第64話 対峙

 お昼だというのに、もうすぐ夕暮れなのではないかと思うくらい公園の中は薄暗くなっている。分厚い雲からは時々大粒の雨がバケツをひっくり返したかのような勢いで降ったかと思うと、急に弱弱しく、肌を撫でるような雨に変わる。それはまるで天空で雨を降らそうとしている者と、降らせまいとしている者が対峙し、一進一退の攻防を繰り返しているかのようであった。

 もともとそれほど人が集まる場所ではない、野鳥エリアはあいにくの天気で人の姿はない。雨が激しくなったときには視界が悪くなり、10メートル以上先は靄がかかって見づらい。人影が見えたかと思うと、その姿は一瞬で危うくなり、雨足が弱くなると姿が見えなくなる。木々が生い茂り、死角も多い。そこに集まった男たちはそれぞれの存在を意識しながら、じわじわとその距離を詰めて行き、目的地――坂口由紀子が変死体で見つかった沼地に集まりつつあった。


 カラン、コロン、カラン、コロン


 唯一例外は、ただ一人、その存在を誇示するように下駄の音を鳴らしながら移動する者がいる。大きなこうもり傘を差し、その中にすっぽりと隠れてしまいそうな小さな身体。作務衣に身を包み、身のこなしは軽いが、その足取りにはしっかりしたものがある。頭髪はなく、見ごとに禿げ上がり、日焼けした肌は健康的というよりは、蓄えたエネルギーを持て余しているかのように見える。その風格からは齢五十を過ぎた威厳と積み重ねた経験からくる揺るぎない自信にあふれ、老いてなお盛んという言葉ですら、陳腐に感じてしまうほどにギラギラとした目をしている。肌の張り、色つやは二十代の若者に勝るとも劣らないが、目じりや口角には、その男の生きざまを示す、しわがしっかりと浮き出ている。


 常に笑い、常に怒り、常に喜び、常に悲しむ


 喜怒哀楽を何一つ怠らず、偏らず、頼らず、もったいぶらず。ありのままをさらけ出す強さ、ありのままを受け入れる器の大きさ、ありのままを捉える注意深さ、ありのままを汲み取る深慮深さ。そしてないものはないという潔さ。


 下駄の男と呼ばれる初老の男は、自らを尾上弥太郎と名乗り、拝み屋を生業としているという。江戸川区笠井町を拠点にしながら、荒川の向こう側にそびえ立つ東京スカイツリー――下駄の男曰く『闇の塔』を見張っている。


 下駄の音が止む。


「さて、どうしたものかのぉ」

 以前に訪れたときは、あちこちに符術が仕掛けられ、遺体発見現場が簡単に見つからないように結界が張られていた。それによって坂口由紀子の遺体の発見は遅れたのだが、逆に言えば、そのおかげで下駄の男は死者の魂との交信をする外法――反魂香を使い、坂口由紀子と姉、浩子に何がおきたのか、そして誰が浩子を殺した張本人、権田聡を呪い殺す方法を教えたのか、そして、その男とどうすれば会うことができるのかを知ることができたのである。


 「あの人もお姉さんを……」

 「寂しい人、悲しい人、そして恐ろしい人よ……」

 「雨の降る日、大きな傘……」

 「あの人と会うのは雨の日だけ……」


 そしてその相手の名前カリノシメイ


「結界など張っていませんよ。そんな小細工、あなたには効かないでしょうからね」

 雨が弱まり、飽和した水蒸気が行きどころを失って小さな水滴で満たされた空間に透き通った鋭い、そして鼓膜にこびりつくような粘着性を帯びた声が下駄の男の背後から聞ける。


「何が小細工などしないじゃ。謀りおってからに……」

 下駄の男は振り向かず、まっすぐに沼地に入る抜け道に向かう。

「やだなぁ。少しは遊んでくれてもいいじゃないですか。尾上弥太郎さん」

 今度は左側から声が聞こえてくる。下駄の男はそれも無視する。

「こういうときに言うセリフがあるじゃろう。もっと気の利いた……そうそう、足元の悪い中、お集まり頂き、とかなんとか」

 下駄の男は一瞬視線を左に向ける。木の枝に一枚の符が見えた。声はそこから聞こえてくる。

「この公園からはあの大きな遊園地が見えますよね。僕はあそこの洋風のお化け屋敷が大好きでね。それを模して歓迎の御挨拶をしているだけですよ」

 下駄の男の進む先に、小さな人影が見える。人としてはあまりに小さい。それはまさに小人か妖精である。

「悪趣味じゃのう。あいにくワシの趣味は、お姫様や魔法のじゅうたんよりも、巨大なサメや恐竜のほうなんじゃがのぉ」


"ちっ! 食えない爺だ"

 その声は下駄の男には届かなかった。もちろんあえて、そうしなかったのだが、狩野紫明は、下駄の男が持つ傘と同じか、少し大き目のこうもり傘を差し、遺体発見現場となった沼のほとりで下駄の男を待ち構えていた。

「ようこそ、そして初めまして、ところで私の名前、もうご存じだったりしますかね。尾上弥太郎さん」

「遅れてすまんの、佐々木小次郎、あいにくの雨で船が遅れてのぉ」

 下駄の男を喩えるなら"ひょうひょう"であろうか。そして対峙する狩野紫明を喩えるのなら"白々と"であろうか。


 下駄の男が"老いてなお盛ん"であるのなら、狩野紫明は"若くして淡泊"と言えなくもない。

「船が遅れたからではなく、水族館で時間を潰したからでは、なかったですかね」

 下駄の男は生気に溢れている。一方狩野紫明は、生きるのに必要最低限のエネルギーを効率よく消費し、一見無駄ない動きをしているように見えるが、その実、不必要に狩を愉しみ、摘まなくてもいい草花を刈り取る。そこにエネルギーを費やすための節制をしているようだった。

「お主のやりよう、ワシは好かんぞ。カリノシメイ」

 怒気とも皮肉ともちがう、力のこもった言葉が狩野紫明に放たれた。

「おやおや、これは、これは、あなたにも覗き見の趣味がおありでしたか。あれはやはりあなたの仕業だったのですね」

 狩野紫明は以前、自分の所在を探り気配を感じたことがある。それは自分がやる生き物の目を使って遠くを見る術とは、別の物であった。


「魚や鳥の目を使って覗き見をする趣味は持っておらんのぉ。お前さんをよく知る人物から聞いただけじゃよ」

 狩野紫明の青白い肌に影ができ、表情が曇る。長い前髪で目の表情は覗えないが、好意的にその言葉を受けていないことはすぐにわかる。

「僕は、僕の持っているすべての能力を使い、できることをやったまでです。それで救われる人がいるというのであれば、それは人助けという物で、あなたに皮肉たっぷりに非難されるようなことではありませんよ。だいたい、人の道を外しているというのであれば、あなたもとっくに、こっち側の人間でしょう。きれいごとはなしにしましょうよ」


 尾上弥太郎と狩野紫明、相いれない二人が向かい合う中、雲は動きを止め、天は地上で対峙する陰と陽とをじっと見つめていた。


 雨は止んだ。


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