第9話 帰ってきた少女4

 本当にそうだったのだろうか?


 少なくとも楓の身体はその声に応えようともがいていた。


 長年培ってきた無意識の身体反応が、アウトカウントを聞きながら動き出そうとしていた。


 しかし、その時点で楓に意識はない。


 プロレスの試合ではよくあることで、強烈な技を食らった後から記憶が一部、欠落することがある。


 選手は意識がなくとも、身体だけが闘い続ける。


 もうそれはプロレスラーの身体にしみついた宿命みたいなものだった。





「………10………11………12………」



 いけない。


 リングに戻らないと。


 それは楓の無意識の声である。


 20カウントでリングアウト負けになることは、理屈ではなく、彼女の身体が知っていることだった。


 それが、どうゆら彼女の無意識の回路のスイッチを入れたようだ。



「………18………19」



 その間にもカウントは進む。


 レフリーの視線が楓の様子を探っている。


 ゆっくりと、エプロンに手をかけた楓は何度も滑った挙げ句に、ようやくサードロープを左手でつかんだ。


 その左手をぐいと、引き寄せると同時に半身になった右半身をタイミングよくリングの中へと滑り込ませた。


 練習の時から、もう何千回も繰り返した動作なので楓の身体は苦もなくやってのけた。




「大丈夫か、柳沢?」



 レフリーが楓の目を覗き込む。


 半ば条件反射のように一瞬だけ、楓の瞳に生気が宿った。


 両手は当然のようにファイティングホーズを形作っている。


 最後には駄目押しとばかりに顔に微笑まで浮かべていた。


 もはや、レフリーに試合を止める権利はない。


 渋々、再開のかけ声が告げられた。



「ファィット!!」





 もう一度、試合が動きはじめる。


 プレッシャーをかけながら、美奈子はチャンスとばかりに間合いを詰めようとする。


 楓は、そうはさせないと言わんばかりに間合いを外し、美奈子を中心に円を描くように右に左にと細かいステップを刻んでいる。


 が。


 美奈子が不用意に間合いを詰めようとした瞬間、楓は逆に踏み込んで、身体ごと美奈子の腰を目がけてタックルをしていった。


 絶妙のタイミングで、ほとんど神業に等しいそれは、流石の美奈子でもかわし切れはしなかった。


 ふたりはもつれ合うように、マットにころがった。


 気づいた時には、美奈子の利き腕の右手が脇固めに決められていた。


 美奈子はすぐさまロープに左手を掛けた。


 たまらず、ロープブレイク。


 なんと瀕死のはずの楓の方が攻めていた。


 楓があとでこの場面を見たらきっとあきれ返るだろうことは想像にかたくなかった。


 なぜなら、記憶に全くないからだ。


 意識なぞ、かけらも残ってないからだ。




 それでも試合は続く。


 今度は美奈子も不用意に間合いに入ってこない。


 遠くからローキック、ミドルキックを重ねて、楓の動きをコントロールしようとしていた。


 しだいにコーナーへと追い詰められてゆく楓は為す術もなく、後退を重ねるしかなかった。


 まったく接近できない楓の身体に美奈子の蹴りが食い込んでゆく。


 最初はローキック、時折、ミドルキックを交えつつ、楓はまるでサンドバックのように蹴られ続けていく。


 面白いようにヒットする。


 コーナーポストを背にした楓に、もはや逃げるところはなかった。


 両手、両足でガードしているが、ときたま、脇腹に叩き込まれた蹴りが楓の呼吸を止める。




 そして、運命の時が来た。


 左側のミドルに叩き込まれた蹴りが一度、止まったかと思うと急激な上昇カーブを描いて、そのまま楓の首を刈り取るかのように降り下ろされたのだ。


 いわゆる、カカト落としと呼ばれる技であった。


 楓の右首に降り下ろされたそれは楓の残された戦闘力を根こそぎ奪い去ろうとしていた。


 スローモーションのように倒れてゆく楓。


 マットに前のめりに倒れ込んで、二、三度バウンドする。




 レフリーが慌てて、ふたりの間に割って入って、致命の一撃から楓を守った。


 それ以上の攻撃を受ければ、ただでさえ弱っている楓の身体は再起不能のダメージを受けてしまう。


 あまりに危険だった。


 もはやレフリーストップは確実だった。


 10カウントを聞くまでもない。


 美奈子はきびすを返すと、自分のコーナーへと帰っていった。


 今度、振り向いた時は、美奈子の勝利が告げられる時だ。


 会場の観客さえそう思いかけていた時。


「あなた。何しているのよ」


 落ち着いた、迫力のある声がどこからか聞こえてきた。


 美奈子は思わず振り返る。


 そこには信じられない光景が展開されていた。




 柳沢楓が腕組みをして、仁王立ちしていた。


 楓の目には意志の力が戻ってきていた。


 何が幸いするか分からない。


 意識を断ち切ろうとしたカカト落としが、皮肉にも最良の気付け薬になってしまったようだ。



「さあ、続きを始めましょう」



 楓がにやり、と笑う。



「仕方ないわね」



 美奈子もぐいっ、と前に踏み出す。


 こちらも負けてはいない。


 とても新人とは思えない迫力が楓を威圧した。



「ウォーミングアップはこれで終りよ」



 楓は再び、不敵な言葉を放った。


 そして、試合は振り出しに戻った。


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