23

 赤く滴る雫は未だに温かさを保っていた。


 壁一面にべったりと塗りたくられた赤色は、この白黒の世界においてとんでもなく異質で、しかし同時に、この世界ではよくあることだった。


 トマトを投げつけたように、とでもいえば目の前の光景は多少和らぐのかも、と思ったが、そんなことはあり得ない。どこか他人事のようにそれを見ているマジメでさえも、決して部外者ではないのだから当たり前だ。


 だが、一番簡単に表現するのならば、やはりトマトを投げつけたように、という言葉がもっとも的を得ているだろう。


 ただ、もし本当にトマトであればどれほど良かったのだろう。少なくとも、この世界が残酷であり、万人に平等だということを思い出さずに済んだのかもしれない。


 いや、むしろ逆だった。それらを思い出したからこそ、認識を改めることが出来たのだ。


 この世界はとんでもないほど危険である。


 それを教えてくれたのは、真っ赤に染まる壁に寄りかかるようにして倒れる、頭のない死体だった。


 階段を降りた途端、それは目に入った。


 踊り場の壁が一面ひび割れていて、更に赤黒いペンキをぶちまけたかのような光景。


 はっと気がついてヒイの目を塞ごうとしたが既に遅く、彼女は長い前髪の奥で目を見開き、息を止めていた。


 人が死んでいた。


 これほどわかりやすい死に様もそうはないだろうと思えるほど、凄惨な死に方だ。


 赤黒い血液の中心で、壁に寄りかかるようにして息絶えている人間の頭部は丸ごと弾けたようであった。


 壁には飛び散った脳漿がへばりついて、軌跡を残しながらゆっくりと落下している。


 死体の着ているチェック柄の服は見る影もなく赤黒く染まっていて、ジーンズも同じような有り様である。あまりにも無惨な姿だった。


「嘘、なにこれ……こんなの、こんな……や、やだ、やだよこんなの」


 マジメの背後でヒイがスケッチブックを取り落とした。


 瞳に涙を溜め、理解を拒むヒイとは対照的に、マジメは驚くほど冷静であった。良くも悪くもマジメは目の前で人が死ぬ瞬間を見ていた。もちろん、頭部が粉砕されるようなむごたらしい死体ではなかったが、経験のおかげで取り乱すことはなかった。


 嫌な経験だ、と呟いて、動けないまま死体を見つめるヒイの肩を掴んで、階段を上らせた。


 ショックのあまり泣き出してしまったヒイにしがみつかれながら、マジメはもう一度階下を見た。


 別に死体を見たいわけではない。ただ、気になる点があったのだ。


 眉をひそめながら、無惨な骸を見ないように勤めて、マジメは視線を壁に向けた。


 べっとりと張り付く血液と脳漿は無視し、その中心だと思われる壁に着目した。


 そこだけが砕けていた。


 円錐状の何かで穿たれたとしか思えない形跡がくっきりと残っており、そこを中心として壁全体がひび割れているのである。


 死体の頭部が、もともとそのひび割れの中心に存在していたのなら、この惨状は出来上がる。


 とはいえ、そこから導き出されるものは何一つとして存在しない。いや、ほんの少しだけ。


 人間の頭蓋骨を粉砕することが出来る何者かが、この建物内にあるのだ。


 そう考えて、マジメは青ざめた。


 もしかしたら、マジメたちが聞いた硬質な足音は、この惨状を作り出した者の足音かもしれなかったのだ。


 本当は違うのかもしれない。違うかもしれないが、正しいのかもしれない。


 どちらにせよ、危険な何かがすぐ近くにいる、とマジメは唇を強く噛んだ。


 そんなとき、背後から思ってもみない声が掛けられた。


「あ、おいきみたち……」

「……お前」

「おいおい、そう睨むなよ。ここに来たのは偶然だって」


 心底驚いた、という表情を見る限り、彼の言葉に偽りはないのだろうが、それでもマジメはヒイを庇うように立ち塞がった。


 へらへらと笑う男が心外だと大袈裟に肩を竦めた。


 セガワとこんなところで再会したのはなんの因果だろうか。ともかく、マジメは威嚇する猫のように髪を逆立てかねないほど、強烈に睨みつけていた。


 以前と同じく、青い上下服でまとめたセガワは何が嬉しいのか、マジメを見て薄い笑みを浮かべた。腰には相変わらず鈍く光る鉄パイプを帯びている。


「お前、何しにここに」

「なに、きみたちと一緒だ。流石に一人でいるのはつらいからな」


 とてもではないが辛いとは思えないほど軽薄な笑みを浮かべている。


 遅れて、ヒイも気づいたのか目尻を拭いながらセガワを見上げ、やや怯えたように首を縮めるとすぐさまマジメの背中に回った。


「きみたちがここにいるってことは……あれを見たのか。なるほど、それで泣いているのか」


 あれ、と階下を指差したセガワに眉を寄せるマジメだったが、セガワがマジメたちよりも先に惨状を見ているような口ぶりだったことに気づいた。


「知ってるのか?」

「まあな。知っている、っていうよりも、真正面から見たって言ったほうが正しいけどな」

「な……」

「別に驚くようなことじゃない。ここはああいう死体が日常茶飯事に出来上がる場所なんだ。その様子じゃ初めて見たらしいが……良かったな、死ぬ前に見ることが出来て。きみたちもあんな風にはなりたくないだろう?」


 笑いながらそう言うセガワに、不快感が隠せなかった。別に、死者を軽んじる発言に苛立ちを覚えたわけではない。敬虔な教徒ではないが、しかし、顔もわからないほど悲惨な姿になった骸を見て、なんとも思わないわけがないのだ。


 確かに、物言わぬ骸にはなりたくない。だが、セガワのように死者を見てせせら笑うような人間にはなりたくなかった。


 背中にヒイの体温と、わずかに震える体を感じて、マジメはまるで躊躇いを見せずにセガワの頬に右拳を叩きつけた。


 あまりにも唐突すぎたのか、百戦錬磨と思われるさしものセガワも、突然現れたマジメの拳をよけることは出来なかったようで、固く握られた拳に殴り飛ばされたのだった。


 現代社会に生きる学生にしては、重みのある拳をしたたかに受けたセガワは、拍子に口内を切ったのか、唇の端から血を流していた。


 にわかに驚いた風であったセガワだったが、何が面白いのか、彼は笑みをより強めて唇についた血を拭った。


「お、小田原くんっ! なんで叩いたりなんかっ」


 荒っぽいマジメの行動に、流石に不安を感じたのか、パーカーの裾をつまんで不安そうに囁くヒイに、マジメはぎこちなくも優しく笑いかけた。


「大丈夫。俺があいつを殴るより、あいつが俺たちの傍にいることの方が問題だから」

「そういう問題……?」


 確かに、セガワが傍にいることの方が精神的に問題だが、いささか荒っぽいと思わなくもないヒイだった。


 より笑みを深めたセガワを不気味そうに見やったマジメは、もう一発殴れば流石に退散するか? と真面目に考えていた。そんな物騒な思考を読み取ったのか、セガワはもう一度重いパンチを受けてはかなわぬとわずかに口元を引きつらせて後ずさった。


「二発目は遠慮したいから俺はもう行くよ。まったく、これだから最近の子供は怖いんだよ。それじゃあまた」

「二度と会うか!」


 牙を剥き出さんばかりに威嚇するマジメに、セガワは肩をすくめると特に何をすることもなく立ち去っていった。どうやら本当に偶然居合わせただけのようである。


 痛そうに頬を触るセガワの背中を忌々しそうに見送ってから、マジメは未だに震えの止まらないヒイに振り返った。


 それと同時に、緊張の糸が切れたのか、ヒイはその場に座り込んでしまった。


「大丈夫か?」


 慌てて体を支えたマジメに、ヒイは弱々しい笑顔を浮かべた。


「今日、いろいろあったから疲れちゃいました……えへへ」


 マジメが考えるよりもずっと、ヒイの中で起こったことはたくさんあったのだろう。疲労が顔に滲み出ていて、顔色が悪い。


 どこかで休むとしても、骸がすぐ傍にあるところなんて論外だ。とにかくここから離れようと、ヒイに肩を貸した。


「ここから移動しよう。あまり長居はしたくない」


 ヒイが落としたスケッチブックを拾って、階段から離れた。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 流石に死体を跨いでいきたくはないので別の階段から一階に下りていったのだが、ヒイの顔色がどんどん悪くなっていくことに我慢出来ず、ひとまず彼女をロビーの長椅子に寝かせた。


 いつになく体調の悪いヒイは、断って迷惑を掛けることを良しとせず、マジメの言葉に素直に頷くと柔らかい長椅子に横たわった。


「少し休めば大丈夫だと思うから……傍にいてください」


 弱々しくそう言われてしまえば、ゆっくり休めるようにと浮かした腰を降ろすしかない。せめて眠れればまた違うのだろうが、この病院では安心出来ない理由がある。


 ロビーから正面玄関に目を向けて、ひしゃげた自動ドアを見た。


 一点に集中してひん曲がった自動ドアは、壁を砕いた円錐状の何かとひどく似ているのだ。ただの偶然だと切り捨てるには似すぎているし、楽観視は出来ない。


 正直なところ、マジメは不安だった。


 広いスペースがあり、尚且つすぐに外へと逃げられるロビーを選んだのだが、この世界において、建物の外は危険でしかないのだ。もし仮に、白い建物の中を自由に動ける黒丸のような化け物がいれば、この病院にいることも危ない。


 結局、逃げ場などないのだ。そのときを切り抜けるしか生き残る術はないのである。

 青白い顔に苦しげな表情を浮かべ、思い出したように身じろぎするヒイは当分動けそうにない。


 何かあれば、彼女を守れるのは自分しかいない。


 男は度胸だ、と気合いを入れて、マジメは鋭い視線を周囲に走らせるのだった。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 それからどれくらい時間が経ったのだろう。白い建物の中は全部が全部白く塗りつぶされていて、時計すら見れない。


 ヒイの息遣いだけが響くロビーはやはり静かで、どこか不気味だった。


 具合の悪いヒイを置いてうろつくことは出来ないし、元より土地勘がないマジメには案内板が読めない今、気軽にうろつくと迷子になってしまうだろう。そんな懸念もあってじっとヒイの隣で警戒しているのだが、ふとパーカーの袖口が引っ張られた。


 一体どうした、と視線を落とせば、眠ったヒイがどことなく苦しげな様子で表情を歪めていた。


 疲れているときは悪い夢を見ることがある。おそらく、ヒイも悪い夢を見ているのだと当たりをつけて、しかしマジメはどうしようかと悩んでいた。


 こんなとき、どうすればいいのかわからない。寝苦しそうにしているヒイを放って置くことはしたくないが、対処のしようがない。出来れば、彼女にはゆっくりと休んで欲しいのだから夢見の悪さで目が覚めてしまったら本末転倒だ。


 何かないかと周囲を見渡して、ヒイが掴む袖口が目に入った。


 確か、そうだ。

 かすれかけた記憶をどうにか掘り起こして、マジメはヒイの額に恐る恐る手を置いた。


 そうしてから、ゆっくりと、いたわるように額を撫でる。


 遠い昔、まだ家族がいた頃に、悪い夢を見て飛び起きたマジメに母がしてくれたことだ。


 長い前髪が目に入らないように左右に分けて、額を優しく撫でているとヒイの表情から険しさが徐々に消えていった。


「効果あるんだな……」


 ぽつりと呟いた声はどこか寂しげで、しかしマジメ自身は気づかなかった。

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