さんざめく者共 第7話

 水面に浮かぶウルマは、以前見た時と同じ幼い笑顔を湛えていが、口調は厳しいものだった。

「タナソツームを創るなと言われるのね。でも、それは出来ない相談です。我が兄オステオスは、自らが犯した罪を認める時がきたのですもの。その為のタナソツームです」

──カスケードが狩りを始めたんだ。カスケードはタナソツームしか狩らないって言ったけど。ぼくは、やめさせたいんだ。誰も消えて欲しくないもの。だから──カスケードが狩りを止めてくれないなら、あとはウルマにタナソツームを創らないように頼むしかないんだ。

 ケリーは固く口を結び、自分の意志が固いことを示した。

「ガーデンは壊れるわ」

 ウルマはよく通る声で告げた。

「オステオスの過ちは元通りにはならない。永遠に繰り返し巡るひとつの環? ふふ。そんなものが永遠ですって。馬鹿げているわ。──ねえ、ケリー?」

 ウルマの笑顔が一変した。目を見開き、鼻にかけた声で問う。

「カスケードが好き?」

 幼く見えた彼女の小さな口唇はぬらぬらと光り、それをなぞるように舌なめずりする。

 ケリーは言いようのない悪寒を感じ、ごくりと唾を飲み込んだ。

「ねえ。カスケードが好き?」とウルマは執拗に訊いてくる。

 ケリーは答えに迷った。ウルマが知りたいのは何なのだろう。自分の胸の内につかえたものが、好きという代物だったとして、それをウルマが知ったところでどうなるのだろう。

 戸惑いを隠せないケリーのその様子に、焦れたのか、ウルマは次に甘い声を出した。

「彼をいつまでも見つめていたい? 彼の傍にいたい? 彼に触れたい? 彼のすべてが欲しい? ほうら、迷っていたりしたらどこかの誰かに邪魔されて、奪われてしまうかもしれないわよ」

──どこかの……誰か……? フィ……デリオ……のこと?

 ケリーの戸惑いは増すばかりで、ウルマに会いに来た、本来の目的を見失っていた。

「奪われる前に手に入れなさい。その手の中に、カスケードを握り込んでしまいなさい。そうすれば、彼はずうっとケリーのもの。誰にも奪われないし、どこにも行かない。私だけの大切な人──」

 うっとりとした顔でウルマは囁いた。その口角から唾液がつうっと落ちる。ケリーはその様に恐怖を覚えた。

 普通じゃないとケリーは直感でそう感じた。

──ぼくはカスケードをずうっと見ていたいとも思ったし、傍にいられるなら傍にいたい。触れてもみたい。ずうっとぼくだけのカスケードでいてくれるのならどんなに幸せかとも思うよ。でも、ぼくは……そうじゃない。

 カスケードと同じものを見て、一緒に笑ったりしたいんだ。カスケードがぼくといて一緒に笑ってくれれば……いいんだ。カスケードは本当に柔らかな笑顔を……ぼくに……見せてくれる……から。

 ケリーの瞳から涙が溢れる。溢れて満たされるのは、その胸中も同じだった。押さえられない想いが、込み上げる涙と一緒に溢れ出した。

 ウルマがどういう素性で、こんな場所で囚われの身になっているのかは知らない。しかしはっきりと断言できるのは、ケリーとはけして理解し合えないということだ。

 たとえ、心から愛する人がいたという共通点を持っていたとしても──。

 一頻り泣いた後、ケリーはその涙を拭い、ウルマの元を黙って去った。


 狂乱は静かにやってくる。俺にも、お前にも。


 ケリーの脳裏にいつかのカスケードのセリフが蘇る。

 果たして今がその時なのだろうか。

 諦めとも恐怖とも取れるその言葉が、ケリーを奮い立たせる。

 カスケードはぜったいにぼくが止めてみせる! 誰も死なせない!


 遠くに眺めるフィレ山脈は、しらじらと明け始めた紺色の空に浮かび上がり、やがて訪れる金色の縁取りはゆっくりとした足取りでガーデンを覆い尽くした。

 ケリーは神苑の剣を呼び出し、決意の証として、その漆黒の長い髪をばさりと切り落とした。まるでフィデリオとの決別にも取れるが、それは雛鳥の巣立ちのようなものだ。

 短くなった髪をかき上げ、ケリーは夜明けの空へと飛び立った。



 オステオスは、今までになく取り乱していた。額にはうっすらと汗を滲ませ、なにやらぶつぶつと呟いている。

 ステムは主の命令通り、ガーデンへと急ぎ戻り、オステオスにウルマの一件を報告したところだった。すると、取り乱したオステオスは、ステムに退室を促すことも忘れ、焦点も定まらない状態に陥ったのだ。

「オステオスさま? 私はこれで退室してよろしいですか?」

 とりあえず尋ねてみる。

 オステオスは驚いた様子で、大袈裟なほど身体をびくつかせ、

「あ、ああ。下がっていい」

 ステムは小さく会釈をし、部屋を出た。

 閉じかけた扉の向こうにステムが見たのは、頭を抱えたオステオスが激しく机を殴りつけているところだった。

 オステオスの扉が静かに閉じた。

 この日を境に、オステオスは神殿の奥に引き篭もってしまった。



「フィデリオの報告をどう見ますか?」

 パンディオンは椅子に腰掛けながら、伏目がちに訊いた。

「ステムから聞いた時は俄かには信じられなかったが、オステオスのあの様子と、フィデリオの最終報告を見れば、それが事実だということは否めないだろう」

 ムスカリがそれに答えた。

「半月も篭ったままでは身体にも障るでしょうに。オステオスは姿を見せるつもりはないのでしょうか」

 マウリーンの口唇は、また色を失っている。ただでさえ色素の薄い肌の色が、一段と白さを増してしまっていた。

「しかし……。ウルマはなにを考えてタナソツームなどを創っているのでしょう。第一、彼女にそんな能力があったこと自体が驚きです」

「ウルマはオステオスの妹で愛を司っていたのだから、能力としては存在して然りと私は考えるが?」

「私は……。彼女こそが命を芽吹かせる正当な術者だと思っています」

 そう告げるマウリーンの声は僅かに震えている。それでも彼女は言葉を続けた。

「オステオスがそれを司ること自体が間違っていたのです。いいえ。──いいえ。間違っていたのは私たちも同じこと。神ではない私たちは、所詮ただの魔法使いなのです。少しばかり力が長けていたからと、夢を見たのがそもそもの間違いなのですから……」

「今更なにを言う!」

 ムスカリが声を荒げて言った。

「第一、私たちは一度たりとも自らを神だなどと名乗ってはいないではないか。私たちを神だと崇め始めたのは、人々の方だった。私たちは純粋に平和な国を築こうと集まったのじゃないのか。その為にこの地に赴いたのじゃないのか?」

 ムスカリは荒い溜息を一つ吐くと、視線を窓の外へ向けた。

 パンディオンが静かに口を開いた。

「国を今まで何度創ってきたか。その度に、彼らは私たちを神と崇めた。──マウリーンの言う通りです。私たちは神などではありません。神になれるわけもないのです。私たちが神になるのではないのですよ。彼らが神を創り上げるのです。私たちが彼らを創ったように、彼らもまた神を創り上げるのですよ。それが私たちだったというだけ……」

 パンディオンは席を立つと、ムスカリが見つめていた窓辺に立ち、窓を開け放った。外からは鳥のさえずりが聞こえ、入り込んでくる風には木々の緑の匂いがたっぷりと含まれている。パンディオンは、すうっと外気を思い切り吸い込むと、

「私たちの理想の国を創る為にここへやって来た。幸せは幾度も巡り、争いも悲しみもない。歌と花と風と……。それらに満ちた国を求めて私たちは、苦労してここを探し当てた。

 ほとんど伝承と化していた私たちの理想郷……。神苑の剣と月読の剣の噂を聞かなければ、私たちの旅は徒労に終わったでしょう」

「だが、その国は遺跡をほんの少し残す程度でしかなかった」

「あの時のオステオスの落胆ぶりときたら、なかったですね。いつの間に彼は……あんな風になってしまったのでしょうか。少なくともこの地に来たばかりの彼は、ああではなかった」

「ウルマを失ったから」

 マウリーンの声はまだ震えている。弱弱しく、

「大切なウルマを失ってから、オステオスはおかしくなってしまった。愛や情をことごとく拒むようになったのもその頃からでした。神を騙った罰が、今、下されようとしているのかもしれません」

「騙っていたわけではない! 罰など下ろうはずがない。……ゴホッ」

 ムスカリは興奮の余り咳き込んだ。パンディオンはマウリーンと視線を合わせた後、ムスカリに一瞥をくれ、

「あの時の救いもカスケードでした。そして、また彼に救われようとしている。ウルマが創り出すタナソツームからこのガーデンをね」

「カスケードの持つ月読とケリーが持つ神苑の剣が交わると、いったいどうなるのでしょうか」

 マウリーンの問い掛けに、パンディオンとムスカリは顔を見合わせた。

「わからない。としか言いようがない。このような状況はガーデンを創って以来、初めてのことなのですからね。ただ言えるのは、月読で狩られてしまったら、ケリーは消滅するということ。そして神苑は元の持ち主であるカスケードの元へ帰るということだけです」

 マウリーンが、ふと思いついたような表情を見せた。

「ケリーはカスケードと剣を交えようとするでしょうか?」

 そして三人が三人とも顔を見合わせた。 

「それはどうだろう。なにせ、狩り初めの晩から行方知れずになっているのだからね。第一、タナソツームを知っているかどうかも疑わしい」

 落ち着きを取り戻したムスカリの声音はいつも通りだった。

 やはり、とパンディオンが言葉を紡ぎ始めた。

「やはり私たちが国を、世界を創り出すのは不可能だったのでしょうか」

 マウリーンとムスカリは押し黙る。

「魂を吹き込む魔法は──所詮、ただの魔法に過ぎないということなのでしょうか」

 パンディオンは空を見上げた。二羽の雲雀が絡み合うように、寄り添うように飛んでいる。

「カスケードのあの翼の美しさに憧れて、フィデリオとオルレカはそれを模して創ったのでしたね。そんなことですら、昨日のことのように思い出されます」

 窓辺に植わっている木の梢から、チチチ、と小鳥のさえずりが聞こえる。パンディオンは悲しげで柔らかな笑みを浮かべ、静かに窓を閉じた。

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