11・悲劇の種

「お父さまは、シルヴィア叔母様という許嫁がおられたのに、お母さまと結婚なさったのよね?」

 アルフォンスが自分の問いに直接答えないので、ユーリンダは自分も父親の問いに答えず別の質問をした。質問と言っても、その答えは確定している事であり、その話題をわざわざ持ち出すのは、家族の中でも殆ど前例のない事だった。婚約破棄だけでなく、アトラウスの幼少期の事もあり、シルヴィアの存在、特にその死について深く触れる事は、殆ど禁忌めいたものだという暗黙の了解があったのだ。

 勿論、幼子ではない今、ユーリンダも、アトラウスがルーン家の濃い血を持ちながら黄金色の髪と瞳を持っていない事が何を連想させるか、という事は

理解している。そのせいでアトラウスは虐待され、シルヴィアが自死したのだという事も、物事が充分に理解出来るようになったと判断された頃に、兄と共に母から聞いている。



 カレリンダは、シルヴィアが元々アルフォンスの許嫁であったが自分がその座を奪ってしまった為にシルヴィアはカルシスと結婚したのだという事も正直に話した。おかしな噂として子ども達の耳に入る前に、きちんと事情を親の口から話しておく方がよい、と夫妻で話し合った結果である。ただ熱烈な恋愛の末に結ばれた、というロマンティックな逸話だけを周囲から聞いていた双子は、その影にシルヴィアとアトラウス母子の悲劇があったという事実に衝撃を受けた。


『シルヴィア叔母様は、カルシス叔父様と結婚して幸せだった、誰も悪くはないのだ、と遺書にしたためられていました。けれどこの事でお父さまは、全てがご自分のせいだと随分ご自身をお責めになりました。わたくしも……わたくしこそ、シルヴィア叔母様の幸せを奪ってしまったのだと……わたくしがお父さまを好きにならなければよかったのだと……。だけどね、この世の全ての出来事は、ルルアの目に見えないお導きによって起こるのです。悪しき人間は、死してルルアの国に行けず、永遠にダルムの氷獄に繋がれる。ルルアの愛し児であるルーン家やヴィーン家の人間がルルアのお導きに背く行いをする筈がない。だから、全てはさだめだったのです』

『小さかったアトラを閉じ込めて、シルヴィア叔母様を死なせたのが、ルルアのお導き……?』

 双子は母の言葉の真意が解らずに絶句した。だが、聖炎の神子であるカレリンダは、一時の惑いから抜けて、一層に信仰を深めていた。

『シルヴィア叔母様は、ルルアに愛され過ぎていた為に早く召されてしまったのです。今はルルアの国で静かに暮らしてらっしゃいます。いつかアトラウスが歳をとってルルアに召される日を、あの子を見守りながら待っているのですよ。そこにはもう苦しみはないのです。そして、アトラウスは、シルヴィア叔母様のおかげで今はあなたたちの実の兄弟のようにしてすくすくと育っている。お父さまは、アトラをファルの兄弟として扱うとお決めになっているのですから……』

 そこでカレリンダは少し言い淀んだ。彼女の考えでは、アトラウスがカルシスに殺されなかった事こそがルルアの恩寵なのだ。黒髪の赤ん坊は、生まれ落ちてすぐに、死産だったとしてカルシスに処分されてもおかしくはなかったし、カルシスの身分ならば、そうしていても問題にならなかった筈である。彼がそれをしなかったのは、つまる所シルヴィアへの愛情が残っていたからであり、アトラウスを虐待しながらも生かし続け、子ども達にそれを見つけさせたのも、ルルアの導きなのだと。だが流石に、その考えを――アトラウスが殺されなかった事がルルアの恩寵であると――そのまま子ども達に伝えるのは、あまりにカルシスが酷い人間であると言っているようなので、躊躇した。

 だが、

『ルルアの下へ行かれたシルヴィア叔母様には、もう苦しみはないのですね。共に生きる事は出来なくても、シルヴィア叔母様もアトラも幸福だと?』

 ファルシスは、母の言わんとするところを少しは理解した様子でそう問いかけた。カレリンダはほっとして、

『そういう事です』

 と応えた。だがユーリンダは納得のいかない様子で、

『でも、私なら耐えられないわ、お母さまがルルアの国へそんなに早く召されるなんて事は』

 と言った。カレリンダは、娘の気持ちを嬉しく思いながらも、次期聖炎の神子である娘がルルアの導きを否定するなど許されない事だと考え、

『親というものは必ず子どもより先にルルアの国へ行くべきなのですよ。それが早いか遅いかの違いです』

 と諭す。

『だけど早すぎるわ』

『それがルルアがアトラに与えた試練なのかも知れません。あの子は普通のルーン家の子どもとは違う生まれつき。あの子には何かルルアが特別な役割を与えているのかも知れないとわたくしは思っています。そしてあの子は見事にその試練を乗り越えて立派に育っていますよ。きっとシルヴィア叔母様も喜んでいる筈です』

『特別な役割……』

 その言葉に、ユーリンダは心を動かされたようだった。子どもでもないけれど大人でもない、そんな年頃の少女に、それは神話の英雄のごとく眩しく感じられた。確かに、大きくなったアトラは、母親が亡くなって暫くの頃と異なって、一切実母の事を口にせず、父の後妻となった宰相の娘アサーナを母上と呼んでいる。それで何の問題も起こっていないように見える。アトラウスはいつも静かな微笑を浮かべて彼女に挨拶してくれる。……ルルアは偉大な神で、そしてアトラウスはその試練を乗り越えたのだ。そう思うと、恋する少女は、それ以上深くシルヴィアの死について考えるのをやめた。そして、両親がそうであった以上は、自分にも自由な結婚が許される筈、という思いに囚われていった。


 だがファルシスは、妹のように脳天気ではない。やはりルーン家の嫡男が認められない結婚をする事は大きな犠牲を伴うものなのだ、と心に重く刻まれた。シルヴィアの死から数年以上経っても、父が時折アトラウスを、慈愛と苦悩に満ちた目つきで見ているのを感じていた。かつて妻に迎え入れると決めたひとが辿った哀しい末路を、父は全て自分のせいと受け止め、その望みを叶える為にせめてと、弟カルシスを処罰せず、甥アトラウスを優遇している。しかしアトラウスの姿を目にする度、毎日のように、心の奥底に澱む悔いが父を責め苛んでいるのだ。

 ファルシスは、母の言う通りと認めるふりをしつつも、そう簡単に、ルルアの恩寵とは思えなかった。シルヴィア叔母の事で、あれ程仲の良い両親の間にかなり温度差がある事、言い争っても詮無い事ゆえにそれに触れないようにされている事も薄々感じていた。事情を聞いてようやく得心がいった。掟を破る事は、何か大切なものを犠牲にする事と同義なのだ。自分には、父のようにそれを受け止めて周囲を納得させるだけの覚悟も度量もない。だからやはり、ルーン家の嫡男として生まれたからには、与えられた責任と義務を全うしなければならない……。ファルシスは母の話を、そのように受け止めた。



 そのように繊細な話をいきなり娘が話に出してくるとは予想していなかったので、アルフォンスはやや鼻白んだ。だが、こんな事を言ってくるからには、娘にもかなり心を揺り動かされる何かがあったのだろう、と思い、慎重に娘の表情を見ながら、

「そうだよ。きみは知っていると思っていたが」

 とだけ答えた。

「お母さまと結婚する為に、シルヴィア叔母様との婚約を断ったのね? じゃあ、何故最初にシルヴィア叔母様と婚約したの?」

 やや挑戦的な口調でユーリンダは続ける。その瞳はまだ涙で潤んでいる。愛娘からこんな物言いをされた事もなかったのでアルフォンスは驚いた。

「その時はまだお母さまの事を殆ど知らなかった。シルヴィア叔母様を愛おしいと思っていたし、うまくやっていけると思った。だけど、お母さまと間近で会って話をした時、シルヴィア叔母様への気持ちは、妹に対するような気持ちだったと気付いたんだ……」

 何故、いまこんな事を娘に向かって話しているのだろう? 十代の頃の狂おしくもあった熱情は今は過去のものとなり、穏やかで深い愛情に移り変わっている。勿論、カレリンダはかれにとって、人として、女性としても未だに唯一無二の大切な存在ではあるが、あの頃の、他の何物と引き替えても彼女が欲しい、世界には彼女しか存在しないのだ、という焦燥に似た炎は、今ではただ懐かしいくらいの記憶でしかない。かれの帰りを待ち、微笑んで出迎えてくれる美しい妻がいる事が、今は、自分が生きている事と同じくらい無意識に享受する幸福だった。

 だが、子ども達はそうではない。あの頃の自分たちの年齢に近づきつつある息子と娘は、不確かな将来に夢と戸惑いと恐れを感じている。他の王族貴族と同様に、『結婚は家の為にするもの』と教育しておけば良かったのかも知れない。だが、自分自身がそのように教育を受けて育ちながらも、それを間違いだと信じて行動し、結果的にシルヴィアを不幸な死に追いやってしまった負い目が、この問題に触れるのを無意識に避けてきたのだと、今更にアルフォンスは気づいた。しかし、勿論何も考え無しに問題を先送りにしていた訳ではない。ただ、時が来るのを待っていただけだ。そして、その時が来るのか、或いは別な道が現れるのか、どうやらはっきりするのは近いようだと思った。

「ユーリンダ。きみが誰と結婚したいと思っているのか、わたしは解っているつもりだ。そして、出来ればきみの願いが叶えばいいと思っているよ。だから、そんな怖くて哀しい顔をしないでおくれ」

 かれは優しく娘に言った。ユーリンダは驚いた目で父親を見上げた。


 ……ほんの僅かな糸の紡ぎ間違いが、タペストリ全体にやがて歪みを起こすもとになってしまう。アルフォンスは目覚めてすぐにウルミスと面会して話を終えたばかりだった。昨夜の舞踏会でティラール・バロックがユーリンダに惹かれたらしい事は気付いていたが、まさかその彼がもう既に今朝方ユーリンダに求愛したとは聞いていない。だからこそ、ティラールが下手に近づいて来る前に娘の相手をはっきりさせなければ、という思いがあった。

 別段、ティラールという若者に嫌悪感を持った訳ではないが、かれは最初から、この純粋無垢な娘を安心して託せるのは、幼い頃から彼女を知っている甥しかないという気がしていたのだ。かれはただ、待っていただけだったのだ。アトラウスが、ユーリンダとの結婚の許可を願いに来るのを。

 だが、もしもティラールの行動を知っていたならば。ユーリンダに期待を持たせるような言葉はかけなかったかも知れない。もしアトラウスが、そのルーン家に相応しくない容姿や生い立ちを引け目に思って言い出しかねているのならば、そのような勇気のない者に娘をやる訳にはいかない、とも最近思い始めてもいたのだ。自身が、行動によって最高の妻を得たのだから、行動も出来ない若者では駄目だ、という意識もあった。それに勿論、宰相との関係もある。そう簡単に結論に結びつける発言はしなかった筈だ。

 しかしかれは今朝起きた事を知らずに、暗に、アトラウスとの結婚を認めてもいいと思っている、と娘に対して発言してしまった。悲劇の種は蒔かれた。

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