第716話 残ってもいいんだぞ
翌朝の目覚めは、胃のもたれと軽い頭痛と共にやってきた。
昨夜の食事、というか宴会で久しぶりに大食、痛飲したのが効いたらしい。
「あんな薄いエールで酔うことなんてなかったんだがなあ・・・」
ジルボアの組織した輜重隊は、肉だけでなく酒を大量に運んできていた。
そこで屋敷の中庭を開放し、兵団の連中と焚き火を囲んでの大騒ぎとなったわけだ。
少し頭をシャッキリさせようと庭の井戸へ向かうと、サラが先に来て水を桶にくもうとしていた。
「なんだ、水なら俺がくむぞ」
代官屋敷は少し高い場所にあるせいか、井戸の水位は低く、深い。
女手で汲むのには少しばかり苦労するはずだ。
「いいわよ、私のほうが慣れてるから」
いいから、と横から滑車の縄を引く手を取り上げると、サラはそれ以上は抗議しなかった。
朝から元気な鶏が餌を催促する声に、カラカラと滑車が鳴る音が重なる。
「ここの暮らし、好きだったなあ」
サラが、ぽつりとこぼした。
庭で作物を育て、鶏を飼って卵をとり、川で子供たちと魚を釣る。ときには森に分け入って鳥を射る。
小麦やレンズ豆、卵にハーブと少ない食材で工夫して食事をつくり、夜は静かに虫の音を聞きながら眠る。
そうした田舎の暮らしを、傍から見ていてもサラは本当に気に入っていたように見えた。
街の充実しながらも忙しない暮らしより、こうした農村での暮らしが彼女の性質には合っているのかもしれない。
「残ってもいいんだぞ」
半ば以上、本気だった。赤毛の娘の幸せがここにあるのなら、そうした方がいい。
するとサラは鼻に皺を寄せてこちらを睨んで
「い・や・よ!」
と一語一語を区切るように言った。
対応に困って頭をかいていると、ぬぼーっと大きな影がさした。
「すいやせんが、井戸を使わせてもらっていいですかね?」
ふと顔を上げると、いつの間にかキリクと剣牙の兵団の団員たちが後ろにずらりと、しかもニヤニヤしながら並んでいたものだから、思わず二人して赤面し、慌てて場所を譲る羽目になった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらく後、昨日の残り物で朝食を済ませると全員を執務室に集めて、引き継ぎの方策について検討を始めることにした。
いつものように、サラ、キリク、パペリーノ、ゴルゴゴと椅子を並べて黒板の前で議論を始めようとすると、思わぬゲストが入口に姿を見せた。
「すまないが、少し見学させてもらうよ」
そういうと、ごく自然な動作で空いた椅子に座ってしまう。
「ねえケンジ、団長さんって、本当にお貴族様みたいね。あの鎧男とは大違い!」
鎧男とは、子爵のことだろうか。サラにかかっては貴族様も形無しである。
だが、たしかにジルボアには気品がある。
以前よりも少し伸びた緩やかにウェーブのかかった金髪、冷たい輝きを湛える目といった身体的な特徴は勿論、今は身につけている物もシルクだろうか、輝きのある繊維のシャツに銀の縫い取り、大きな宝石のついたカフスボタン、と一財産はありそうな部屋着を自然に着こなしている。
もし子爵とジルボアが隣に並び、どちらが貴族かと聞かれたとすると、百人が百人、ジルボアを選ぶだろう。
「いちおう、俺も貴族の端っこらしいんだが」
代官という地位は、平民としては貴族の入口にあたる地位である。
縁故や能力のある平民を代官として任命し、そこで能力を示すことができれば、取り込む価値と見た貴族が婚姻などを通じて一族に加えていくこともある、そういう地位だ。
ところがサラの奴は「そうね」と、素っ気ない返事をかえすのだ。
少しだけおもしろくない。
一方で、キリクが何となく落ち着かない様子でいる。
「どうした」
「いやあ、団長がいると思うと落ち着かなくて・・・」
少しだけ気持ちはわかる。キリクは長く剣牙の兵団でその腕で貢献してきた。
ところが今、その頭の中身でより広い意味で役に立てていることを証明しようとしている。
単なる兵卒から、行政もこなせる指揮官へ。
いわば昇任試験に挑むような心境でいるだろうし、それはある程度当たっている心配だろう。
「大丈夫だ。普段通りにやれば、団長も満足する」
キリクは、この領地に来て行政官として大きく成長した。
今では領地の経営に欠かせない人材だ。
いつもようにできれば、きっとジルボアも満足する。そう信じている。
こちらの信頼を理解できたのか、キリクも少し落ち着いてきた。
「それでは始めようか。今日の議題は、いかにしてこの領地の発展をとめず、遠隔地から管理するかだ」
難題である。しかも引き継ぎのために残された時間は少ない。
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