ブルー・ブルー
06
春になったとはいえ、夜が深まれば肌寒い。
窓を締め切ってベッドに転がったマジメは、枕元に置いてある四角いアナログ時計を持ち上げて針が動くのを待った。
午後十一時四十八分。未だにあちらの世界に行く様子はない。
マジメは一つの仮定を立てていた。
もし、本当にあの黒い世界が夢の中なのだとしたら、眠らない限り行くことはないのではないのか?
今朝起きてからずっと頭に残っていたことだ。
白黒の世界で出会ったヒイという少女も、ここは夢の中だと一応言っていたし、あながち的外れでもないだろう。
長針がかちりと動くのがいやに遅く感じるのはきっと、マジメが緊張しているからだろう。
仮に眠らないまま朝を迎え、あちらの世界に行くことはなかったとしても、毎日眠らないでいるというのは無理だ。しかしそれでも、命の危険が常につきまとってくる世界に行くよりはよっぽどマシだ。
そうは思っても、気になることがあった。
あの少女、ヒイのことだ。
彼女はあの世界が夢の中だと知っていた口ぶりだった。しかし、彼女はあそこにいた。それが気になる。
誰が好き好んであんな殺伐とした世界に行きたがるというのだろうか。自殺志願者辺りくらいなら諸手を上げて眠るのだろうが、見るからに温和そうな少女が自ら赴くとは思えない。
何らかの理由があるのか、それとも強制的に行かされてしまうのか。
それを確かめるためにも、眠らないことは必要だった。
五十分を過ぎ、あと少しで日付が変わる。
まだ変化はないが、一分後、数秒後何かが起こる可能性もあるため、リラックスすることが出来ない。短針が十二の数字に近づくにつれて、心臓の鼓動が早まっていく。
何か起こるかもしれない。何か……。
そのとき、つい昨日感じたばかりの急激な睡眠欲求が生まれた。
脳裏に蘇ったのは眠たげな様子は微塵も感じられなかったヒイが突然こっくりと船を漕いだ光景だった。
これだ。
夢の中、文字通り眠った後。
眠ることであちらとこちらに行き来するのだろう。
抗えない睡魔に意識が引きずり込まれていく。
身構えていたおかげでマジメに混乱はほとんどなかった。二度目の経験ということもあるだろうが、比較的落ち着いている。
きっと、ヒイもこうして眠らされていたのだろう。眠らされて、夢の世界に行かされる。
これでは対処のしようもない。何せ今のいままでマジメに眠気は一欠片もなかったのだ。強制的に眠らされてしまうのだからどうあがいても意味はない。
おぼろげに滲む視界に、アナログ時計が映った。力の入らない腕をなんとか動かして顔に近づけると、今まさに日付が変わる瞬間だった。
時計を取り落とし、思考もままならなくなって、マジメはベッドに横たわった。
瞼が勝手に閉じ、いざなわれるまま眠りに落ちた。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
瞼を突き抜ける強烈な白が目の前に輝いた。
急速に意識を覚醒させていくマジメは、焼き付くような光に顔をしかめて、腕で目を隠した。
そうして光を遮って、ゆっくりと瞼を持ち上げると、真っ白な天井と、心配そうな面持ちでマジメを覗き込む少女がおぼろげに見えた。
まだ眠い。眠いが、ちゃんと覚えている。
ここはもう違う世界だ。
「おはようございます」
「おはよう、なのかな? 目が覚めたわけですし、おはようですね」
微笑を浮かべたヒイの輪郭がはっきりと見えるまで待ってから、マジメは身を起こした。
辺りを見回すと、昨日のビルのようだった。全てが白いせいで眩しく感じたのかもしれない。
昨日とおなじ、黒いパーカーに赤いジャージを着たマジメはソファに横になっていて、傍らにはヒイが立っていた。
「気分はどうですか? どこか具合の悪いところがあったら言ってくださいね」
「平気ですよ。少し眠いくらいで。でもどうしてそんなことを?」
ただ眠っただけなのだが、ヒイは気遣わしげにマジメを見ていた。
彼の答えに嘘を感じなかったのか、安心したように息を吐いてから対面のソファに腰掛けた。
「夢と現実の行き来に慣れないうちは体調を崩してしまうことがあるんです。わたしがそうでしたから」
困った表情を浮かべるとヒイは続けた。
「頭痛や吐き気、腹痛や筋肉痛、他にも色々あって、大変でした」
「そんなことが。ああ、でも俺も筋肉痛が酷いな」
「それはそうですよ。昨日あれだけ走ったんですから」
実はわたしも全身が痛いんです、そう言って苦笑したヒイはカーディガンを羽織り直した。
「俺もそうだけど、やっぱり郡山さんも服、変わってないんだね」
「はい、お気に入りですから」
微笑んだ少女がいて本当に良かったとマジメは改めて思った。彼女がいなければこうやって落ち着いていることも出来なかっただろうし、それ以前に、マジメはあのときに死んでいたはずだ。もし生き残ったとしても、途方に暮れていたに違いない。
こんな世界だ。一人でうろついていたら発狂していてもおかしくはなかった。
誰かがいる、ということがこんなにも安心出来ることだとは知らなかった。いや、忘れていたのか。
友好的な人間が傍にいるのは存外良いものだ。常磐にも少し優しくしよう、と思うと同時に、両親が妹を連れて家を出る光景がフラッシュバックした。
血の繋がった実の親でさえいなくなった。ならば赤の他人がずっと傍にいてくれる道理などない。
安心感をくれるこの少女も、つまらない人間にかかわってくれる常磐も、きっといなくなってしまう。
だったら。
いなくなってしまう前に、恩を返そう。
そうすればお互いに思い残すことはなくなるはずだから。
「あの、小田原くん? どこか具合悪いんですか?」
「あ、いや。大丈夫。これからどうしようか考えていたんだ」
ぼんやりと考え込んでいたマジメの咄嗟の言い訳だったが、思いのほか間違ってはいない。
これからどうするか、何をするか、どれ一つとして決まっていない。目的がないのだ。
ずっとこの白いビルにいれば黒丸に襲われることはないだろうが、それでは何も変わらない。ただの現状維持だ。根本的な問題に触れることさえ出来ていないだろう。ではどうするか。
「郡山さんは、これからどうするの?」
「どう、しましょうか……」
顔を伏せ、考え込む様子を見せたヒイに、マジメは大人しく待った。
急かしても答えが出てくるわけではない。
風の音も雑踏も、日常的に聞こえるであろう時計の針が動く音も聞こえない世界。聞こえるのは二人の呼吸だけだ。
耳鳴りがするほど静かな世界は人によっては望ましい世界だろう。マジメも静かな場所の方が好きな人間だ。だが、この世界には色がない。温かみがない。食料や水があっても、人が生きていける環境ではない。
暗く冷たい路地裏で、死んだネズミが虫にたかられるように、ひっそりと消えていくだろう。
惨めだとは思わない。そもそもマジメには希望の死に方などない。それでも、いつも一人のマジメにはわかる。
人知れずに死んでいくのは、ひどく寂しいことだ。きっと成仏できないまま、この世界に留まり続けるだろう。
黒丸もそんな存在だったりして、と根拠もなく思った。
「どうしたらいいか、わかりません。でも、わたしたちみたいにここに来てしまった人が他にもいるはずです。その人たちを探したいです。きっと、困っているから」
確かに、マジメやヒイがこんな世界にいるのだ。他の人間が来ないとは限らない。もしかしたら、マジメのように黒丸に襲われているかもしれない。
「そう、ですね。俺も手伝います」
一人より二人、二人より三人。協力し合える人間が増えれば出来ることも増えるだろう。そう考えてマジメは頷いた。
「でも、探すっていってもどうやって? こんなだだっ広い場所だし、外には黒丸だっている。探すのは良いにしてもリスクが大きい」
「それは考えました。それで、取りに行きたいものがあるんです」
「取りに行きたいもの? 場所はわかってるのか?」
「はい、それは大丈夫です。ただ、こっちに来る前に置いてきてしまって……」
「そっか。じゃあ、取りに戻ろうか」
「はい……え? でも、外は危なくて……」
「これから人を探すことになるんだ、いい予行演習になるよ」
安全なビルから出ることに抵抗はある。外に出ず、ここで寝起きを繰り返していればきっとなんてことはないのだろう。だが、それでは何の解決にもならない。
というのは建前だ。
もっとシンプルで、頭を使う必要もない理由だ。
マジメは男だ。恩人が危険な場所に行くと言っているのだ、それをただ見ていることなんて出来ない。
それに、もしかしたらここで別れたらそれっきりになってしまうかもしれない。
別れるときが来るのなら、笑顔で別れたいじゃないか。
なんてことのない独白だった。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
「でも、本当に良いんですか? 小田原くんまで一緒に行く必要はないんですよ。わたし、すぐに戻って来ますから」
「大丈夫だよ。俺だって人探しに協力するつもりだし、いつまでもここにいても仕方ないだろ」
マジメはそう言うが、ヒイの顔色は優れなかった。彼女は不安なのだ。これから行く場所は、ここからそれなりに離れた場所だ。道中で黒丸に出会う可能性は当然あるし、マジメの行動は少々危なっかしい。
いや、普段の行動は極めて常識的なのだ。だが、咄嗟の判断、一瞬の行動が自らの身を犠牲にすることも厭わない危うさがある。
黒丸に襲われたとき、マジメに助けてもらったことがあった。だがそれは本当にヒイを助けるための行動であって、自分は度外視した行動だった。
それがヒイには気がかりだった。
とはいえ、彼の申し出はありがたいものであった。決して表には出さないが、外に出ることに怯えていたのだ。いくらひと月も一人で生きてきたとはいえ、慣れるようなものではない。
だが、自分は先輩だ、そう言い聞かせてヒイは強がっている。
マジメが気づいていないのは、心の機敏に疎いということもあるが、ヒイの笑顔に嘘臭さを感じないからだろう。
演技には見えない自然な笑顔。慣れてしまった物悲しい笑顔だ。
「それで、どこに行くつもりなんだ?」
ガラスの嵌っていない窓枠から外を見るマジメが問いかけた。
「病院です。東総合病院。ここではただの白くて大きい建物ですけどね」
苦笑したヒイだったが、マジメに反応はなかった。
「東総合病院……?長谷市の西にあるあそこだよな……?」
「はい、そうですよ?あっ、そういえばまだ話していませんでしたね」
「ここは、長谷市、なのか?」
愕然とした表情で振り返ったマジメに、ヒイはしっかりと頷いた。
「はい。建物もありませんし、景色も違いますけど、正真正銘、長谷市です」
にわかには信じ難いが、ここはマジメたちが暮らす長谷市だった。現実の長谷市の全てを黒く染め、背の高い建物だけを残して他の建物を消してしまえばこの世界になる、とヒイは続けた。
その言葉を受けて、階段を駆け上ったマジメは近くの窓にかじりついて注意深く景色を見渡した。
東地高校の校舎から見下ろした景色を思い出し、色のついた長谷市を想像しながら目を凝らすと、建物が軒並み存在していないため違和感は拭えないが、記憶の中の風景としっかり合致した。
深く息を吐きながら階段を降りると、マジメはソファに座り込んだ。
思いのほかショックを受けた。受けたが、すんなりと事実を受け入れることが出来た。
昨日から奇妙な体験ばかりしているのだ、許容範囲が広がってもおかしくはない。
「でもなんで長谷市なんだ?俺はてっきり、異世界だと思って……」
「わたしも最初はそう思っていたんですけど、高いところからみた景色に見覚えがあって。もしかしたら長谷市なんじゃないかって調べたらそっくりだったんです」
「そうなのか……」
「でも、夢の中なんですよ、ここ」
正夢になって欲しくないですけどね、と苦笑いを見せたヒイに、マジメは笑った。
確かに正夢にはなって欲しくない。
「でも長谷市なら、迷うことなく動ける」
「はい。わたしもそこだけは助かってます」
二人は立ち上がり、出口に向かった。
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