10・変事

 ユーリンダが礼儀正しい様子でティラールの二度目の申し込みを受けて踊り始めたのを見て、アルフォンスは子どもたちから離れ、自身の社交をこなす為に中央に向かって歩き出した。今日、王妃が踊ると決まっている相手は、国王以外には、王族の男性と外国からの使節、そしてローズナー女公爵を除いた六人の公爵である。王妃は今、ラングレイ公と踊っている。

「アルフォンス! どこへ行っていたの。あなたが手綱を引いていないから、ルーン家のお姫さまは大層自由気ままに過ごして注目されていた事よ」

 そっと近づいてくるなり、そう囁きかけてきたのは、七公爵の一人、スザナ・ローズナー女公爵だった。兄たちの夭逝によって女ながらに爵位を継いだスザナはアルフォンスより1歳年長だが、艶やかな美しさをまだ充分に備えており、常に凛々しさを保っていた。女性と侮られるのを嫌って磨いた武芸の腕前もなかなかのもので、時には男装で現れる事もあったが、今日は豊かな赤毛を豪奢に結い上げてその瞳の色と同じ深緑の宝石飾りを胸元に垂らし、幾重にもレースを重ねた深紅のドレスという盛装で、威風堂々たる貴婦人そのものである。このスザナは、エーリクと同じように年齢が近い事から、子どもの頃からよく知った仲であった。流石に男女の別があるので十歳近くになると共に遊び戯れる事はなくなったものの、それまでは、彼女はかなりお転婆な性質でもあり、年下のアルフォンスとエーリクを姉貴分として従えて悪戯をするような幼馴染みの間柄であったのだ。アルフォンスとしては、他の公爵のうちではエーリクと同様に信頼のおける相手である。また、ルルア信仰の総本山であるアルマヴィラのルルア大神殿に詣でる際には娘のフィリアを伴ってルーン家の客となる事が多く、フィリアはユーリンダと同年で、穏やかで優しい気性がユーリンダとよく合い、娘同士も熱心に書簡のやり取りをする親友の間柄であった。

 そんな関係であるから、アルフォンスがユーリンダを宮廷に出したがらない理由もユーリンダ自身の性格もよく知っている。フィリアも男勝りのスザナから見ればおっとりしていてやや物足りないのだが、衆目の前でどのように立ち振る舞うのが己の得になるのか計算する術はきちんと教え込んでいる。それに比べてユーリンダは、美しさでは随一であっても、他には善良なくらいしか取り柄のない娘であると前々から秘かにスザナは評価しており、ティラールへの対応も、傍から見ていて呆れていたところであった。自身は宮廷に出仕する事はないにせよ、普通に気の利く娘なら、父や兄の為に、宰相の機嫌を損ねるような振る舞いは絶対に慎む筈である。父親から清い心は受け継いだものの、頭の回転の早さは兄の方へしか行かなかったようだと感じた。

「ありがとう。今、息子から話は聞いたよ。ティラール卿とも話をした」

「宰相閣下ともした方がよいのではなくて? どうせ耳に入るわよ。初めての宮廷でこんな盛大な舞踏会ですもの、あの子も舞い上がってしまったのでしょうけど」

「そうだな」

 言われずとも判っていると思いながら適当に相槌を打つと、スザナは、

「で、エーリクとどこに行っていたのよ?」

 と鋭く突いてきた。これには一瞬返答に迷ったが、彼女に誤魔化しはそうそう通用しないことをよく知っているアルフォンスは軽く溜息をついて、

「参ったな。そんなに人目についただろうか? 元々、ほんの僅かのつもりだったんだが」

 と問い返す。

「目を引く事はたくさんあったから、殆どの人は気がついていないと思うわ」

「わたしが気にするのは、殆どの人以外の人だよ。わたしが、というより、エーリクが、だと思うが」

「エーリクがね……あの顔色の悪さは病なのかしら、とわたくしも心配しているのよ。実はわたくしが、あなたたちが揃っていなくなっているのに気付いたのは、エーリクを目で追っていて、エーリクがあなたに何か囁きかけているところを見たからなのよ。何と言っても皆の注目は陛下ご夫妻ですもの、宰相閣下だって今日はそちらにかかりきり。ただ、ユーリンダがあれだけ関心をひいてしまったから、あなたは何をしているのだろう、と思った者がいてもおかしくはないわね」

「わたしには別段隠し立てせねばならない事はないのだが、エーリクには何か心配事があるようだ。だが、肝心の内容をさっぱり話してくれないのでどうしようもなくてね」

 スザナに対してどこまで話していいものか少し迷ったものの、変に言葉を濁しても却って詮索される結果になるだろうと思い、正直に言ってみる。『隠し立てせねばならない事』という言葉を口にした時、ウルミスに託してきてしまった男の死体が頭をよぎった。エーリクに会いに行った結果、彼が伝えたかったであろう事は謎のままであるのに、男が一人死に、ウルミスと、木陰で様子を見ていた男、恐らくウルミスの副官のノーシュ・バラン、そしてスザナにも何か隠していると疑われるのは、全く良い気分ではなかった。おまけにユーリンダの不作法……スザナの言う通り、後で宰相に詫びを言った方がよいであろう。

 このような事を考えながらアルフォンスはスザナと並んで前方を見ていた。順番が来たら王妃の相手を務めねばならないし、他の婦人に社交としてダンスを申し込むのはその後になるので、それまでは、ただ話をしていればいい。小姓の運んできた盆からとった飲み物を手に、二人の視線は揃って、ブルーブラン公リッターと話しているエーリクに注がれる。何とか微笑を繕っているものの、顔色は相変わらず悪い。傍にはエーリクの妻イサーナ妃が寄り添っている。彼女は色白で中肉中背、格別美しくもないが醜い訳でもない。進んで発言する事は少なく、気の利いた印象を与える事もない。宮廷では影の薄い存在と言える。一族の中から娶ったその妃にエーリクは頭が上がらないという噂だ。イサーナ妃のスカートに隠れるように立って、あくびを噛み殺しているのは、一人息子のシュリクである。二人は結婚後、中々子を授からず、シュリクはまだ8歳である。グリンサム家の為にも、やはりエーリクがこのまま死んでよい訳がない。

「明日、エーリクを見舞ってみようと思う。彼が領地に帰ってしまっては話を聞くのも難しいからね。今日まではまさに分刻みの忙しさだったが、明日なら時間が出来るだろう」

「そうね、わたくしも同行させて頂こうかしら? 何と言っても大切な幼馴染みですものね」

「そうだね、ではそう願おうか」

 エーリクは二人で話をする事を人に知られるのを避けたがっている。だがスザナが同行してくれるなら、人に知れても不自然さはないだろう。最も、どこまで話をしてくれるかはさっぱり分からないが……。

 国王夫妻がそれぞれ定められた相手と順番に踊ってゆくのを眺めながら、二人は今日の日の盛会を讃え、新王の治世で何がどう変わるのか、対外的な事を含めて政治的な話を交わした。二人は共に宮廷内で要職を担う公爵であり、自分の身の廻りや領地の事だけを考えていればよい身分ではないのだ。アルフォンスは時々ちらりと娘に目をやったが、その後は特におかしな事もなく、申し込んできた相手と順番に踊ってきちんと社交をこなしている様子である。息子については何も心配してはいない。


 やがて、エーリクが王妃と踊る番が来て、彼は進み出て跪き、若い王妃の右手を押し戴いた。ゆったりとした曲調のワルツが始まって、比較的初歩のステップを二人は踏み始めた。だが、エーリクの足取りは、酔った人のように不確かなものだった。見つめているアルフォンスの胸に不吉な予感が冷たく走った。周囲の人も異変に感づいたようでひそひそと囁き合っている。イサーナ妃がハンカチーフをぎゅっと握り締めるのが視界の隅に入った。

「グリンサム公?」

 整った眉を僅かに動かして王妃がパートナーに話しかけたがエーリクは返事をしない。ただ荒い息遣いだけが王妃の耳に伝わった。エーリクは王妃をターンさせるところで足をもつらせ、無意識に王妃の美しい金紗のドレスの裾を掴みながらそのまま転倒した。

「エーリク!」

 尋常でない事態が起こった事に気づいた他の者たちより一歩早くアルフォンスは床に伏して痙攣している友人に駆け寄り助け起こした。蒼ざめて震えている王妃を王が素早くその場から引き離して人波の向こうへ女官たちの手を借りて連れて行った。

「エーリク! しっかりするんだ!」

「ア……アルフォ……」

 蒼白な顔にびっしょりと汗を滲ませたエーリクはそのまま大きく身体を折って吐血した。

「早く、早く医者を呼べ!」

 既に何人かの者がその為に駆け去る姿が見えたが、それでもアルフォンスはそう叫ばずにはいられなかった。

「あなた……!」

 呻くような声が耳の傍で聞こえた。イサーナ妃だった。だが、エーリクのうつろな瞳は、妻でなくアルフォンスの方を向いていた。

「すま……すまない……」

「いいから、黙って、すぐに医師が来るからな。大丈夫だから」

 言葉とは裏腹に、アルフォンスは腕に抱えた友人の呼吸や体温から、その魂がルルアに召されようとしているのを悟りつつあった。不安を少しでも軽減させようとかけた言葉だが、しかしエーリク自身もそれをもう悟っているようだった。

「嘘だった」

 大きな吐息と共に、掠れた声が漏れた。

「死ぬのはいやだ……だが、ほんとうに、きみが……」

「なんだ、何を言いたいんだ?」

 アルフォンスは吐血にまみれたエーリクの口元に耳を寄せた。末期の言葉を聞いてやらねばと思ったからである。だが、エーリクにはもう、思いを語る力が残されていなかった。彼はただ、こういうのがやっとだった。

「きみが、ルルアの……」

 そうして、ほうっと息をつき、他の誰にも聞き取れない程小さく、ありがとう、と言った。そうして、ぶるっと身体を震わせ、そのままこときれた。

「エーリク!!」

 この時、医師と共に担架が運ばれてきた。エーリクの身体はアルフォンスの腕から離されて担架に乗せられた。彼が既に呼吸をしていない事は、間近にいる者には明らかに見てとれたが、この祝賀の席で公爵が死ぬなどあってはならぬ事。音楽も止み、誰もが息を潜める中で、エーリクは急の病人として運び出されて行った。ただ一人、イサーナ妃が「ああ、あなた、お気を確かに!!」と叫ぶ声だけが、広いアデットホールにひときわ大きく響き渡っていた。シュリク公子はぶるぶる震えながら、母親にしがみついていた。

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