第7章

第79話 雷鳴

 朝から降り続いていた雨が、土砂降りになった。

 空は真っ黒な雲で埋まっていて、まだ午後四時過ぎだというのに、辺りは暗くなっている。

 天気予報では、本降りになるのは夜になってからってことだったのに、そは外れたらしい。


 寄宿舎を囲む林の木々を、大粒の雨が叩いている。

 木々の葉で跳ねた雨粒で、辺りはけぶっていた。

 この林の中では、雨音以外、何も聞こえない。


 寄宿舎の中では、寄宿生と主夫部、それぞれが、いつも通りだったり、いつもとは違ったりする生活を送っていた。


 台所では御厨が不安そうに外を見ながら、夕食の支度をしている。

 母木先輩は寄宿舎の二階に上がって、雨漏りなどないか、各部屋を見て回っていた。その後ろには鬼胡桃会長が付いていて、先輩に色々と文句を言っている。

 僕はといえば、洗濯を終えて、畳み終わった衣類をみんなの部屋に届けたところだ。


 食堂に行くと、縦走先輩が怨めしそうに窓から外を見ていた。

 さすがにこの雨では、先輩も外に走りには行けないようだ。

 というか、先輩はトライアスロン部のTシャツにショートパンツ姿だから、さっきまでこの雨の中でも走りに行く気満々だったみたいだ。


 食堂には古品さんもいて、窓ガラスに手を当ててポーズを取っている。

 セーラー服で窓の外に視線を送っていた。

 その古品さんの写真を撮っているのが、萌花ちゃんだ。

 そして、錦織がレフ板を持って、古品さんに光を当てている。


 撮れた写真をカメラの液晶画面で見せてもらったら、雨で濡れた林を物憂げに見ている、「ぱあてぃめいく」のふっきーがいた。

 しっとりと、艶っぽい感じに写っている。

 これは萌花ちゃんのカメラの腕なのだろうか、それとも、古品さんの演技力か。


 食堂の奥のサンルームには弩がいて、本を読んでいる。

 表紙を見る限り、弩が今読んでいるのは、アガサ・クリスティの「ねずみとり」という本らしい。

 弩の紅茶のカップが空になりかけているから、僕が「おかわりを持ってこようか?」と訊くと、弩が「おねがいします」と言う。

 これは普段通りだ。



「あ~もう、びしょびしょ」


 玄関から、声が聞こえた。

 ヨハンナ先生が職員会議から帰って来たみたいだ。

 先生は頭からずぶ濡れになっていて、金色の髪がぺったりと潰れてるし、白いブラウスが肌に張り付いて透けていた。


「傘さしてるのに、地面から跳ねてきて、校舎からここまで来るだけで、もう、ずぶ濡れだよ」

 そう言ってブラウスをその場で脱ごうとしたヨハンナ先生が、

「やだ、あなた達、まだいたの?」

 僕達に気付いてボタンを上から二つまで外したところで、手を止めた(おしい)。


「随分前に校内放送で、帰りなさいって放送してたのに………あっ、そうか、ここ放送聞こえないんだっけ」

 先生によると、二時間くらい前に校内放送があって、体育館などで部活動中の生徒も、校舎に残っていた生徒も、全員、帰されたらしい。


「電話すればよかったね」

 先生が言う。

 僕は脱衣所からバスタオルを持ってきて、先生に渡す。

 先生はそれで髪を拭いた。


「学校にはもう、宿直の先生以外、誰もいないよ。大雨で電車が止まってるみたいだしね」

 電車まで止まったのか。


 この寄宿舎は元々、学校という、外界から遮断された敷地の中にあるし、その中でさらに林の木々に囲まれていて、中にいると外の様子が全く分からない。


 普段はそれがいいところなんだけど。



「しょうがないな。車で送ろうか」

 バスタオルで髪を拭きながら、ヨハンナ先生が玄関のドアから外を見る。

 雨はますます、酷くなっていた。

 遠くで、雷まで鳴り始める。

 そして、玄関を出たところ、寄宿舎に続く獣道が、川のようになっているのが見えた。

 寄宿舎の周囲に降った雨が、他に水の逃げ場がないから、そこに集中して、濁流だくりゅうになったらしい。


「嘘! さっきまで、通れたのに!」

 ヨハンナ先生がびっくりして大きな声を出した。

 この獣道は、寄宿舎に続く唯一の通路だ。

 木々の間を通って通れないことはないだろうけど、そこには低木や、棘がある蔓などが生い茂っている。通るなら傷だらけになることを覚悟しなければならない。

 こんなときのために林の中の低木を刈っておこうかと、母木先輩と相談していたのに、忙しくて手を付けてなかった。


 そのとき、近くに雷が落ちて、骨に響く轟音に少し遅れて建物が揺れ、玄関のガラスがミシミシと鳴った。


「きゃっ!」

 声を上げたのは誰あろう、鬼胡桃会長だ。

 会長は雷にびっくりして、両手で耳を塞いでいる。

 不覚にも、可愛いと思ってしまった。

 鬼胡桃会長に言ったら怒られるから言わないけれど、会長に萌えてしまう。

 会長に萌えたのは僕だけでなく、萌花ちゃんも、カメラのレンズを会長に向けた。

 でも、怒られると思ったのか、シャッターは切らない。


「こ、今夜は、みんなここに泊まっていけばいいじゃない」

 その鬼胡桃会長が言った。

 一瞬、僕は耳を疑う。文化祭のとき、例外的に寄宿舎に泊まることを許されたけれど、それ以降はやっぱり、僕達がここに泊まるのは許されなかった。

 家事で遅くなることがあっても、無慈悲に追い出されたのだ。


 それなのに、泊まっていきなさいって……


「統子は雷、苦手だもんな」

 母木先輩が言った。

「なっ、何を言ってるのかしら。私は、あくまで、あなた達を心配して提案してあげているのであって、別に、雷が怖いから一緒に居て欲しいとか、そんなこと全然、思ってないんだから」

 言った直後に雷が鳴って、会長は再び「きゃっ!」と可愛らしい声を発した。

「雷が怖くて、僕の布団に入ってきて、一緒に寝たこともあったよな」

 母木先輩が言う。

「そ、それはまだ、小学生にもなってない頃の話じゃない!」

 鬼胡桃会長は顔を真っ赤にしていた。

 母木先輩と会長が幼なじみだとは知っていたけど、そこまで親しかったのか。


「そうね。鬼胡桃さんの許可が下りたなら、あなた達ここに泊まっていきなさい。さすがに私も、この雨の中だと運転に自信ないし。行っても道が冠水して、帰ってこられなくなっちゃうかもしれないしね」

 ヨハンナ先生が言った。


「よし、それじゃあ、ここに世話になることにしようか」

 母木先輩が言って、僕達男子部員が「はい!」と小気味好い返事をする。

 雨で大変なのに、少しだけラッキーと思ってしまったのも事実だ。

 でも、世話になると言っても、家事をするのは僕達なんだけど。


「妹に連絡します」

 僕が言うと、「僕も母に」と、御厨もスマートフォンを取った。母木先輩も、錦織も、家に連絡を取るようだ。



「へえ、お兄ちゃん、お泊まりなんだ」

 家の電話には、花園が出た。

「美女ばかりの館でお泊まりとは羨ましいね」

 花園が生意気な口をきいてくる。

「こっちは安心して、枝折ちゃんも帰ってるし、全然心配ないから」

 自分で育てておいて言うのもなんだけど、逞しい妹に育ったものだ。


「それならいいけど、花園、明日、帰ったら冷蔵庫のアイスの数を確認するからな。今夜食べていいのは一つだけだぞ」

 僕は言う。

 口うるさい親のようだけれど、仕方がない。

 それが、育ての兄としての役目だし。

「分かってるよー、もう」

 たぶん、花園は電話の向こうで唇を尖らせている。

「で、枝折ちゃんに伝えておくことある?」

 花園が訊いた。

「そうだな、愛してるって伝えておいて」

 僕が言ったら、ぷつんと電話が切られた。

 唐突に切った。

 いよいよ、花園も反抗期か(違うかもしれないけど)。



「それじゃあ、僕達の分もすぐに用意しますね」

 御厨が言って、台所に向かった。

「私も先に一っ風呂浴びてくるわ。いつまでもスケスケの服でいると、男子高校生の目に毒だしね」

 ヨハンナ先生が言う。

 いつも半裸同然のスリップ一枚でいるくせに。


 母木先輩と錦織が、僕達主夫部男子の寝床を作りに行った。

 僕は、僕達の着替えを用意する。

 といっても、この寄宿舎に着替えなど置いてないから、縦走先輩の部屋着やジャージを借りることになるだろう。

 先輩の服なら、大抵の男子は着られる。

 僕が洗って返すから問題ないと思う。

 縦走先輩に頼むと、快く、許可してくれた。



 服を取りに行く廊下で、自分の部屋に本を戻しに行く弩とすれ違う。

「弩、さっき読んでた本、どんな本なんだ?」

 弩が熱心に読んでいたから、訊いてみた。

「ああ、あれですか。あれはいわゆる、『吹雪の山荘』とか『嵐の山荘』っていわれるミステリーです」

 弩が答えた。


 嵐の山荘……


 今まさに、ここがそうじゃないか。

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