4


 

 二日後。

 船は無事港へ到着した。

 碇を下ろして船員たちが、次々と船から下りていく。

 食事と僅かな休憩後、船は再度出航する。

 港から一番近い、弔いの海域へ。


 この国では水葬は火葬と同じくらい一般的だ。葬儀の際の出航は例外とみなされ、国の許可は要らない。定められた時間内に帰港すれば申請も要らず海へ出れる。

 弔いの海域は、港の近くには必ずある渦潮の多く発生する海域で、死者を弔う為の海だ。

 そして神の世界に通じているともいわれている。

 神という存在の認知度の低いこの国の国民の、唯一の聖域だった。


 小さな船に遺体を乗せ、神への供物をたくさん持たせ、故人との思い出と品を乗せ、その小舟を渦へと流す。

 渦潮は輪廻の輪にみたてられ、旧くから水葬の儀で使われてきた。

 そうして故人は海にかえる。

 また生まれてくる為の儀式。

 出港は三時間後。おそらくそれがギリギリの時間だった。



「――マオ。港に着いた。他のやつらにもジャスパーを会わせる。それに、送り船の準備もある。いい加減これを解け」


 ジャスパーの遺体と、マオが引き籠る貯蔵室。

 レイズが透明な壁の前に膝をついてマオに声をかける。

 自分とイリヤは開いたドアの外から中の様子を見ていた。

 一番はじめ、自分がかけたこの部屋の結界は既に解いてある。残っているはマオの結界だけだ。守りとも拒絶ともとれる、この。


 マオは、無言。眠っているわけではないだろう。声も聞こえているはずだ。

 ここで眠っているのは、ジャスパーのみ。

 マオがいつの間に拭いたのか、ジャスパーの体の血痕や傷痕は綺麗になっていた。なくなった腹も、上手に隠れている。

 殆ど腐敗のみられないその体。傍から見ると本当に、ただ眠っているだけのようだ。


「マオ」


 レイズが語気を強くする。

 マオがぴくりと何かを感じ取り、僅かに顔を上げて視線を向けた。

 それを確認するのと同時に、レイズが自身の右手を大きく振りかぶった。

 ドアから薄く漏れる明かりが、その腕に巻きつけられたいくつもの装飾品に反射する。きらきらと。


 ガツン、と。鈍い音と重たい衝撃が船と空気を揺らした。

 レイズが思い切り殴ったのだ。目の前の結界の壁を、その拳で。


「レイズ?!」


 イリヤが悲鳴のような声を上げた。突然のレイズの行動の理由が掴めていないのだろう。

 何故だか自分にはその真意が理解できた。そしてこれほどまでに有効な手はないだろうとも。

 目の前で誰かが傷つくのを、マオは決して見過ごせない。


 驚きと困惑に見開かれるマオの濡れた瞳が、レイズのその血に濡れた拳を映していた。

 それから再びレイズが腕をひいて、振り上げる。

 透明な壁には、レイズの血痕。血の跡が辺りに飛び散る。


「やめて! レイズ、やめて…!」


 顔を蒼くしたマオが叫んだ。

 久しぶりに見た、その顔。

 今にも泣きそうなくらいに顔を歪めて透明な壁に両手をつく。

 突然のことに、結界を解こうにも頭が追い付かないのだ。


 レイズは躊躇なく、再び拳を叩き付けた。

 先ほどよりも、強く響く衝撃音。思わずこちらが眉を顰めるほど。

 装飾品のいくつかが砕けて散って、音をたてながら、光を撒き散らしながら床に転がる。

 レイズがその長い髪の隙間から、マオを見据えた。その強い視線に、マオがびくりと体を震わせる。


「もう、俺は。大事なやつの為なら指の一本や二本くらい、痛くねぇぞ」

「……!」


 大粒の雫を溢しながら、泣きながらマオは崩れ落ちるように、漸くその壁を光に溶かした。

 ポタポタと床にマオの涙が落ちて、そこにレイズの血が染みる。

 声を押し殺すように泣くマオにレイズが近づく。マオはもう、逃げることも拒むこともしなかった。


 それから血まみれの拳がマオの涙を拭う。

 ずっと誰も拭うことのできなかったそれを。

 その手にマオの手が重なった。

 ぴきり、と。小さな音と共にレイズの拳の抉られていた傷痕の血が固まる。これ以上血が、流れないように。

 それからその手をぎゅっと握った。


「あたしは、痛い…」

「それはお前の痛みじゃない」

「それでも、痛い。痛くて、痛くて堪らない。レイズ、あたしは……!」


 他人の痛みを、いやでも負う少女。

 彼女はこの世界に向いていない。戦いに向いていない。

 生まれた世界が、生きてきた世界が違うのだ。当然だろう。

 マオの生きる世界は、ここではない。


 隣に立つイリヤもまた、いつの間にか涙を溢していた。おそらく同じことを思って。


 マオの優しさは、そのまま弱さだ。

 その弱さと優しさは誰かを救い、そして誰かを傷つける。その時マオが真っ先に選ぶのは自分自身。

 解っていない。それがどれだけ愚かで残酷な行為であるかを。


 ここに居るべきではない。

 おそらく、今までマオを傍で見てきたのなら、誰だって。彼女の為を思うなら、その選択をする。

 別れを。


 ――なのに。


「じゃあ全部、俺がもらってやる」


 レイズが低く、唸るように吐き出して、それからマオの体を抱き締めた。


「お前がむやみに背負うもの。抱えきれないもの。零したもの。失ったものもこれから失うものも。全部俺が、泣き終えるまで見届けてやる。足りないならこの手をくれてやる。だから、マオ」


 彼は全く別の道を選ぶ。

 淀みなく、迷いなく。

 マオの傍に在ろうとする。


「自分を蔑ろにするな。お前の命はジャスパーが命を懸けて生かしたものだ。だから、絶対に。奪われるな。誰にも。――自分にも」


 その言葉が、マオの空っぽの心へと、染み込んでいく。マオのその瞳に、光が戻る。

 自分はそれを、何故かまっすぐ見ていられなかった。



 漸くマオが、五日ぶりに外へと出てくる。レイズの腕に抱かれながら。

 まだ明るい空には丸い月が見えた。今夜は満月。魔力が最も満ちるとき。おそらくこれが、最後の。



 別れの時が迫っていた。


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