第192話 発表
「やった」
スマートフォンでメールを確認した僕は、思わず、そうつぶやいてしまった。
今が授業中で、それがヨハンナ先生の古典の授業だってことも忘れて。
教室で、クラス中の視線が僕に集まる。
静かだった教室に、僕の声は思いの外、響いてたみたいだ。
「あ、ごめんなさい」
謝ったけど、もう、遅かった。
ヨハンナ先生が、教卓の前から、ツカツカとヒールの音を立てて、僕の机の前まで歩いてくる。
同じクラスの新巻さんが、「やっちゃったわね」って感じで、笑って見ていた。
「篠岡君、あなた、私の授業を受けてる最中にスマホ弄るなんて、いい度胸してるのね」
ヨハンナ先生が僕を見下ろして言う。
もちろん、ここは教室だから、ヨハンナ先生は、凜とした教師モードだ。
ネイビーのスーツをピシッと着込んだ、国語教師である。
「廊下に出なさい」
ヨハンナ先生が冷たく言った。
僕は、「すみません」と謝って廊下に出る。
僕を廊下に出すと、先生は後ろ手に教室のドアをぴしゃりと閉めた。
そして先生は、僕を、近くの階段の踊り場に連れて行く。
授業中だから、廊下や階段には誰もいない。
「で、どうだったの? 鬼胡桃さんと、母木君」
ヨハンナ先生が声を殺して訊いた。
「はい、合格です。二人とも、合格したそうです」
僕が小声で言うと、ヨハンナ先生は「良かったぁ」って言いながら、僕を正面から抱きしめる。
きつく、きつく、抱きしめた。
先生、痛いです。
なんか、大きなものが当たってるし……
さっき、教室で僕が思わず声を出してしまったのは、母木先輩からの、大学合格を報告するメールを読んだからだ。
母木先輩と鬼胡桃会長は、朝から二人で東京まで合格発表を見に行っていた。
先輩は発表を見て、僕にもメールを送ってくれたのだ。
いけないことは分かってたけど、二人のことが気になって、授業中にメールを開いてしまった。
別に、ヨハンナ先生の授業だからいいって考えたわけじゃないけど、結果的に甘えてしまって申し訳ない。
「良かった、本当に良かったよ」
結果を聞いた先生が、その青い瞳を潤ませた。
寄宿舎の管理人として、鬼胡桃会長を預かる者として、そして、母木先輩がいる主夫部の顧問として、二人の受験結果には、先生も気を揉んでいたんだろう。
僕達の前ではそんな素振りは微塵も見せなかったけど、先生も不安だったんだ。
抱きしめられて、僕は、先生の香りに包まれた。
これは、ソフランのクイーンズシルク、ブリリアントローズアロマの香りだ。
どうしていいか分からなかったけど、とりあえず、僕は抱きしめられたまま、先生の背中をぽんぽんと、叩く。
本当に良かったですね、って感じで。
こんなとき、気の利いた言葉を掛けられたらいいんだけど……
「それじゃあ、後で呼びに来るから、十分くらい廊下で立ってなさい。一応、怒ったことになってるから、しゅんとした顔して入って来るのよ」
先生はそう言うと、スッと表情を元に戻して、凜とした先生になってから教室に戻った。
先生に抱きしめられた残り香のようなものが体に付いていて、僕はなんだか幸せな気持ちで、十分間、廊下に立っている。
夕方、学校に受験結果の報告に来た鬼胡桃会長と母木先輩が、寄宿舎にも寄ってくれた。
「おめでとうございます!」
残っている寄宿生と主夫部で、二人を迎える。
弩も、萌花ちゃんも、新巻さんも。
錦織も、御厨も、みんな満面の笑顔だ。
「ありがとう」
安心した顔の母木先輩が言った。
「まあ、当然の結果ではあるのだけれど」
鬼胡桃会長が言う。
やっぱり、会長は会長だ。
玄関に現れた二人は、当然のように手を繋いでいる。
「あれ、先輩、ほっぺた、どうしたんですか?」
母木先輩のほっぺたが、気持ち赤く膨らんでるみたいに見えた。
「ああ、これか。ちょっとな」
先輩が、頬を
どうしたんだろう?
虫歯でもできたんだろうか。
「それじゃあ、お茶入れます。休んでいってください」
食堂で、御厨が二人にお茶を出した。
みんなでテーブルを囲む。
本当は、夕飯も食べていってほしいけど、今日はやっぱり、家族とお祝いだろうし。
「やっぱり、この食堂で、御厨君が入れてくれたお茶を飲むのは落ち着くわね」
鬼胡桃会長がそう言って一息ついた。
まだ、ここを出て数日なのに、会長は懐かしそうだ。
「それで、先輩、向こうで、東京で住むところとか、決めたんですか?」
錦織が訊いた。
「ああ、決めてきた。合格発表を見た後で、ついでにな」
母木先輩が答える。
「目をつけてたところに、手付けを打ってきたわ」
鬼胡桃会長が言った。
さすがの二人、行動が早い。
「やっぱり、お二人、同じマンションとかに住むんですか?」
萌花ちゃんが興味深そうに訊いた。
ラブラブの二人だから、同じマンションに決めたってあり得る。
「うん、そうだな。それも考えた。隣同士の二部屋が空いてるワンルームマンションがあったから、そこにしようとも考えたんだ」
母木先輩が照れながら言った。
「でも、やめたの。だって、二部屋借りたら、電気とか、ガスとかも二部屋分だし、もったいないでしょ。どうせ二人ずっと、同じ部屋にいることになるんだから」
鬼胡桃会長が言う。
ずっと同じ部屋にいることになるのか。
「えっ? ってことは、お二人、まさか、その………その、同棲とか……ルームシェアとか……」
弩が、顔を真っ赤にして訊いた。
弩、鼻息荒いぞ。
「そうだな、ある意味、同棲かな」
母木先輩が言う。
「私達、結婚するの。当然、夫婦だから、一緒に住むわ」
鬼胡桃会長が言った。
「えっ?」
そのとき、寄宿舎の中の時間が止まった。
元々、時間が止まったような、この寄宿舎だけど、今は確実に止まっている。
そして、時間が止まってる間に、僕達は「結婚」って言葉の意味を考えた。
「結婚」って、なんだったっけ。
「えええええええええええええええええええええええええええええええええ!」
時間が進むと、鬼胡桃会長と母木先輩以外、全員が椅子から立ち上がる。
「ホントですか?」
念のため、僕が訊いた。
「ええ、本当よ。私達、結婚するわ」
鬼胡桃会長が答える。
「おい、弩」
母木先輩が言うから、何かと思ったら、僕の隣で、弩が鼻血を一筋、垂らしていた。
「ああもう、弩」
僕は弩の鼻をハンカチで拭いて、前屈みにさせて、鼻を摘まむ。
のぼせて鼻血出すとか、子供か。
「どうしたんだ? 主夫部から初めての主夫が出るんだぞ、喜んでくれないのか?」
母木先輩が言う。
サッカー部が、うちの部から初めてJリーガーが出る、みたいな言い方だ。
「喜ぶもなにも……」
びっくりしてしまって。
それは、僕以外のみんなも同じだった。
鼻血を出した弩はもちろん、萌花ちゃんは新巻さんと抱き合って泣いてるし、御厨はその場にヘナヘナと崩れた。
錦織も、天を仰いで何か見ている。
「一緒に大学に通って、講義が終わったら、私がアルバイトをして生活費を稼いで、みー君は家事をするの」
鬼胡桃会長が言った。
「もちろん、親に大学の学費は見てもらうし、仕送りもしてもらうから、僕達はまだ完全に独立したわけじゃないんだけどな」
母木先輩が補足する。
春から、二人は同じ部屋で暮らして、そんな生活を送るのか。
想像しただけで、楽しそうだし、羨ましい。
「重ねて、おめでとうございます」
僕が言うと、みんなも思い出したみたいに、「おめでとうございます」を言った。
それから、女子も男子も、一頻り騒いだ。
もう、騒がずにはいられない。
二人は、僕達にもみくちゃにされた。
もみくちゃにされながらも、二人とも、幸せそうな顔をしている。
「だけど、鬼胡桃会長のお父さん、結婚なんて、よく許してくれましたね」
僕が訊いた。
市議会議長をしている、あの厳しそうなお父さん。
この寄宿舎に怒鳴り込んできた、あの人。
それがよく結婚なんて許したと思う。
「ああ、その結果がこれさ」
母木先輩が、赤く腫れた頬を摩りながら言った。
「えっ? それって……」
「結婚します、って報告に行ったら、引っぱたかれた。ふざけるなって、言われた」
先輩のほっぺた、そういうわけだったのか。
「結婚は、二人で決めたのに、みー君だけ一方的に殴られるのは、ずるい。私も、お父さんがみー君を殴ったと同じ力で、みー君のお父さんに殴られて来ます、って言ったら、うちの父、黙ったの」
鬼胡桃会長が言った。
「このあと、両家の親を交えて、話し合いが持たれるわ。まあ、私もみー君も、絶対に折れないけどね」
鬼胡桃会長が言う。
鬼胡桃会長の目が据わったところを見ると、本当に折れないんだなと思う。
二人は結婚の意思を貫くと思う。
「二人で近所に住んで、親に黙ってどっちかの部屋で同棲しても良かったんだけど、けじめを付けたかったんだ」
母木先輩が言った。
「どうせ、いつか結婚するしね」
鬼胡桃会長が、当然のことのように言う。
「私達、運命だし」
二人は、そう言って見つめ合った。
普段なら、はいはい、って言って、茶化すところだけど、今日は、そんな気にならなかった。
みんな、羨ましそうに二人を見た。
「そういうわけで、僕はもうすぐ、名字が鬼胡桃に変わるけど、みんな、変わらずよろしくな」
母木先輩が言う。
鬼胡桃会長と、鬼胡桃先輩。
「ふええ」
せっかく止まりかけた弩の鼻血が、また、たらーって、一筋鼻から垂れた。
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