ピンク・ホワイト

02

 眼球の入っていない窪みはまるでブラックホールのように、何もかもを吸い込んでしまいそうだった。


 闇そのものを具現化したような、指先から爪先まで全体的に丸いフォルムの生き物は、静かにマジメを見下ろしていた。


 一方でマジメは全く身動きを取ることが出来ずに立ち尽くし、巨大な生き物を見上げていた。


「なんだこれ……。なんだよこれ」


 呆然と呟いて口を開閉させていたマジメは、黒く丸い生き物の指先がぴくりと動いたのを見て呼吸を止めた。


 その丸太のように太い腕が振り上げられるのと同時に、マジメは踵を返して一目散に駆け出した。


 数拍置いてからの轟音。地震のような振動に危うく転びそうになりながらも横目で見ると、黒い腕が地面を砕いてクレーターを作っていた。


 黒いアスファルトの欠片がマジメの足元にまで降り注いできて肝を冷やした。


 全力で距離を取ろうと走るが、後方から飛んでくる石片にそれを妨害する。直線的に走るのは無理だ。蛇行へと切り替えると石片の量は減り、幾分か走りやすくなった。


 しかし、石の雨は止まず、それどころか連続的な地響きが追いかけてくるではないか。


「冗談じゃないぞ……! あんな歩幅じゃすぐに追いつかれる!」


 身長が高ければ高いほど、一歩の距離は伸びる。それにあの生物はずんぐりとした図体に似つかわしくないほど俊敏だった。


 首だけで後ろを確認すると腕を道路に突っ込んだまま追いかけてくる。時折腕を前方に降って石の欠片をマジメ目掛けて放っていた。


 その幾つかが傍らにあった自動車らしき影に命中し、簡単にガラスを吹き飛ばしてボンネットを砕いた。


 もう破片を回避しながら走るのは不可能だ。遮蔽物もない以上蛇行だけでは限界がある。


 人間の頭部ほどある石片がマジメの背中に直撃した。


 自動車程度なら簡単にへこませる石の弾丸が、マジメの体を羽毛を吹き散らすかのごとく弾き飛ばした。


 悲鳴も上げられないまま数十メートル前方に転がったマジメは目を見開いたまま悶絶した。


 逃走方向に体が飛んだおかげで真っ黒生物との距離が一気に離れたが、わずかな時間稼ぎにしかならない。


 幸いにも骨は折れていないようだが、激痛に体を起こすことも困難なのに、走って逃げるなんてことは不可能だ。


 それに、元々望み薄だと思っていたが、夢の世界だという希望的観測は木っ端も残らずに消え去った。


 意識も感覚もある。だから夢だとは思わなかったが心のどこかで願っていたらしい。


 肉体、精神ともにダメージを受けてしまったマジメはもはや起き上がる気力もなくなってしまった。

 いや、生きる気力はもとからなかったか。


 そう呟いたが声にはならなかった。


 やっぱり、死にたくないとは思っても生きたいとは思わなかったな。


 走馬灯のように思い出したのは妹だけを連れて家を出た両親の姿だった。


 すぐに帰ってくるから、という言葉は結局守られることはなかった。


 これで死んだら化けて出てやるかな、と冗談めかして考えた瞬間、猛烈な勢いで体が引き摺られていった。


 あの黒いのは人間を食べるのか? といつの間にか閉じていた瞼を開けると、その黒いのがマジメを追いかけてくるのが見えた。


 追いかけてくる?

 疑問に思ってから、マジメの思考が急速に色を取り戻した。


 引き摺られながら顔を足に向けると白く細い腕が自分の足を脇に挟んで引っ張っているのが見えた。


 後ろ姿しか見えないが華奢な体つきや栗色の長い髪から判断して女性だろう。


 小柄な見た目に似合わず怪力なのかと思いつつ、マジメは摩擦で怪我をしないように体勢を整えた。


 直後、黒い生物が突然跳躍した。


 縦にも横にも大きい巨体が、意外と軽やかに飛び上がったのを見て、マジメは脇に抱えられた片足を強引に引き抜いた。


 バランスを崩してよろめいた女性が小さな悲鳴を上げるのに申し訳なさを感じたものの、今はそんな場合じゃないと割り切って行動に移る。


 どうせすぐにもっと酷いことをするんだ。そのときに纏めて謝ろう。


 そんな言い訳を考えながら、マジメは黒い生物が落ちてくる前に、女性の華奢な背中を蹴り飛ばした。


 自分もあんな感じで飛ばされたのかな、と頭の片隅で思いながら、うつ伏せの体勢から一息に起き上がって真横に飛び込んだ。


 背中が酷く痛んだがなんとか射程外には出られたようで、アスファルトを粉砕しながら着地した黒いのが腕を振るうのを見て、慌ててもう一度飛んだ。


 目の前でちょろちょろ動くマジメを捕まえようとしたのか、転がった直後で体勢が整えられていないマジメの足首があわや掴まれそうなところでまたしても体が引き摺られた。そのおかげで間一髪で避けることが出来たが安心している暇はない。


 勢いのついた腕を空振りしてふらついた黒いのを見て、女性はマジメの腕を掴んで走り出した。


「こっちに! 急いでください!」

「うわっ、ちょっ」


 立ち上がったばかりのマジメを強引に引っ張っていくパワフルな女性は、そのまま黒い巨体の股下を潜り抜けて背中側の道路から飛び出した。


 そのまま速度を落とさずに真っ直ぐ走り、黒い生物を引き離したことを確認すると、また別の道に入っていった。


「どこに行くつもりですか!?」

「あそこに見える建物の中です! 黒丸たちは白い物には触れないから!」


 先ほどから走っているにもかかわらず、女性は息を乱さずにマジメの腕を引いている。病弱そうな外見とは裏腹に、健脚だ。


 ともかく、黒丸というわかりやすすぎる名称を知ったマジメは一度振り返って姿が見えないことを確認すると安堵のため息を漏らした。


「ダメだよ」

「え?」

「まだ安心しちゃダメですよ。黒丸は、どこにだっているんですから」

「どういう……」


 そのとき、雨雲のような大きな影が空を覆った。


「冗談じゃないぞ……! なんでもう一匹」

「走って!」


 ただの雨雲の方が万倍マシだった。脇道からもう一匹の黒丸が覗き込むように見下ろして、丸っこい指を広げて二人を捕らえようとしていた。


 目測を誤ったのか、頭上を通り過ぎていった丸太のような腕が突風を巻き起こすの肌で感じて、冷や汗が噴き出した。しかし拭っている余裕は微塵もなく、正面からまたしても別の黒丸が立ちはだかっていた。


「嘘だろ!?なんでこんなに……」

「人間を見つけると仲間を呼び寄せるんです! こっちに!」


 流石に正面突破は難しく、股下を潜るなんてことは待ち構えている黒丸に対しては不可能だ。先ほど成功したのは奇跡に等しい。


 正面の黒丸を避けて横道に入ると、遠かったはずの建物が近くに見えた。無我夢中で走ったおかげでもう少しで辿り着くことが出来る。


 脇道に入った二人を追いかけるのは二匹の黒丸だ。彼らに知能は備わっていないのか、同時に追いかけようとして激突していた。


 しかし、そんな光景を見ても笑えるほど余裕はない。

 緊張の連続で心身ともに限界に近いマジメは、荒い呼吸を繰り返しながら目の前の華奢な背中を見失わないように走るだけで精一杯だった。


 幸いにも、衝突した二匹の黒丸は蹲ったまま動くことが出来ないようで、まだ追いかけてはこない。


 一応痛覚自体は存在しているようだが、どちらせよ生身であの怪物と戦うのは不可能だ。


 目前に迫る白い建物に向かって全力で走る。


 だが油断してはならない。二人が走っているのは、障害物もなければ見通しの良い道路なのだ。いつ、どこから黒丸がやってくるかわからない。


 走るのももう限界だ。足が棒のようになっているし、酸素不足で意識も朦朧としている。


 そんなマジメに比べて、目の前を走る彼女はなんと逞しいことか。軽く息は乱れているがまだまだ余裕がありそうだし、背後の様子を窺うことが出来るほど精神的にも安定している。


 もう少し、あと少しで白いビルのような高さの建物に入ることが出来るというところで、視界の左右から黒く巨大な生物がのっそりと現れた。


 一匹だけではない。ビルの入り口の左右を守るように立つ二匹と、マジメたちの左右から挟み込むように現れた二匹の計四匹だ。


 その丸い体を見た瞬間、自分の顔が引きつるのを感じて、マジメは危うく意識を飛ばすところだった。


 まるで冗談のような光景だ。


 力も俊敏性もリーチもある化け物が四匹。そいつらを潜り抜けなければ避難することもままならない。


 女性はちらりとマジメを見遣り、このまま突破することを選んだ。彼の体力はもう限界だし、他に建物があるところといえばここから離れた場所に存在する病院のような建物しかない。


 後ろの二匹プラス、目の前の四匹から逃げながら向かうのは、ここを突破するよりも困難だ。


 女性というにはまだ幼い少女の視線とかち合い、マジメは息を呑んだ。


 何よりもその瞳が、生きる意志を宿した目にマジメは圧倒された。


 眩しい。


 見惚れてしまうほど美しく、足を動かしていなければ確実に見つめてしまったであろう瞳だ。


 諦めの感情が入る隙間などないほど活力で満ち満ちている目は、すぐに前を向いてマジメの腕を強く握った。


 彼女の意志が伝播したのか、それとももう一度あの瞳を見たかったのか、マジメの足は再び加速した。


 もう足もパンパンで息も完全に上がっている。なのに何故こうも逃げるのか、生きようとするのか。その問いかけは生き残ってからすればいいと切り捨てて、マジメは前を向いた。


 最初に飛び出してきたのは、右の黒丸だった。


 マジメの胴体以上もある腕をむちゃくちゃに振り回しながら突っ込んできた黒丸は、あまりに激しく振り回したの勢い余って転倒した。雪玉のように転がってきた黒丸を大きく迂回することで難なくかわすと、間髪入れずに左の黒丸も突っ込んできた。


 こちらの黒丸は冷静なようで腕こそ伸ばしているが振り回すことも振り回されることもなく、マジメたちに迫ってきた。


「どうするんですか!?」

「タイミングを合わせて二手に別れましょう! せーのっ」


 少女の掛け声と共に左右に別れて迂回しようとする二人に、目標が定まらないのか右往左往するだけの黒丸は苦し紛れに少女に飛びついた。


 しかし少女は既に黒丸を引き離している真っ最中だ。いくら巨体の黒丸といえど、振り向きながらの跳躍は無理があったのか大した距離は出なかった。


 少女を掴もうとした腕は空を切り、地響きを立てながら地面に倒れた黒丸もこれで二匹目だ。


 最後は門番のように立つ二匹だ。


 二人が近づいても彼らは微動だにすることなく、ただマジメたちを待ち構えていた。


「本当に門番だな……」

「そうですね」


 二人は警戒しながらも一度立ち止まり、体力回復に努めることにした。


 相手が動かないならずっと走り回っても無駄だ。


 その辺に転がっていた小石を投げつけても反応がなかった。やはり近づかないと動くこともないのだろうか。


 どちらにせよ、ビルの中に入らなければ助かることは出来ない。


 体力が十分に回復したのを確認して、二人は黒丸たちの前に立った。


「それじゃあ、いきますよ?」

「はい」


 頷いて、走り出した。


 出し惜しみはしない。多少休んだとしても全快には程遠いのだから、ここで全ての力を出し尽くす勢いで走らねば生き残ることは出来ない。


 同じ速度で併走する二人に、黒丸たちは身じろぎした。


 動くか、と身構えて走りつづけ、ついに黒丸たちの足元まで辿り着いた。


 最大限に警戒しながら、一気に駆け抜けようとする二人の頭上に影が差した。


 いつの間にか黒丸たちが腕を振り上げていたのだ。まるで見えなかった腕に目を見開くが、今はそれどころじゃない。


 叩き潰さんとする大木のような黒い腕を回避するため、遮二無二前方に飛び込んだ。


 全速力で走る勢いのまま飛び込んだおかげで、腕は二人の体に触れることなく地面に叩きつけられた。だが、それで終わりではなかった。


 ビルの入り口目掛けて飛んだ二人だったが、わずかに距離が足りずに手前で体勢を崩していた。早く立ち上がらねば、とマジメは立ち上がり、ビルに入ろうとするが少女がついてこないことに気がついた。

 彼女をすぐに見つけたが、マジメは顔を青くした。受け身を取れず打ち所が悪かったのか、気を失ってしまっていたのだ。


 慌てて少女を抱えたマジメに、二本の腕が迫っていた。


 人一人抱えながら避けるのは難しく、思うように歩けない。


 一本目の腕が頭上から降ってくるのをなんとか避けたマジメはビルに入ろうとするが、脇から伸びた腕に後退せざる負えなくなった。

 幸いにも、入り口を塞ぐ脳はないようで、走り抜けることが出来れば逃げられそうだが、少女を抱えたままでは走れない。


 どうする。

 強く唇を噛んだマジメは、走った。


 追いかけてくる腕に追いつかれないよう、マジメは腕の中の少女を投げた。


 しかしそれは見捨てたのではない。

 命掛けで助けてくれた恩人を囮に使うほど、マジメは腐ってはいないのだ。


 少女を投げたのは黒丸たちの方ではない。ビルの方だ。


 脇の下に腕を入れて少女を放ったのだが、火事場の馬鹿力か、かなりの勢いでビルに飛んでいった彼女は上手く白いビルの床に転がった。


 しかし投げたことでバランスを崩してしまったマジメはそのまま転倒してしまった。


 絶体絶命の危機の中、マジメはしっかりと目を開けていた。

 だが。


「動か……ない?」


 突然動きを止めた黒丸たちはそのまま沈黙し、地面に倒れていった。


 なにがなんだかわからず混乱していたが、とにかく無事にビルの中に駆け込んだマジメはその場に崩れ落ちた。

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