第7話 帰ってきた少女2

 神沢勇は思い出していた。


 三年前の楓とプロテストの記憶は、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せた。


 勇が放った、ジャーマンスープレックスという投げ技によって、楓の肩が壊されてしまった瞬間は、決して彼女の脳裏から離れなかった。


 骨の砕ける嫌な音を、勇は何度も悪夢の中で聞いてうなされ、夜中にいつも目覚めていた。


 あれは確かに試合中の事故だったのだから、仕方ないことなのだが、勇の心を呪縛している記憶のひとつだった。




 神沢勇が物思いに沈んでいる間に、試合開始のゴングが鳴っていた。


 柳沢楓は、軽るやなかステップを踏みながら、相手選手との間合いを計っている。


 相手は今、売出中の成長株、森谷美奈子もりたにみなこである。


 復帰戦の相手としては申し分ない。


 彼女はまだデビュー1年目の新人ながら、アイドル顔負けのルックスとアマレス仕込みの実力をもち、エンジェル・プロレスの将来のエース候補であった。


 正直、身体を壊して引退して、再びカンバックした楓のような選手にはもったいない相手だった。


 やはり、最後はエンジェル・プロレスのリングで引退した異才のプロレスラー、神沢恭子の威光のおかげと言えた。


 勇はそのことについて本当に感謝していた。


 というより、怪我を治し、リハビリ、カンバックすること自体が、恭子なしでは全く不可能なことだったはずだ。


 楓はリングに上がれることが楽しくて仕方ないような様子だった。


 テレビ越しに見ている勇にもそれは十分に伝わってきた。




 とにかく、身体が軽い。


 それでいて、『力』の塊が彼女の中心で出番を待っていて、いつでも出てこれるような状態。


 高圧の気力が彼女の身体に満ちているのが、勇にもなんとなく判るほどた。


 約三年にも及ぶブランク、そんなことは全く感じさせない動きを彼女を見せていた。


 そのためか、相手の方も慎重だ。


 普通ならこの辺りで、選手同士が両手を組んで身体をぶつけあいながら相撲の四ッ身のような形で力競べをするところだ。


 それが、未だにふたりは身体を触れ合わせてもいない。


 ピリピリとした空気が周囲に漂い、お互いの存在の中心から球状の制空圏のようなものが形成されつつあった。


 その空域にどちらかが入り込んだ瞬間、勝負が決まってしまうような緊張感がふたりを包んでいた。




 森谷美奈子は体の横に黒のラインが入った、黄色のアマレススタイルの水着を穿いていた。


 プロレスラーというよりスタイリッシュなアスリート、という印象を見るものに与えた。


 長い髪を後ろで結んで、額が広く、小ぶりで形のよい整った顔を見ていると確かに可憐で応援したくなるようなオーラのようなものをまとった、特別な星の元に生まれた少女であると納得できた。




 それに比べて楓の容姿は、下手をすると少年に間違われそうなさつぱりとしたショートヘアー、がっしりとした体格で、美奈子と同じスポーティなアマレス用の水着を身につけていた。


 こちらはブルーに黒色のラインの入った地味な色彩であった。


 背が美奈子よりも頭一つ高く、すらりとした長身で、どちらかというと精悍な感じがする少年レスラーというイメージである。


 現役時代も男よりもなぜか女のファンが多く、さわやかで、どこか潔い魅力を持っていた。




 ファイトスタイルもアマレスを原点としているふたりだが、美奈子は掌底しょうてい(手のひらをつかう、オープンハンドでの打撃技)や蹴りを多用してから投げ、関節技に繋げるという攻撃万能型、楓の方はあくまで相手の攻撃を受けきって、投げ、関節技を繰り出すという防御反撃型のスタイルをとっていた。


 下手をすれば勢いのある美奈子の攻撃を受け続けるという、楓にとっては嫌な展開になることは試合前から予想されていた。


 だが、そんな厳しい試合さえも楽しんでしまうのが柳沢楓であった。


 勇に肩を砕かれた後でさえ、彼女は苦痛よりも力を出し切った充実感の方を大切に思っていた。




 まったく、これほどのプロレス馬鹿もいない。


 相手の技を受けまくって、相手の良い所、見せ場をつくってやり、全てを受け切った後に倒す。


 そのために、体力、精神力を極限まで鍛える。


 打たれ強さを培うための地味なトレーニングを怠らない。


 それが柳沢楓というレスラーであった。



 そして、勇の母であり、異端の天才レスラー神沢恭子が楓をどのように仕上げてきたかも気になるところである。


 波乱の予感を秘めつつ、今、最初の一撃が放たれようとしていた。

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