第二章 その首もらうと男は嗤った

1 白の魔王


「ユートムとは、即ち“有”と“無”です。いかなる者をも超える神、森羅と万象を内包する存在。故に私たちは、自らがユートムの欠片であることを学ばなければなりません」


 表通りに面した宿の一階にある小さな食堂に、鈴を転がすような声が響く。

 食事中の旅人たちに向かって、慈乃はユートムの教えを説いていた。


「私たちが善なる行いを重ねれば、世界そのものであるユートムもまた、その善なる側面を強くします。逆に悪しき行いを重ねる者が増えれば、世は怨嗟と憎悪に満ちるのです」


「ははぁ……分かったような、分からんような。そもそも善ってなんなんだ?」


「善とは、人の世、天と地、身と心、ありとあらゆる場における“有”と“無”が正しく循環する状態のことです。それは命を育み、世を良い方向へと導きます」


「う~ん……なるほど。ユートムの使徒ってのは大したもんだねぇ」


 感心した様子で聴衆が唸る。安堵と満足を味わう慈乃に、厨房から声がかかった。


「おーい、神子さん! 話が終わったんならとっとと料理を運んでくれよ」


 慌てず騒がずそちらに向かい、出来たての料理を受け取る。浄言を唱え、指をクルリと回して作り出した平らな風の渦の上にそれを乗せ、客の待つテーブルへと向かった。


 フィルウィーズとアルメルティを結ぶその中間に、ジャルハンという町がある。

 複数の街道が交わる場所に位置する、いわゆる宿場町である。それだけに人や物の行き来は盛んで、連日無数の商人や旅人が訪れては旅立っていく。

 フィルウィーズを出立したその日の夕方にはこのジャルハンまで移動した慈乃(とライゴウ)だったが、ここで思いもよらぬ窮地に陥り、足止めを余儀なくされていた。




   ○   ○   ○




 その日の仕事を終えて、食堂のイスに腰を下ろす。宿の主人が厚意で作ってくれた粥を啜りながら待っていると、しばらくして入り口からライゴウがやってきた。


 こちらに気づいて、同じテーブルの対面に座る。


「疲れているようだな。旅を続けるのは嫌になったか」

「いいえ、この程度は苦労とも思いません。あなたを野放しにはできないという神官長のお言葉を、何があろうと順守する覚悟です。今後も同行させていただきます……ただ」


 いったん言葉を切って、正直な想いを吐露する。


「――お金を稼ぐのが、これほど大変なことだとは思ってもいませんでした」


 着の身着のまま飛び出した慈乃が、路銀の持ち合わせがまるで無いことに気がついたのはジャルハンに到着した時のことだった……無論不死人であるライゴウも無一文である。


 あの日初めてジングウの外に出た慈乃からすれば、天が裂けたような衝撃だった。金という概念は知っていたが、『金が無ければ何もできない』などと考えたこともなかった。


 フィルウィーズのジングウを滞りなく取り回していた渚を改めて偉大だと感じ、彼女の危惧した混乱を起こさせないため力を尽くす決意を新たにし……それはそれとして、金が無いという現実的な問題にも、可及的速やかに対処する必要があった。


 結局二人は、もっとも地道で確実な方法を選んだ――仕事を探して働いたのだ。

 人と物が行き交うジャルハンである。仕事はすぐに見つかった。慈乃は食堂の手伝い、ライゴウは日雇いの人足。ユートム教の信者である宿の主人が宿泊代を無料にしてくれた幸運もあり、この十日ほどで二人はそこそこの金額を手に入れていた。


「ここ数日は皿洗いや食器運びだけでなく、客としていらっしゃった方々に向けて、説法の真似事などもしています。神子の身でありながら出過ぎた行いではありますが、ジャルハンにはジングウが無く、ユートムの教えにより身近に触れたいと考える方も少なくないそうです。ライゴウ様の方はどういった塩梅ですか?」


「今日も荷物運びだ。鈍った体にはちょうどいい。そろそろお前一人分の旅費になるか」


「ライゴウ様の分はよろしいのですか?」


「旅費といっても、旅に入り用な道具を買う金と、当面の食費と宿代だ。俺は食べる必要も無いし、宿など入らなくとも適当に休めば事足りる」


「それでは風邪を引いてしまいます。古来、風邪は万病の元と言われていて……」


「どうせ死なん。死ねるのであれば、むしろ本望だ」


「……そういえば、あなたは死を望んでいるのでしたね」


「回り道をしたが、お前に運んでもらった方が結局は速そうだ。アルメルティまで頼む」


 今後についてあれこれ話し合っていると、店にふらりと吟遊詩人がやってきた。まばらになった客の間を進み店の奥で楽器を構え、早速一曲披露する。




  それは遥かな記憶の彼方

  世は血に酔い痴れて戦に溢れ

  死と涙とで地は染まり

  どこかの愚かな王様が

  破滅の化身を連れて来た


  その名も高き白の魔王

  幾多の国を滅ぼして

  屍山血河を踏みしだき

  この世の全てに牙を向き

  人は終焉の音を聞く


  ああ名も無き英雄よ

  ただ一振りの剣を手に

  ああ名も無き英雄よ

  白の魔王に挑みしは

  その名も知れぬ一人の勇者


  かくして魔王は倒れ伏す

  勇者の行方は誰も知らない




 歌い終えた吟遊詩人に、客たちから喝采が飛ぶ。ふと異様な気配に気づき、慈乃は傍らに座っているライゴウを見やった。


 食い入るような視線で――それこそ貫かんばかりに吟遊詩人を見詰めている。その裏に怒りとも狼狽とも取れぬ何かを感じて、しばらく逡巡した末に、慈乃は彼に声をかけた。


「ライゴウ様……? あの、どうなさったのですか?」

「……今の歌はなんだ」

「魔王大戦を謳った歌です。二百年前の……ご存じありませんか?」


 今から二百年以上も前、世界は戦乱の時代にあった。幾多の国が興っては滅び、裏切りと謀略が錯綜し――混迷に終止符を打ったのは、白の魔王と呼ばれる存在の出現だった。


 結局それが何者だったのか、はっきりしたことは分かっていない。ただ尋常ならざる力と、自分以外の生命に対する絶対的な敵意を持つ怪物だったと、当時の文献にはある。

 世界を脅かした白の魔王は、しかしある時を境に歴史から姿を消す。異界に去った、名も無き英雄の手によって倒された、力を使い果たしてどこかで眠っている……そんな根拠の無い噂だけが今も伝えられている。実在を怪しむ声さえあるほどだ。


 吟遊詩人が二曲目を歌い出すと、もう興味を無くしたのかライゴウは窓の外へと視線を移した。一人で完結して自分の世界に入ってしまった彼に困惑し、小首を傾げる。


 翌日、水筒や火打石、ランタンと油、筆と紙、保存の効く食料など一人分の旅の必需品を買いそろえ、慈乃とライゴウはジャルハンの町を発った。

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