第31話 暗黒社会

 ミカは、病院で眠る那月の横に座って雑誌を読んでいた。目を落としているのは音楽雑誌の芸能事務所のタレント募集コーナー。伊東アイの面が出てないので安心して読める。窓の外には、いつかのように月が輝いていた。今日、ミカが放課後に訪れると、那月は泣いていたので、ミカは那月を抱きしめた。すると那月は落ち着いて眠った。ミカはしばらく眠る那月を見ていた。那月はあの知性的な那月ではなくなっていた。子供のようであった。

 那月が目を覚ました。上体を起こして、不安そうにキョロキョロと見回す。

「伊東アイだわ!」

 那月は隣にいるミカに囁くように叫んだ。しばらく静かだったのに、那月はまたアイへの恐怖に捕われているらしい。

「やっぱり来たんだわ。ミカちゃん、もうすぐあいつがこの部屋に来る!」

 その言葉と同時に、足音が近づいて来た。ミカは立ち上がって、ドアを開けた。単なるいつもの担当医だった。

「大丈夫だよ、那月、お医者さんだってば」

「とうとう来たのね。わたしを消しに!」

 そう叫んだので、医師は不審そうに近づいた。

「来ないで!」

 那月はベッドから刎ね飛ぶように立ち上がった。ミカと医者を突き飛ばし、廊下を走っていった。まさか那月には、医者が伊東アイに見えたとでもいうのか。

「那月!」

 ミカは追い掛けた。すでに那月は廊下を五十メートルも走り、階段を降りるところだった。ミカも走った。だがミカでもなかなか追いつけないくらい那月は早い。

 那月は四階から一気に一階に駆け降りて、門から外へ出ていった。

「あなたに消されるもんですか!」

 という那月の叫び声が聞こえてくる。姿はもう見えない。那月は、病院の門を出た後、住宅街へと脱走した。アイへの恐怖ゆえ、アイの陰に怯えたゆえに。

「待って! 待ってよ」

 ミカは那月が走り去った方向から来る軍の車両列とすれ違う。時々、人馬市から来た軍の車を白羊基地で見かけたことがある。全く同じだ。今まで巨蟹市のような市街地でこんなにたくさん走っているのを見た事はない。どこから現れたのか、軍の車が火事の現場に集結する消防車のように、病院のあるこの区画に集結している。まるで那月の異変を察したように。いや、その通りに違いない。やはり那月は、ずっと人馬市の軍に監視されていたに決まっている。人馬市は、那月がディモン・スターではないと言いながら、その実陰で監視し、こうして現れたのだ。軍用トラックから兵士たちが降りて何かを追っている。彼らは、監視している対象が逃げ出したので追っているのだ。このままでは那月が捕まってしまう。

「那月! そっちに行っちゃ駄目! わたしと一緒に居て」

 ミカは那月を見つけて捕まえると、手を引いて走った。時空研のメンバーであるミカと一緒なら、人馬市の兵士も那月に手出しはできないだろうと考えていた。

「あんた達あたしに近づかないでよ、那月に手を出したらただじゃ済まないんだから!」

 ミカは怒鳴ってけん制した。しかし力を使おうとして、ミカはためらう。自分の力の事は、まだ時空研や伊東アイに知られてはならない。

「ちくしょう、どうすりゃいいの!」

 あまりに追手が多すぎる。空を飛べればいいが、そんなことをすれば目立ちすぎる。いいやしかたない、多少バレたとしても、兵士達には犠牲になってもらわなくては。

「那月、ちょっとここに居て。あんたは動いちゃ駄目よ。すぐ戻ってくるから」

 ミカは追手を巻き、那月をビル陰に隠すと、路上に戻った。兵士に突進すると、なぜか兵士はミカとの接触を恐れるように弧を書いて逃げていく。

「やっぱあいつら、あたしの力知ってんのかも。なら遠慮いらないかな。待ちなさいよ!」

 ミカは逆に兵士を追った。

 背後で凶暴な銃声が鳴り響いて、ミカは足を止め振り返った。

「しまった!」

 軍が雪崩を打ったように那月の居る場所に集まっていった。

「キャア! 那月!」

 馬鹿だあたし。こんな陽動に引っ掛かるなんて。バカバカ。だが、ミカが戻った時、そこに那月は居なかった。

 ミカは兵士達に取り囲まれた。

「那月を返してぇ! 那月を、那月を返してぇぇ!」

 ミカは叫び続けた。胸倉を掴まれた兵士は能面のような顔つきで何も答えなかった。兵士たちは無言で、知らないというそぶりをする。叫び続けるミカを取り押さえ、兵士たちは冷たい視線で見おろしている。

「放してよ! 放せェ!」

 ミカは自分の両腕を拘束する兵士を本気で振り払い、コンクリートの壁に怒りを叩き付ける。兵士を殴り殺す訳にはいかない。ミカの拳に壁は粉々に砕かれて、兵士は警戒して退く。だが、ミカの存在を知っているのか、上からの命令を受けているのか、兵士たちはこれ以上ミカに何も手出しをしようとしてこなかった。やがて兵士たちはまるで潮が引くように、機敏に無言で撤退していった。車両は走り去り、人馬市の兵士で渋滞していた住宅地はあっという間に静寂を取り戻す。どこにも那月の姿はない。

 もしかしたら、那月は能力を使ってうまく逃げたのかもしれない。一縷の希望を胸に、ミカは那月の家に向かった。きっと家に戻ったんだ。そう思うと、さっきの出来事が夢のように感じた。那月の、家のあったところへ来るまでは。

 ミカは唖然とした。那月の家があった場所は、空き地になっている。那月の家は結構大きかったはずだ。それなのに、跡形もない。しかも、しばらく人の手が入っていないがごとく、雑草が伸びていた。

「……違う。違う。こんなの間違ってる! 消されたんだ。ヤツらは、社会から存在自体を抹殺したんだ。那月はやっぱり軍が、回収したんだ!」

 ミカの充血した視線が人馬市の方角をさまよう。

 白羊市の時空研の時空迷彩と同じように、何かの「仕掛け」によって鮎川那月が存在した痕跡が消されている。

 ミカはすぐ自分の携帯を確認した。だが那月の番号、那月に関したメール、那月と一緒に撮影した写真が消えている。携帯は学校、時空研、病院といつも持ち歩いている。どこでも操作される可能性はある。しかし、もう自分の携帯の中の痕跡まで消されてしまったとは。

 とうとう人馬市は那月を捕えたのだ。捕まった那月が今頃、先に捕らえられた親衛隊と同様に、残酷な人体実験を受けていると思うと、ミカは苦しくて、悲しくて仕方ない。どん底にたたき落とされて、ミカは泣きながら晶に携帯で連絡していた。

「晶さん? あたし……。那月が、那月がとうとう掴まっちゃった。今、兵士たちが人馬市に那月を連れていった。那月はブルータイプだからって、血が青かったからって、ダークフィールドの原因なんかじゃないんだよ。違う、絶対に違うんだから。那月は、そんなコじゃない。晶さん、お願いだから人馬市にそう言ってよ。今すぐ取り返して。お願い、那月を助けて!」

 ミカは泣き叫んだ。

「ミカ。落ち着きなさい。今、巨蟹市で何あったみたいだけど、私が報告受けているのは、人馬市の軍がそこを通過したということ。で、助けろって誰を?」

「何よ」

「誰が捕まったって言ったの?」

「だから那月だよ! 鮎川那月。巨蟹病院に入院してたの」

「鮎川那月? あなたの友達?」

「ちょっと待ってよ! ……もしかして晶さん、那月を知らないの?」

 ミカは苛立って甲高い声で問い詰めた。

「……」

 晶は携帯を握ったまま棒立ちする。ミカが何を言っているのか分からない。

「そんな訳ないじゃん……! 巨蟹学年の天文台でさんざんあたしと亮が那月と、伊東アイを敵と勘違いして……。まさか晶さん……。そんなバカな。晶さんまで那月のことを忘れてる……そんな……そんな、馬鹿なことが」

 ミカは路上に泣き崩れる。

「やめてよ晶さんまで……そんな訳ないじゃん。時空研、あの出来事みんな知らないの? もしかして那月に関してだけ忘れたの? 那月との喧嘩についてあたしに説教したじゃん。やめてよぉ……お願いだから」

 ミカの涙声を聞きながら、眉間にしわを寄せた晶は必至で頭をめぐらす。

「ミカ、ちょっと待って! 分かった。何かあったのね。巨蟹市で何かが起こっているのね。そこに居て。……また掛け直すわ」

 晶は一旦ミカの電話を切った。携帯を手にしたまま、固まったように動かない。

「ん? どーかした」

 怜はぽかんとした顔で、頭の後ろに腕組んで、立っている晶を見上げている。

 晶は、何かが引っかかっていた。ミカと自分との間に認識のずれが生じているのだ。鮎川那月という名に覚えはなかった。だが、ミカは今、何か重大な局面に接しているらしい。それは確かだ。そこに、人馬市が関与している。あの、伊達統次が。その瞬間、宝生晶の中に、伊東アイが今、何かこの時空をいじったのではないかという直観が湧き起こってきた。

「ねぇ怜、あなた、鮎川那月という名前に覚えある?」

「さぁ。……誰?」

「うん……」

 人馬市が時空を操作した可能性があったが、証拠は何もない。

 このところ、宝生晶はずっと考え続けている。

 晶は、一連の事件とブルータイプの因果関係がぼやけてよく分からない。ブルータイプ達は、血が青いというだけで、敵であるという証拠がない。一体ブルータイプとは本当のところ何なのか。しかしそれらの情報はアイと伊達統次が独占していて、自分たちには教えてくれない。だが彼らは、きっと何かを隠しているに違いない。そこに、伊達統次の独走が起こりうる。その事の方が危険だ、と晶は思う。それにしても一体なぜ、伊東アイは伊達統次の本質、危険性に気が着かないのか。それを考えると、自分がこれまで行ってきた全てが信じられなくなる。

 そもそも、『ディモン』とは一体何の事なのだろう? ディモンの認定を受けた者たちは、本当に人類にとって害のある存在なのだろうか。これまで宝生晶は東京時空研究所の所長として、国防省、さらには伊東アイの計画下で仕事をしてきた。だが真実は一向に知らされないまま、いつの間にか歴史がすり替わっていく。今や、何が正しいのかも分からない。晶が、伊達統次への反発心を捨て去れないことも、晶の置かれている状況をより複雑なものとしているのは事実だ。

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