第64話 スパイの勧誘

 誰もいなくなった校舎の廊下を、吉岡教諭が歩いていた。

 教諭は少し早足で歩いて、いつも着ている白衣の裾を、後ろになびかせている。


 講堂のほうからは、熱狂的な歓声が漏れ聞こえてきた。

 文化祭実行委員会が呼んだアイドルのライブが、今、始まったようだ。


 教諭はきょろきょろと落ち着きなく辺りを見回して、とある教室の前に立ち止まった。

 校舎の外れにひっそりとある、第二視聴覚室だ。

 教諭はドアの前でもう一度周囲を確認して、素早く中に入った。



 第二視聴覚室の中で教諭を待ち受けていたのは、二匹の黒ウサギだ。

 いや、正確にいえば、黒ウサギの着ぐるみを身に付けた、誰かだった。


 第二視聴覚室の中は、ぼやが出たときのままで放置されている。

 煤けたテーブルや椅子も、そのままだった。

 二匹の黒ウサギは、教室の奥で並んで手を繋いでいる。

 二匹のうち、向かって右側に立つウサギの耳が片方、半分のところで折れていた。



「僕を呼び出したのは君達か?」

 吉岡教諭が訊く。

 自分を迎えたのがウサギだったことに少し驚いて、眉間に皺を作っている。


「そうだぴょん」

 耳が折れていないほうのウサギが言った。

「私達は黒ウサギのはなちゃんと、しーちゃんだぴょん」

 耳が折れていないほうがはなちゃんで、折れているほうがしーちゃんらしい。


「それでその……僕の、その……僕が映った映像があるっていうのは、本当なのか?」

 吉岡教諭が言葉を詰まらせながら訊いた。


「ホントだぴょん。このスマホに入ってるぴょん。先生が煙草で第二視聴覚室に火をつけた瞬間が、映ってるぴょん。このボタン一つ押せば、全世界に向けて公開されるぴょん」

 ウサギはスマートフォンを掲げる。

 ピンク色の耳がついたシリコンケースに入ったスマートフォンだった。

 その液晶画面にはSNSの投稿ボタンが呼び出してある。


「着ぐるみの中に誰が入っているのか知らないが、そのふざけたしゃべり方はやめてくれないか」

 吉岡教諭がいらついて言った。


「誰も入ってないぴょん。中の人なんか、いないぴょん。はなちゃんは本物のウサギだぴょん」

 耳が折れていない黒ウサギが、スマホのボタンを押そうとした。


「解った! すまない、悪かった。そのままでいい。そのままでいいから」

 教諭が懇願する。


「分かればいいぴょん。はなちゃんは寛大なウサギだぴょん。許すぴょん」

 黒ウサギはボタンから指を離した。



「しかし、なんでそんな映像があるんだ?」

 吉岡教諭が訊く。


 それに答えたのは、耳が折れたほうのウサギだった。

「文化祭の準備の様子を、タイムラプス動画にしようとして、校内に何台かカメラが取り付けてあったの。その一台が偶然、第二視聴覚室の高窓が映る位置にあって、そこに先生が映ってたの。先生が煙草で火をつける様子が最初から、最後まで映ってた。動画をチェックしていて気付いたの。安心して、この動画を見たのは私達だけだから」

 耳が折れたほうは、落ち着いたしゃべり方をする。

 そっちのウサギは語尾に「ぴょん」を付けなかった。


「先生は、なんで火なんかつけたぴょん? とっても悪い子だぴょん」

 耳が折れていないウサギが訊く。


「僕だってそんなことはしたくなかった! でも、主夫部の文化祭参加を妨害しろって、命令されたんだ! 教室を使えないようにしてこいって言われたんだ!」

 吉岡教諭は大声を出した。

 しかし、着ぐるみの黒ウサギは無表情で、それに怯んだかどうかは、分からない。


「仕方がなかったんだ。河東先生に言われて、やるしかなかった……僕に選択肢なんてなかった。あの人は、この学校の教師陣を牛耳ってるし、逆らったら僕はここで教師をしていられなくなる。いや、それどころか、教師でいられるかどうかも分からない」

 吉岡教諭はそう言って、目を瞑った。

 まるで現実を見たくないとでもいうかのように。


「その河東先生は何でそんなに主夫部のことを憎んでいるの?」

 耳折れウサギが訊く。


「さあ、分からない。ただ自分の常識に合わないことを排除したいとか、そういうことだと思うけれど……」

「酷い話だぴょん。人間はどうしようもないぴょん」


「ああ、終わりだ。僕はもう、終わりだ」

 教諭はそう言って自分の頭を掻きむしった。


 二匹の黒ウサギは、錯乱さくらんした吉岡教諭を、しばらく、そのまま見ている。


「煤けて使えなくなったテーブルや椅子を主夫部に弁償するなら、先生が火をつけたことは黙っていてもいいけれど」

 耳折れウサギが言った。

「全額弁償するぴょん。先生にもうすぐ夏のボーナスが出ることは、ウサギも知ってるぴょん」

「えっ、いいのかい? それで見逃してくれるのか?」

 吉岡教諭が訊くと、耳折れウサギが頷いた。


「金額は調べて後で連絡する。あなたはお金と一緒に手紙も用意して、それにはこんなふうに書いて欲しいの、『学校に隠れて吸っていた煙草の火が、紙に引火してしまいました。大変なことをしてしまいました。申し訳ありません。このお金で弁償してください。勇気が無くて名乗り出ることは出来ませんが、許してください』って感じで」


「そうすれば、本当に僕は、犯人だと名乗り出なくていいのかい?」

 吉岡教諭が訊く。

「いいぴょん。いい人そうだった先生が放火魔だって知れたら、主夫部のみんなが傷つくぴょん。ウサギはみんなを悲しませたくないぴょん」


「弁償して手紙を書いたら、僕が映っている映像も消してくれるかい?」

「それは出来ないぴょん」

「えっ?」

「だって映像なんてないぴょん」

「えっ?」

「最初からそんな映像はないの。それはあなたをおびき出すためについた嘘よ。映像はないけど、今、あなたがした告白は、ちゃんと撮ったから」

 耳折れウサギは、その、もふもふの手に隠し持っていた小型のアクションカムを吉岡教諭に見せた。


「騙したのか! 汚い、汚いぞ!」

 教諭は口から唾を飛ばす。

「放火魔に汚いとか、言われたくないぴょん」

「ううう……」

 吉岡教諭は反論できなくて、嗚咽おえつを漏らした。


「映像がないなら、なんで僕が犯人だって分かったんだ?」

 吉岡教諭が怨めしそうな目付きで訊く。

「簡単な推理だぴょん。はなちゃんが説明してあげてもいいけど、ここはしーちゃんが説明するぴょん」


「それは、このテーブルの丸い跡で分かったの」

 耳折れウサギはそう言って、煤けたテーブルの上の、丸く、煤が乗っていない部分を指した。

「これは多分、ここに消火器が置いてあった痕跡。ここに消火器があったせいで、ぼやで煤けても、ここだけ煤が付かずに元のテーブルの表面が残ったの」

 直径十五センチくらいの円は、確かに消火器くらいの大きさだ。


「犯人は、主夫部の文化祭を妨害するつもりで、ここに火をつけた。教室を使えなくしようとした。でも、火をつけておきながら、大きな火事にはしたくなかった。火が大きくなって消防車が呼ばれる事態になったら、主夫部どころか、文化祭自体が中止になるかもしれないし、消防や警察が来て現場検証にでもなったら、本当の犯人捜しが始まってしまう。本職の科学捜査で追い詰められる。だから、犯人は必要以上に火が広がるのを恐れて、あらかじめ消火器を用意していたの。火が予想以上に燃え広がったら、すぐに消せるように準備したの。それがこの丸い痕跡」

 耳折れウサギが言うと、吉岡教諭はもう、全てを理解したようで、大きく溜息をついた。


「あなたは主夫部の人達に、見回りの最中にここで火がついているのを見つけて、慌てて廊下に消火器を取りに行ったって証言したらしいけど、それだとおかしいの。この丸い痕跡と、辻褄が合わない。あなたがなぜそんな嘘の証言をしたかと言えば、あなたが犯人だからなの。消火した人物が、火をつけた犯人だからなの」

 耳折れウサギの、円らなプラスチック製の目が、力なく佇む吉岡教諭を捉えている

「そういうことだぴょん。簡単な推理だぴょん」

 もう一匹のウサギが得意気に言った。

 吉岡教諭はがっくりと肩を落とす。

 そして、放心したようにテーブルに座った。



「先生が放火魔だってことは黙っていてあげるから、その代わりに、して欲しいことがあるぴょん」

 耳の折れていないウサギがそう言って、教諭にメモ用紙を渡した。

 メモ用紙には、電子メールのアドレスらしき文字が綴ってある。

「これは?」

「ウサギのメアドだぴょん。捨てアドだぴょん」


「河東先生が、また主夫部を妨害しようとする動きがあったら、このアドレスにメールを入れて。向こうの動きを報告して欲しいの」

 耳折れウサギが言った。

「僕に、スパイになれと?」

「その通りだぴょん」

「そんな、僕はスパイなんて……」

「放火魔よりは、スパイのほうがましだと思うけど」

 耳の折れたウサギが静かな声で言う。

 表情は見えないけど、きっと冷たく見下ろしているのだろう。


「先生だって、河東先生がやっていることは悪いことだって思ってるぴょん。これは生徒を守ることだし、先生は正しいことをしてるぴょん。河東先生に義理立てすることはないぴょん。大人しくスパイになるぴょん」

 ウサギは肩を落とした教諭の顔を覗き込んだ。


「解ったよ、なんとかやってみよう」

「賢明な選択だぴょん」

 耳の折れていないウサギがそう言って、教諭の肩を叩く。



 力なくテーブルに座る吉岡教諭を置き去りにして、二匹のウサギは教室のドアまで歩いた。

「先生は十五分したらここを出るぴょん。十五分待たないでここを出たり、ウサギを追いかけてきたら、さっき撮った先生の告白映像を校内放送で流すぴょん」

 耳の折れていないウサギが言って、二匹の黒ウサギは手を繋いで第二視聴覚室を出て行く。


 校舎を出て、ウサギらしく林の中に帰った。



 教室に残された吉岡教諭は、そこに固まってしばらく動かなかった。

 前途多難な自分の今後に、想いを巡らせているようだ。

 教諭は白衣のポケットに煙草を探って、そこで思いとどまる。



 講堂のほうから、一際大きな歓声が聞こえた。

 あちらでは、何か衝撃的なことが起こっているらしい。

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