14・その日の朝

 刻は今朝方に戻る。

 伯爵妃が起きてこないというので、カルシスは腹を立てていた。自分も遅寝をしていたが、同衾していた側女を邪魔そうに追い払うと、上半身裸のまま、妻の室へ早足で向かった。二日酔いでまだぐらぐらする頭の中で、妻の反抗に対してどのような罰を加えるか、そればかりを考えていた。

「シルヴィア! ここを開けろ! 起きているんだろうが!」

 扉の前で怒鳴り、扉を叩き、蹴飛ばしたが、中からはしっかりと施錠され、ことりとも物音はしない。

「カルシスさま、伯爵妃様はお具合が悪いのかも知れません」

 傍からおずおずと執事が言ったが、カルシスはまったく取り合わない。

「そんな訳あるか。昨夜も元気そうにしていたじゃないか。奴め、アトラウスを連れ戻させないよう、何か企んで閉じこもっているんだろう。おい、シルヴィア! そんな事をしても無駄だからな! あのがきめ、うまいものを食わせてもらって楽しんだ分、きつい折檻をくれてやる。おまえもだ、シルヴィア! さっさと観念して出てこい!」

「は、伯爵さま、どうかお手柔らかに……」

「うるさい!」

 だが、この怒号に対しても、何の反応もない。

「おい、斧を持ってこい。鍵を叩き壊してやる!」

 猛り狂ったカルシスに誰も逆らえない。斧が運ばれてきて、侍女たちが遠巻きに怖々見守る中、扉の鍵が砕けて外れた。

「どうだ、シルヴィア!」

 勝ち誇って酷薄な笑いを浮かべ、怯えた妻の顔を想像しながら扉を開け放ったカルシスの目に飛び込んできたのは、壁にまで血飛沫の飛び散った、凄惨な自害の場。血の海の中に突っ伏した妻の傍らには血塗れの小刀が転がっており、その右手は肘の辺りまでも朱に染まっている。自ら胸を突いたのだと誰にでも見てとれた。

「な……」

 さすがにカルシスも言葉が出なかった。

「こ、これは!」

 背後から室の様子を見た執事も顔色を変えた。明らかに絶命しているシルヴィアと、その傍らに光る黄金色の紙片……。

「どうした、シルヴィア、え? きさま……なにをしたんだ?」

 さっきまでの勢いは消え失せ、青ざめたカルシスはシルヴィアに近寄ろうとした。その時、執事が叫んだ。

「いけません、カルシスさま!」

 その叫びもカルシスの耳には入らなかったようで、彼はまた一歩踏み出したので、執事は主人の手をとって制止した。不思議なものを見るように、カルシスは、これまで逆らった事のない忠実な執事の顔を見た。

「お忘れですか、昨夜のシルヴィアさまのお言葉を。何にも手をつけず、大神官さまをお呼びになるように、と仰ったではないですか。シルヴィアさまはきっと、命を媒介に魔道を行われたのです。あの光は魔道の光ではございませんか。どうかこのロータスにお命じ下さいませ。すぐに大神官さまの所へ行って参ります」

 涙を浮かべ、声を上ずらせた執事の様子に呑まれたカルシスはようやく、これが現実に起こっている事なのだと悟り始めた。

「あ……ああ……」

 執事の言葉が一語一語頭に染みこんでくるのに、やや時間を要したが、カルシスはようやくそれですべてを思い出した。まさか、こんな事をするつもりだったなど、あの時は考えもしなかった。

「行ってくれ。大神官を呼んでくれ」

 泣きそうな声でカルシスは執事に言った。執事は素早く駆けてゆく。カルシスはよろよろと扉の外に出て、両の手で顔を覆いそのまま床に座り込んだ。

「死んだのか。おまえ……シルヴィア。なぜだ……なぜ、こんな……」


 呆然として長いような短いような刻が過ぎ、大神官ダルシオンがやって来た。実の所、ダルシオンは、この日にカルシス邸で変事が起こる事をある程度予知しており、時間を空けていたのだ。

 大神官ダルシオン・ヴィーンはアルフォンスより二歳年長の25歳。濃い黄金色の目は常に鷹のように鋭い光を放ち、自他共に対して厳しい人物として知られる。シルヴィアのように心を解いて従う者よりも、ただ畏怖によって敬う者の方が遙かに多い。そして、滅多にその本心を窺わせるような言動はなかった。無能な者や努力を怠る者は人とも思わぬように振る舞い、己を捨て、ただルルアへの信仰の為にと、その思いが人の形となったような人物であると思われていた。

 ヴィーン本家の次男でカレリンダの従兄にあたる。アルフォンスが公爵位を継いだのと前後して大神官となった。三歳で既にその魔力の高さから次期大神官継承者と認められていたとは言え、異例の若さでその地位に就いたと言える。アルフォンスが父公爵の病ゆえに若年にしてルーン公となったのとは違い、先の大神官はまだ健在だった。ダルシオンは聖炎の神子たるカレリンダがルーン家に嫁ぐ事に最後まで反対を貫き通した者であり、結果的にそれを許した先の大神官を不甲斐なしと見なし宗教論争を挑んで打ち破り、譲位を迫ったという逸話を持っているのだ。当然ながら、アルフォンスとの関係は良好とは言えなかった。その弟の愚かなカルシスなど、普段はろくに眼中にもないという風である。

 乱れたなりのまま座り込んでろくに挨拶もしないカルシスに眉を顰めつつ、室内の様子を一瞥したダルシオンは、無表情のまま部屋に入り、かつての愛弟子の変わり果てた姿を見下ろした。五年ぶりにまみえたシルヴィアは、痩せ衰え、黄金色の髪を振り乱し、細い腕を投げ出して固い床の上、自ら流した血のなかに冷たく俯せている。彼の知る、屈託なく笑っていたあかるい少女の面影はどこにもなく、狂気と紙一重とさえとれる母性愛と自己満足の笑みが、動かないくちびるの上に薄く貼り付いたまま。

「哀れな……」

 ただ、それだけが、その時彼が発した哀惜の言葉だった。彼は、法衣の裾が血に汚れる事も気にせずに、シルヴィアの屍の傍に屈み、黄金色に輝く紙片を手にした。暫しの沈黙の後、大神官はカルシスに向かって言った。

「こういう事だったのか。カルシス、なんと愚かな。そなたの息子は黄金色を持たずに生まれ、その為にそなたは我が子と思わなかったのだな。見よ、この紙片を。この黄金色の輝きは、まさしくルルアの神託と同じ重みを持つ。アトラウスはそなたの実子であると、シルヴィアは自らの心の臓を抉って証明したのだ」

「な……んだと?」

 カルシスには、ダルシオンの言葉の意味がすぐに全て飲み込めた訳ではない。ルルアの神託と妻の死と、何の関係があるのか理解できなかった。ただ、最後の言葉だけが耳に残った。アトラウスが彼の実子であると証明する為にシルヴィアが自害したのだ、と。

「あいつが、おれのがき? そんな、出鱈目だ!」

「カルシス! ルルアの神託に等しく疑いないと言うわたしの言葉を否定するのか!」

「あんたが! あんたが言ったんじゃないか! 黒髪のがきは決してルーン家には生まれないと!」

「わたしが? いつ?」

「がきが生まれてすぐ……五年前だ。あんたのもとを訪ねて、世間話として、そういう可能性があるかと聞いたら、あんたはないと言ったじゃないか! だから、だからおれは!」

「覚えがないな」

 ダルシオンは突き放すように言う。

「そんな世間話など、いちいち記憶しておらぬ。そなたは正直に事情を述べてわたしに鑑定と系図の調査を依頼すればよかったのだ。そうすれば、シルヴィアにこんな事をさせずとも、真実を明らかに出来たかも知れぬ」

「なんだと、おれのせいだって言うのか! おれは、あんたがああ言ったから!」

「汚い言葉など聞きたくない。そうだ、そなたのせいだ。そなたのせいでシルヴィアは、貞淑で優しいシルヴィアは、このように非業の死を遂げねばならなかったのだ」

「なんだと!」

 カルシスは激怒し、酒臭い息を吐きながらダルシオンに掴みかかろうとする。

「カルシスさま! 大神官さまですぞ! お止め下さい!」

 執事がカルシスを羽交い締めにして必死に止める。ダルシオンは、カルシスの怒りになど何ほども心動かされぬ様子で、執事に言う。

「扉を閉めておいてくれ。まだ詳しい鑑定が必要だ。終えるまで、室内の何も動かしてはならぬ」

「大神官さま! せめて、シルヴィアさまのご遺体を寝台へ……」

「ならぬ」

 執事の哀願にもまったく耳を貸さずにそう言うと、ダルシオンは自ら扉を閉めた。


 それから、少し興奮の冷めたカルシスはアトラウスを迎えに行くと言い出して、ことが落ち着いてからにした方が、という執事の進言を聞き入れず……結果、アトラウスは、母の気遣いの甲斐もなく、全てを見てしまうことになるのであった。

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