第11章 きみのもとへ

1



 肌を焼く日差しが痛かった。眩しさに思わず顔をしかめる。耳をつんざく蝉の声。

 頭がやけにぼうっとする。自分の今の状況が全く分からない。

 ちゃぷん、と撥ねる水の音。視界の端にプールが見えた。


 えっと、なんだっけ。なんであたしはこんな所に居るんだっけ。


 視線を辺りに巡らせる。そこは、旧校舎のプールだった。

 夏の日差しに焼け付くアスファルトの上に、あたしは仰向けに寝転んでいる。


「…なんで…」


 なんで、こんな所に?


 この場所を訪れるのは2回目。昨日、七瀬に付き合って初めてここに来て…それ以来だ。あたし自身、用事がある場所なわけではない。なのにどうしてあたし、こんな所に居るんだろう。

 朦朧とする意識の片隅に、チャイムの音が聞こえた。新校舎のチャイムってこっちにまで聞こえるんだなと、そんなことをぼんやり思って。

 そこでようやくあたしは勢いよく体を起こした。


「授業…!」


 本能的にそう叫んで立ち上がり、それから慌てて走り出した。


 息を切らしながら廊下から教室を覗くと、教室内は授業中にもかかわらず騒がしかった。教壇に教師の姿も無い。代わりに黒板に走り書きで、“自習”と文字が躍っていた。

 テストも終わったばかりでの自習なんて、真面目に勉強する者は居ない。大概の生徒が自分の席を離れて友人と話したりゲームしたり自由なものだった。

 ほっと息を吐きそそくさと教室内に入る。目立たなくて済んだのは有難い。自分を気に留めるクラスメイトは誰も居なかった。

 席について改めて、自分が全くの手ぶらだったことに気付く。カバンも何も持っていない。一体どういう思考回路をしていたのだろう。自分で自分に呆れてしまった。


「――真魚まお!」


 呼ばれる声に振り返ると、驚いた顔の七瀬が自分の席からこちらに近づいてきていた。どうしてそんな驚いているのか分からない。確かに随分と盛大な遅刻ではあるけれども。


「七瀬、おはよう…ってもう午後か」

「今日はもう休みかと思った、携帯もぜんぜん通じないし」

「え、あ、ごめん、なんか…ちょっと調子悪くて」


 曖昧に頷きながら反射的にスカートのポケットに手を伸ばす。その手に携帯と、何か固いものが触れた。

 同時に視界には早帆さほ加南かな達といったいつもの顔ぶれがこちらに近づいてくる姿が映る。


「真魚! なーんだ元気そうじゃーん、七瀬が朝からずっと落ち着かないからさ、家で倒れてるんじゃないかって。帰り寄ろうかって話してたんだよー」

「七瀬もひとりで行ったらいいのにねぇ、あたし達誘わないでさー」


 机に辿り着いた早帆達が、先に居た七瀬を茶化すように肘で小突く。七瀬は少し困った顔で「流石に女の子のひとり暮らしの家に、男ひとりじゃ行けないよ」と笑って応えた。


 目の前の光景に、何故だか懐かしさが込み上げる。

 いつもの光景だ。皆が日常で笑っている。

 なのにどうしてか違和感が拭えなかった。自分だけが何故だかこの場所から浮いている気がした。


「…真魚、本当に平気なの? ムリして来なくても良かったのに…」


 七瀬が心配そうにあたしの顔を覗き込んで声をかける。あたしは慌ててふるふると首を振った。


「大丈夫、元気だよ。なんとなく、調子が悪いような気がしたけど…夢でも見てたみたいなカンジ。なんだかイマイチ、現実味が無くて…」


 あたしの答えに七瀬は不思議そうに首を傾げた。

 自分でも分からない。現実味が無いのは、その“夢”なのか、“今”なのか。


 そんなあたしに早帆が一枚の紙を差し出す。いつの間にかみんな、他の男子メンバーまで周りの椅子をひっぱって来て、あたし達の周りを囲んでいた。七瀬も一番手近な椅子に腰かける。

 早帆が差し出した紙を受け取ると、進路調査票と書いてあった。どうやらあたしが居ない時に配られたらしい。


「期限が今週中だから、今日来ないなら届けに行こうと思ってたんだ」

「ありがとう。でもこれ、テスト前も書かなかったっけ…」

「夏休み中にさー、三者面談あるじゃん。それ用みたい。今度のは親にも見せてサインもらってくるんだって」


 加南がげんなりと言って、「まだ一年生なんだからさー」と愚痴を零す。それを隣りに居た凪沙が笑いながら宥めるのがいつもの光景だ。

 進路調査票の内容を見ると、確かにこの前書いたものより内容が細かかった。

 就職か進学か、進学なら進学希望先を第三希望まで。ここまではテスト前に学校でさっさと書いて提出した。今回のにはそれに志望動機と現在の学年成績、それから合否の可能性を自己推測して書く欄が追加されていた。

 これは明らかに保護者向けなのだろう。これらを保護者と話し合い把握してもらった上で、三者面談に臨むわけだ。わざわざ内容を確認したかどうかのサイン欄まである。


「…進路かぁ…」

「やだやめてよ、そういう辛気臭い顔でそういうこと呟くの。どうせまだ2年も先の話なんだよー? 貴重な16の夏くらい、今目の前の楽しいこと考えよーよ!」


 やれやれと大げさに溜息をついた早帆が、勢いよく机に雑誌を広げた。さっきまで見ていたのであろう、ページにはドッグイヤー。雑誌の中央には派手な色文字で大きく、『夏休み特集! 一生に一度の思い出に残る夏!』と書いてあった。


「夏休みの予定決めるって言ったでしょ? 真魚も意見出してよね、あと希望日。あんたのバイトが無い日にみんな合わせるんだからさ」


 仲間内でバイトをしているのはあたしと未波だけだ。未波は趣味もあって、海辺のサーファーショップでバイトしている。だけど親戚がやっているお店らしく、殆ど遊び半分だった。


「そっか…夏休みか…」


 ちょうど今週末から、夏休みなのだ。なんだかやっぱり頭がぼうっとしている。

 ふと未波が雑誌から顔を上げ、隣りに居た七瀬にその視線を向けた。


「夏休みといえばさ、旧校舎の取り壊しも休み入ってすぐだろ? プールは初日になくなっちまうらしくてさ、せっかくあんだけ綺麗にしたんだし、最後にこっそりみんなで泳ごうぜ」


 旧校舎のプールが…取り壊される。

 もともと旧校舎は老朽化が激しくて、取り壊し予定だった。だけど学長の意向で取り壊し前にお世話になった校舎を綺麗にしようということで、罰掃除も兼ねた未波達が掃除していたのだ。


「えーなになにプールって。未波の罰掃除の話?」

「そうそう、それがやっと終わってさ、プールすっげー綺麗になったんだぜ? 水も張ったし」


 未波の罰掃除に付き合わされて、凪沙や七瀬は現状を知っている。ついでにあたしも。早帆と加南も罰掃除のことは知っていたようだった。


「でも泳ぐなら海行けばいいじゃん、あたしプールの塩素ってニガテ」

「バカだなぁ、海はいつでも行けるけど、プールってなかなか自分らでは行かねぇだろ」


 海沿いの町のせいか、この町にプールの施設は殆ど無い。少し内陸に行った大きな町にはあるけれど、地元のコはみんな海に行く。泳ぐといったらプールより海なのだ。

 そのせいか学校でもプールは選択制だった。大抵の女子は、選択しない。スクール水着を嫌っているせいもある。


「水着は自前でいいし、昼間は見つかると面倒だから、夜に」


 声を潜めて言った未波の言葉に、早帆と加南もぴくりと反応する。つられるように声を潜めて、自然と顔と顔の距離が近くなっている。

 夏休み目前のテンション。ナイショ話にはみんな食いつく。


「夜に? 忍び込むってこと? バレたらヤバくない?」

「だからバレないようにやるんだよ。旧校舎って今はもう殆ど警備システム動いてないらしいし、フェンスの鍵はオレが誤魔化しておくし、絶対大丈夫だって」


 夜の学校に、こっそり忍び込む。

 その言葉はみんなの好奇心をそれなりに刺激したらしい。いつの間にかみんな乗り気の顔になっていた。

 だけどあたしの思考はそれどころじゃなくて。

 プールが取り壊される――そのことがぐるぐると頭に回っていた。

 だけどどうして自分がそこまで気にするのかが分からなかった。旧校舎のプールが無くなって不都合なことなんか、何ひとつあるはずが無いのに。


 プールの水音が、ふいに耳に甦る。

 なぜだろう、何か大事なことを忘れている気がした。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る