35・主従の絆

「アルフォンス様!」

 場に落ちた暫しの沈黙を破ったのは、エクリティスの押し殺した叫びだった。スザナを無事に送り返し、その足で大急ぎで戻って来たのだ。

「やはりこんな事に……何というお姿です。よもやお怪我はございませんか」

 頭から返り血を浴び、無表情のまま何かを考え込んでいるような主君の姿。虫も殺さぬような普段の穏やかな美丈夫が一変して、そこには凄惨さだけが強く漂っていた。こんな様子を見るのはエクリティスにとっても久方ぶりの事だった。

「あ、ああ……大丈夫だ、これは返り血だ」

 放心から返ったような表情でアルフォンスは腹心の部下に応える。だがエクリティスは、

「お手に怪我をしていらっしゃる」

 血まみれになった腕の細い傷、誓いの血を流す為にアルフォンスが自らつけた傷を見逃さなかった。アルフォンスは苦笑して、

「こんなものは傷のうちに入らない。それより、着替えと、手配は用意できているだろうか」

「駄目です、ちゃんと手当てなさらないと。着替えはここに。それから……」

 エクリティスの言葉を遮ったのは、低い断末魔だった。若い捕虜が身体を折って地面に伏していた。三人はすぐに男に駆け寄った。

「これは……自害ではないな」

 アルフォンスは一瞬で見て取った。縛られている男の胸から大量の血が流れている。

「妻から聞いた事がある、魔道の誓いの儀の事を。誓いを立てた者がそれを破れば、体内に埋め込まれた魔道の見えない鎖が心の臓を潰して胸を貫くという。恐らく、これがそうだろう。この者は猿轡を外してもすぐに自害しなかった。だから、誓いを破った事になってしまったのではないか」

「なんとおぞましい」

 リッターは眉を寄せて吐き捨てるように言った。そして、

「もう空が白み始めています。三つの死体とこの血痕、どうします」

 と問うた。するとエクリティスが淡々とした口ぶりで、

「三人連れて来ました。図書館の者が勤めに来るまでにきれいに片付けさせます。敵の死体は取りあえず台車でルーン公邸に運びます。番人は、急な病で倒れた風に見せかけておくしかないでしょう」

 と答えた。エクリティスは既にこの事態を予測した上で、最も信頼できる部下を選んで連れて来ていたのだ。

「聖炎騎士団長はなんと有能なことだ。うちの騎士団長はとてもこんなに気が回るとは思えない」

 思わずリッターは感嘆の声を洩らす。

「物心ついた頃から傍にいる。大抵の事は見透かされて先に万全の準備を整えていてくれる」

 アルフォンスは血まみれの衣服を脱ぎ捨てながら何でもない事のように言う。

「たいへん信頼されているんですね」

「ただの習慣です」

 エクリティスはリッターの褒め言葉にあっさりと会釈を返して言うと、主人が脱いだ衣服を受け取り、

「ルーン公殿下、急ぎ、公邸にお戻り下さい。国王陛下ご退席の後に公邸に戻られた事になっていますから。私がお供致します。……ブルーブラン公殿下にも護衛をお付けしますが、王宮にお戻りになられますか」

 と尋ねた。

「そうだな、王宮に戻ろう。ブルーブラン小宮で酔って眠っていた事にでもしましょうか」

「リッター、解ってくれてありがとう。本当に感謝する。訳も判らずに危険に晒してしまった事は謝罪する」

 先程のと似たような町人服に着替え、ローブを羽織ったアルフォンスの言葉にリッターは苦笑して、

「私が勝手について来たのですから謝罪などいりませんよ。それより、あなたを疑ってしまった私の方こそ謝罪せねばなりません。先程は失礼な事を口走ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。ご自身の為ではなく、私とスザナを護ろうとして不本意な策を採ろうとされていたのに、保身が大事なのかなどと、私は……」

「リッター、もういいんだ、解ってくれたのだから、わたしの望みは叶った。おまけに罪を裁く事も出来た」

「しかし、その為にこんな……本当に大丈夫なんですか? いくらあなたが剣の達人でも、暗殺に魔道を用いられれば防ぎようがないでしょう」

「魔道士といえども襲ってくる時は姿を現すから、防ぎようがない訳じゃない。だがリッター、もしわたしの身に何かあっても、もうこの件にはこれ以上深入りしてはいけない」

「あなたの気遣いを無駄にせぬよう心します。私の方こそ感謝しています」

 二人が話している間に、エクリティスの部下が入ってきて死体を運び出してゆく。エクリティスは部下のうちの二人に残って血痕を始末するよう指示し、一人にリッターを護衛するよう言いつけた。自身は二人分の死体を乗せて麻袋で覆い隠した台車を引いて、アルフォンスの供をする事にした。

「帰ろうか……さすがに疲れた」

 長い、長い夜が明けようとしていた。リッターとアルフォンスは近いうちの再会を約して別方向に別れて歩き出した。


「エク、何も言わないのか」

 暫く無言で主従は人気のない早朝の裏道を足早にルーン公邸に向かって歩いていたが、アルフォンスの方が沈黙を重たく感じて口を開いた。いつもならば、無茶をするなとか怪我をするなとか口うるさく言ってくるエクリティスがむっつりと黙り込んだままなので、気にかかったのだ。

「今更何を申し上げてもこの者達が生き返る訳でもありません」

「ああ……まぁ、そうだな」

 エクリティスの声に含まれた怒りにアルフォンスは落ち着かなげな様子になる。差し迫った場面では有無を言わさず迷いのない指示を与える主君だが、ことが一旦収まると、何となくエクリティスの顔色を見てしまうのは、彼が単なる部下ではなく、自身の一部のような存在だからだろう。幼い頃から苦楽を共にしてきた、実弟のカルシスよりずっと弟に近い存在。

「スザナは大丈夫だったか? リッターも解ってくれて本当によかった」

「……ローズナー公殿下は小宮にお連れして、後は御配下の騎士達が警護しています」

「そうか」

「…………」

 台車の重さはかなりと思われたが、エクリティスは唇をぎゅっと結んだまま、軽々と早足でそれを引いていく。早朝に台車を引く黒髪の男と、顔を隠し、すっぽりとマントで覆われた男の二人組。もしも金獅子騎士の巡回にでも出くわして目をつけられると面倒な事になる。

「そなたも疲れたろう。しかし気を回してくれて本当に助かった。後始末の事までは言っていなかったからな」

「……あの流れで、剣を貸せと言われれば、何が起きるのか、何をすべきかくらい判ります。そうでなければアルフォンス様の騎士団長など務まりません」

「いや、本当にそなたには苦労をかけるな、ははは」

「アルフォンス様!!」

 とうとうエクリティスは足を止めて主君の目を見た。正確には、フードに覆われて見えないのだが、アルフォンスがどんな顔をしているか、エクリティスにはちゃんと分かっていた。

「笑い事ではありません! 私には事情は解りませんが、警告を無視し、相手の首を刎ねるなど、とんでもないものを敵に回してしまったのではありませんか? それも、ブルーブラン公の為に! 分からず屋のブルーブラン公が自滅の道を選ぶのはあの方の責任であって、アルフォンス様がそれを肩代わりする必要はどこにもありません!」

「いや、その、咄嗟に……」

「魔道を用いる敵に対して、どのように対応できるか、私にも自信は持てません。魔道ばかりでなく、グリンサム公殿下に対してしたように、毒殺という手を使ってくるかも知れません。そもそも、その腕のお傷は、いったい何の誓いを立てられたのですか?」

「うむ、大丈夫だ、これは、奴を斬った事で報いを受けるなら、それはわたしのみが受け、家族にも誰にも犠牲が及ばぬように、という誓いだ。エーリクは妻子の命を質にとられ、奴らに逆らえなかったんだ。だから、そうならないように先手を打った。奴らがルルア信者である事には違いないのだから、ルーン公の血の誓いは奴らにも侵せないものだ」

 敢えて自信ありげにアルフォンスは言ってみたが、エクリティスはぴしゃりと、

「何が大丈夫なんですか! そんな事だろうと思いました! 血の誓いを侵せないならば、ルーン公の身に危害を加える事はないのですか? そうじゃないのでしょう?」

「まぁ……それは、奴らが尊ぶのはルルアの娘の化身である神子の血にかかる誇りであって、それを流す事自体は厭わないかも知れないな。わたしが死んでも、ファルシスがいて、血は保たれるのだから……」

「何を他人事のように仰ってるんです! まったく、あなたという方は……!!」

 エクリティスがこんな物言いをするのは久しぶりの事であり、アルフォンスの身を案じて本気で怒っている事の表れだった。アルフォンスはフードの下で目を伏せ、少年の頃に幾度もこんな事があったな、と思い返しながら、

「……済まない。軽率だったかも知れない。だが、リッターの事がなくても、やはり奴らは罰されるべきだったとも思う」

 と応えた。エクリティスは溜息をつき、また歩を進め出した。ルーン公邸の裏門はもう近い。

「済んだ事は戻しようがありません。……そもそも、アルフォンス様が最善と思われてなされた事を私ごときがつべこべ申し上げるべきでないのは判っておりましたのに、申し訳ありません」

「申し訳なくなどない。おまえの気持ちはよく解っているし、有り難い。忌憚なく意見を言って欲しいといつも言っているだろう。頼りにしているんだ。子どもの頃からずっと」

「……身に余るお言葉です」

 エクリティスは俯いた。子どもの頃からずっと。ずっと、己の命などとは比べものにならないくらい大事な大事な主君だと思ってきた。初めて会った時、子ども心に何故かすぐさま、自分はこの人に仕える為に生まれてきたのだ、と感じたものだった。もしも、アルフォンスを護る事が出来ずに、自分だけが生き残るような事になってしまったら、自分は狂ってしまうかも知れない……。

「ひとつお聞きしてもよろしいですか」

「うん?」

「これは、以前の敵と同じ輩だという可能性はあるのでしょうか?」

「……それは何とも判らない。だが、以前には、この者達から狙われる理由は何もなかった筈だ……」

 十代の頃から、アルフォンスは幾度も刺客に襲われた。おおごとにしたくなくて、その殆どをアルフォンスはエクリティスと二人だけで片付けてきた。人を斬る事も、その頃に覚えた。そして結局、その正体は判らないままだった。

「そうですか」

「おまえに話しておく事とそれ以外の事が、まだ頭の中で整理し切れていない。取りあえず休んでから、また話そう」

「そうですね、お疲れも限界でしょう……着きましたよ」

 エクリティスはそっとルーン公邸の裏門を叩いた。既に命を受けていた部下がすぐに二人と台車を門内に入れた。

「長い夜だったな……祝賀の席が何年も前の事のようだ」

 アルフォンスは呟き、フードを外した。

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