第86話 痛恨のミス
誰かが、玄関のドアを叩いている。
玄関ホールにドアを叩く乱暴な音が響いていた。
時刻は四時を少し回ったところだ。
外は白んできている。
廊下にいた僕と縦走先輩、御厨で駆けつけて、ドアの前に立った。
「よし! 篠岡、君がドアを開けろ。私がやる」
縦走先輩はそう言って、バーベルのシャフトの鉄棒を、槍みたいに片手で持って、目の高さで構える。
どこの戦闘民族だよ!
「いや、先輩それはちょっと……」
「なんだ篠岡、君がやりたいのか。解った。私がドアを開けるから、篠岡がその鉄アレイで殴れ」
「せ、先輩……」
鈍器で殴るって、原始人じゃないんですから。
「先輩、まだドアの向こうの人が敵とは限りませんし、お巡りさんか誰かが来たのかもしれませんし」
「まあ、そうだな。よし、安心しろ。一呼吸置いて、確認してからやる」
槍を構えたまま、縦走先輩が言う。
結局やるのか……
仕方なく、僕は恐る恐るドアを開けた。
重い木製のドアが、ギイィと不気味な音を立てて開く。
ドアの前に立っていたのは、一人の男性だった。
「なんだ、吉岡先生か。危なく突き刺すところだったぞ」
縦走先輩が言う。
命拾いをした吉岡先生は、ドアの前で冷や汗をかいていた。
縦走先輩の槍の先が、先生の顔の真ん中を捉えている。
でも、冷静になって考えれば、宿直で校舎にいたのだから、来たのが吉岡先生なのは当然と言えば当然なのだ。
吉岡先生はトレードマークの白衣ではなくて、紺のポロシャツにカーキ色のチノパンという服装だった。木々の間を歩いてくるときに雨垂れで濡れたのか、ポロシャツは濃いドット模様みたいになっている。
騒ぎを聞きつけて、他のみんなが玄関ホールに集まって来た。
「吉岡先生! どうかなさいました?」
少し驚いたように、ヨハンナ先生が訊く。
「おはようございます。霧島先生、ちょっとお話があります」
吉岡先生はヨハンナ先生を前にすると、少し視線を下にずらして、正面から目を合わせない。
「はい、何でしょう?」
ヨハンナ先生が訊いた。
「あ、いえ、ちょっと、そっちで」
と、吉岡先生はヨハンナ先生を奥の廊下に誘った。
ヨハンナ先生が「はい」と応じる。
なにか、僕達生徒には聞かせたくない話をするみたいだ。
二人は、僕達から少し離れたところで、声を潜めて話をした。
そうして二人が話していたのは、五分くらいだろうか。
やがて、ヨハンナ先生と吉岡先生が頷き合って何かを納得したようで、僕達のところに戻って来る。
「えーと、みなさん。昨日からこの寄宿舎で起きた様々な出来事について、吉岡先生から、お話があります」
ヨハンナ先生が改まって、神妙な顔で言った。
えっ、でも、なんで吉岡先生が?
吉岡先生がなんで、陸の孤島だった寄宿舎で起きたことを知ってるんだろう?
ヨハンナ先生に紹介された吉岡先生は、玄関ホールの僕達を見渡した。
そして、咳払いを一つする。
「みんな、ここで色々とおかしな事件が起きて不安だったと思うが、安心していい。もう、あんなことは絶対に起きない」
吉岡先生が、きっぱりと言った。
「それは本当ですか? でも、どうしてそう断言出来るんですか?」
僕達を代表して、鬼胡桃会長が訊く。
「ああ。実はな、さっきその犯人が、僕のところに自首してきたんだ」
吉岡先生が言って、黙って聞いていたみんなが、それぞれ驚きの声を上げた。
先生はその反応を予期していたのか、僕達をしばらくそのままにさせておく。
そしてしばらくして、騒ぎが収まった頃を見計らって、話を続けた。
「ある生徒が、宿直をしていた僕の部屋の窓を叩いたんだ。雨でずぶ濡れだったから、僕はその生徒を部屋に入れた。タオルを貸してどうしたんだと訊いたら、その生徒が、寄宿舎で悪戯をしたと、告白したんだ」
先生はそう言って、もう一度僕達を見渡す。
「悪戯にしてはやり過ぎたと後悔したらしい。でも、君達に直接謝る勇気がなくて、僕のところに来たと言っていた。寄宿舎や主夫部の君達が仲良くて楽しそうで、嫉妬して、つい、悪戯をしてしまったらしい。怖がらせてからかおうとしたと言っていた。でも、実際に悪戯したら、そんなことをしている自分が恥ずかしくなって、空しくなって、僕のところに告白に来たらしいんだ」
確かに、この寄宿舎での部活は楽しいけど、嫉妬されるようなことなのか?
最近まで僕達主夫部は、校内で変人扱いされていたというのに。
「その生徒はすごく反省してるし、自分のしたことを後悔している。だから、ここは一つ、僕に免じてその犯人が誰かは、訊かないでくれないか? 僕が責任をもってその生徒を指導する。今後、その生徒が寄宿生や、主夫部部員に危害を加えるようなことは絶対にないと、それは僕が保証する。今度もし、そんなことがあったら、僕が真っ先に捕まえて、引っ張り出す」
吉岡先生はここで一度、言葉を切った。
「だから頼む」
そして先生はそう言って僕達に頭を下げた。
その生徒の代わりとなって、深々と、頭を下げる。
「先生、頭を上げてください」
後ろで聞いていたヨハンナ先生が、吉岡先生に駆け寄った。
ヨハンナ先生が頭を上げてと頼むのに、吉岡先生は頑なに頭を下げ続けた。
「そうね。先生がそこまでおっしゃるなら、私は許してあげてもいいと思うわ」
鬼胡桃会長が言った。
会長のことだから、犯人を徹底的に追い詰める! とか言うのかと思ったら、違った。大切な母木先輩からのプレゼントの熊の縫いぐるみが刺されたというのに。
「そうですね。許してあげましょうよ」
錦織が言う。
大ファンである「ぱあてぃめいく」の衣装、それも自分が作った衣装が切り裂かれたのに、錦織は許すと言った。
随分と大人な対応だ。
「そうだな。罪を憎んで人を憎まずって、言うしな」
縦走先輩が言う。
大好物のフルーツケーキを横取りされた縦走先輩も、納得している。
「みんな、ありがとう」
吉岡先生はそこで漸く、頭を上げた。
「でも、この寄宿舎に誰かが侵入したような形跡はなかったですし、出て行ったような跡もなかったですよ。その犯人という人物はどうやってここに出入りしたんですか?」
僕は訊いた。
当然の疑問だ。
寄宿舎の中に人が出入りした形跡はなかったし、さっきまでこの寄宿舎に続く唯一の道が濁流になっていて、通れなかったのだし。
「先輩、まあ、いいじゃないですか。犯人が自首したんですから」
弩が言う。
「きっと私達が見落としたところがあるんですよ」
「そ、そうか?」
「そうですよ」
弩は、余計なことを訊くな、みたいな視線で僕を見た。
弩だけじゃなく、他のみんなからも、これ以上詮索するな、みたいな雰囲気が伝わってくる。
特に、鬼胡桃会長と、錦織と、縦走先輩から。
「それじゃあ、この件については、これでおしまい。いいわね」
ヨハンナ先生が言って、みんなが「はい」と返事をする(僕以外の)。
「不思議な夜だったけど、夜通しのライブもやったし、楽しかったじゃない。これでいいのよ」
先生が笑顔で言った。
ヨハンナ先生に笑顔で言われると、そのまま許せるような気もする。
実際、楽しかったし(ライブだけじゃなくて、女子のお風呂で妄想したりもしたし)。
でも、なんだか僕だけ、狐につままれたような気分だ。
「あっ、停電してたの直ってますよ!」
萌花ちゃんが言った。
見るといつの間にか廊下の常夜灯が点いている。
止まっていた空調が回り始めて、微かな風が起きていた。
「よし、これで普通の生活に戻れるな」
長い夜が明けて、伸びをしながら母木先輩が言う。
そうだ、これで食事の用意が出来るし、洗濯機も回せる。
電気が戻ったことで思い出して、僕は久しぶりにスマートフォンの電源を入れてみた。
すると枝折から、メールが届いている。
時刻を見ると、僕達が古品さんのライブで盛り上がっている間に、枝折が送ったようだ。
(お兄ちゃん。事件の犯人、大体分かったから、確認のために、縦走先輩の鉄アレイを、脱衣所の体重計に乗せてみて)
枝折からのメールの文面は、こんな内容だった。
でも、意味が分からない。
鉄アレイを、体重計に乗せる?
???
それでも枝折が指示したのだから、当然無意味ではないだろうと、僕は脱衣所に行った。
そして、メールで指示されたように、鉄アレイを体重計に乗せてみる。
「あれっ?」
僕は思わず、声を出してしまった。
縦走先輩から受け取った5㎏の鉄アレイを体重計に乗せた筈なのに、体重計の針は3㎏を指している。
おかしいと思って何度試しても、結果は同じだった。
体重計の針の最初の位置がずれているのかと、鉄アレイを退けてみると、何も乗せない状態で、針はゼロに戻っている。
乗せると、また、3㎏を指した。
鉄アレイには5㎏という文字が太く、刻んである。
「篠岡、なにしてるんだ。朝食の準備をするぞ」
僕が首を傾げていると、背中から母木先輩に声をかけられた。
「吉岡先生も食べていかれるそうだ。人数が多いから、忙しくなるぞ」
先輩が言う。
「はい、すぐに行きます!」
僕は慌てて答えた。
寄宿舎の中は事件が解決した雰囲気に包まれているのに、僕だけ謎が深まっている。
分からない事だらけだ。
枝折は犯人が分かったとメールしてきた。
枝折なら、全てが分かるのだろうか?
電話しようとして、思い止まった。
早朝だし、まだ寝ている枝折を起こしたらいけない(枝折の寝起きは、絶望的に悪い)。
これは早く家に帰って、枝折に聞かないといけない。
枝折から全てを説明してもらわないと、気が済まない。
そんな気持ちでモヤモヤしたまま洗濯をしたから、その日僕は鬼胡桃会長のブラジャーのたたみ方を間違えるという、ありえないミスを犯してしまって、会長に小言を賜った。
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