言うと、こちらは二百五十二万の勝ちだ。
この台の最高である特殊チップ、五十万チップが出されるほどに、その勝利は劇的だった。
吐き気を催し、全身を脈打つ血液の動きを感じながら、真樹は尋ねる。
「君は、いったい……」
それに対して、少年はにやりと、嫌悪感を覚える笑みとともに返す。
「ん? ……ああ、オレの名前、聞いてんのか」
線の細い、少女のような体躯をした少年は。
しかし幾年も歳を重ねたような粗暴さで、その名前を言い放った。
「オレは、ヒズミ。遠山ヒズミってんだ」
それから、まるで女の子のようにあどけなく微笑みながら、ウインクをした。
「可愛いからって、惚れんなよ?」
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