第159話 土の臭い
「それでは懸案が片付いたところで、討議を続けましょうか」
せっかく現場で刺激を受けたのだ。このまま話を進めてしまいたい。
助祭達にも、意見は同じようだった。
「まず事前に資料などで農村の開拓計画について検討していたわけですが、事前計画と実際の現場では、どのような差がありましたか」
事前計画と現実の違いについて改めて言語化し、共有する。
そうすることで、経験した現実を判断する物差しができるので、議論を秩序だって進めやすくなる効果がある。
これをしないと、話し合いという名の感想を発散するだけの会議になってしまう。
現場でいい経験をしたのだから、それでは勿体ない。
「報告書の数字があてになりませんでしたな。同じ種類の麦でも質によって価格の差がでます。そのあたりを考慮する必要がありますな」
「現地の地図が測量された日時を確認するべきでしたね。あれだけ差異があると、地図を元に計画するわけにはいきません」
「生誕名簿を全面的にあてにするわけにはいきませんね。無宿者だけでなく、小作の農民は現地でも立派な村民として暮らしているわけですから、何らかの形で村の労働力として計上しなければいけません」
助祭達から様々な意見が出る。どれも現実に直面し、それを実際の開拓計画に生かそうという熱意が感じられる。
その中で、ミケリーノ助祭の意見は変わっていた。
「臭(にお)い、が違いました」
興味を引かれる意見だったので「臭い?」と聞き返した。
ミケリーノ助祭は目を閉じて、思い出すように訥々と語った。
「農民たちは垢に塗れ、子供には虱が湧き、畑や家畜からは糞尿の匂いがしました。ですが、それが彼らが生きている証なのだろう、と。帳面の数字からは、臭いがしなかったのです。私は、帳面を見るたびに、この臭いを忘れないでいようと思います」
嗅覚と記憶は強く結びついているという。今日の体験を五感に結びつけて記憶しておこう、という彼の方法論は理に適っている。それだけ真剣に体験を消化し、受け止めようとしているのだろう。
他の2人の助祭も、村の土の臭いを思い出そうとしているようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
差異について総括ができたところで、討議を先にすすめる。
「事前の計画と現実で実際に合致していた点はありますか」
事前の計画と現実が大きく異なっていたとしても、事前計画の肯定的な面も指摘しておく必要はある。
計画の完成度を高めるには継続的な改善が必要だからだ。
毎回、全てを否定してスタートラインに戻ってしまっては前進することができなくなる。
「村の中心付近の立地や畑の配置については、ある程度は事前の資料を信じても良さそうだと感じました」
「教会の司祭や村長が意図的に資料や収穫などを隠すということがなかったのは、教会の差配する土地ならではの良さでしょうね」
「資料さえ正しければ、開拓計画の立て方については、事前計画で訓練した通りの方法が使えると思います」
事前収集できる情報の信用度は、ディテールに近付けば低くなるけれども、ざっと大まかに目途をつける程度のことであれば何とか信用できるということだろうか。
それと事例(ケース)学習そのものは、彼らにとっても、やはり有意義だったようだ。
実際と大きく違っていたとしても、事前に農地開拓の考え方を演習できたことは、大きかったようだ。
俺も今回の経験を盛り込んで、事例(ケース)学習の精度を上げなければならない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そして、今日の議論の本当のお題目。
「今後の開拓計画において、事前計画との違いをどのように埋めていきますか」
今回の調査で判明した様々な事柄を、どのように開拓計画に盛り込んでいくか。
「事前調査を徹底しましょう。測量士、巡回裁判士、小麦商人、あとは徴税吏の人頭税の記録と生誕名簿の差異を参照しましょう。それで実際の人口との差異がわかるはずです」
これまで議論に出た内容を総括したアデルモ助祭の意見には、特に反対はなかった。
「問題は、隠し畑の扱いについてですね」
今回の調査で明らかになった農村の隠し畑の存在をどうするか。
下手に課税や規制をすれば農民の生活に大きな影響が出る。
しかし放置すれば農民が負傷し生産性に悪影響が出る。
どちらに転んでも良い結果はでない。
ここは知恵の絞りどころだろう。
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