廻りだした環 第5話

 その頃──。マウリーンの神殿では忘却の儀式の準備が着々と進められていた。歴代のオルレカがそうであったように、ケリーもまた己の罪を嘆くだろうことは神々の間でも予想されていた。

 まして、今回は狩り初めの夜に家族とも言えるルードとサムを狩ることを告げられていたフィデリオは、オステオスにもその旨を報告していた。

 出来得るならば短命は避けたいオステオスは思い切った策に出た。嫌がるマウリーンを説き伏せ、前任のオルレカに試験的に行っていた忘却の儀式を行うことを指示したのだった。



 カサリと枯葉が乾いた音を立てた。

 木に手を掛け倒木を跨いで茂みを進む。鬱蒼と生い茂るそれらを潜り抜けると、ひやりとした空気が頬を掠めていく。

 水鳥が驚いて羽根をばたつかせ、静寂を破る。一羽が飛び立つと続いて群れ全体が一斉に飛び立つ。水鳥のはばたきは、靄をすうっと薄れさせていった。

 現れたのは、湖と呼ぶには少しおこがましい様な池である。

 靄の向こうに朝日が朧げに浮かんでいる。靄のお陰で朝日の眩しさが幾分和らぎ、カスケードは池の中央へ視線を走らせた。

 もうすぐ二年かとカスケードが呟いた。携えた剣を外し、どっかりと朝露に湿った草原に腰を下ろした。

「俺にはたった二年だが、貴女方には永遠とも思える長さなのだろうな」

 池には、戻り始めた数羽の水鳥たちが羽根を広げ寛ぎ、餌を啄ばみ始めていた。辺りは獣の声ひとつなく静けさも水鳥と同じく戻って来たようだ。

 花狩りに向かうケリーの姿を昨夜、漆黒の夜の中で垣間見た。心許無いその姿が目に焼きついていて、カスケードは首を振り、正義などないのだと一人ごちた。

 ふと、何故ここに来たのだろうと思い立つ。

 ケリーに懐かれる不思議を思った時、何故だか彼らのことが思い起こされたのだ。

 二年前に引き裂かれた彼らのことを。

「お前の想いに応えなかったのが善いことだったのか悪いことだったのか。未だに俺には答えが出せていない。お前を殺したことも俺には善悪の判断がつけないでいる。──それが正直な気持ちだ」

 お前は幸福だったか──?

 カスケードは二年前のことを思い返した。



 ケリーの前任のオルレカは、カスケードが探し出した花が選出された。ツインカラーのアマリリスの彼は、感情表現が乏しく、それ故に常に笑顔だった。

 カスケードが意識してそうしたように、一定の年齢までは自身の意志を持つことは無かった。それはまるで、過去にも未来にも興味を持たない機械のようで──。

 だがそれはカスケードが望むべくそうしたのだ。

 完璧だった。

 フィデリオにどれほど非難されようとも、カスケードがその姿勢を崩すことは一度たりともなかった。

 見るべきところを間違えていたカスケードは、マリールーの心に微妙な変化が起こり始めたのを見逃していた。

 時計のように正確で、それが狂う予定はどこにもなかったそれは、一人の女神と出会うことによって狂っていった。

 屋敷から火急の呼び戻しがガーデンに掛かったのは、マリールーがまだオルレカの任命を受ける少し前のことだった。

 屋敷に戻ったカスケードの前に現れたのは、肩口から右腕全体を紫色に変色させ、血の気を失った顔のマリールーだった。

「壊死している……」

 カスケードは言葉を失った。

 屋敷の者たちも同様に言葉を失う。

 固く口を閉ざすマリールーの心を解き解す為に人払いをし、とりあえず患部を診る為にと彼の衣服を脱がせた。そしてそれはもう一度カスケードの言葉を失う結果となる。

 右の肩口を麻布で固く縛りつけているのだ。いつからしているのかと問えば、マリールーはひと月くらいだと答える。どういうことなのかと又問うと、マリールーは唇を噛み、カスケードの気持ちを確かめたかったのだと答えた。

 カスケードには彼の行動の理屈が理解できなかった。自分の気持ちを確かめてどういうと言うのだろう。そんなことの為に彼は自らの腕を腐らせたのか。腕を失ってまで確かめたいカスケードの気持ちとは何なのか。

「それで確かめられたのか」

 麻布を外し、患部を消毒する。ーーが、やはり壊死している。これはもう諦めるしかないだろう。

 マリールーは痛みに少しだけ反応したが、笑顔であることに変わりはなかった。

「カスケードが僕を愛していないことがわかった」

「愛……?」

 カスケードは耳を疑った。機械人形のように育てたはずのマリールーの口から出た言葉が愛などという、およそカスケードには不釣合いな言葉だったからだ。

「僕を愛して僕だけを見て。そうしていたら僕の腕は腐らなかった。僕はいつもカスケードを見ていたのに。僕は──僕の最後の賭けに負けたんだ」

 だからその代償を払うんだと、マリールーは言葉を続けた。

 カスケードが腕を切り落としてと、変わらない笑顔のままマリールーは言う。

 確かにこの腕では切り落とすほかないだろう。今さら診療所に担ぎ込んだところで、医者の見立ても大差あるまい。

 だがそれを医者ではなくカスケードにしろと言うのだ。それも「カスケードのその剣で」とマリールーはカスケードの剣を指した。

 カスケードは柄を握り締めた。

「カスケードは愛もなにもかもを捨てた翼人だから出来るでしょう。だってウルマが言っていたもの。簡単でしょう? 愛してもいない僕の腕を切り落とすことなんて、造作もないことじゃない」

 こんなセリフを吐く時でも、マリールーは笑顔を崩さない。

「お前はオルレカになる運命だからだ。よけいな感情に囚われるとお前自身が苦しむことになる。そんな戯言に付き合う謂れはない」

 カスケードは剣を抜いた。

 本来この剣はこういうことに使用する代物ではなかったが、マリールーの望みをせめての酬いと叶えてやろうというのだ。

 このままでいいかとカスケードがその覚悟を尋けば、マリールーは真っ直ぐこちらを見据え、構わないと答える。

 カスケードが振り下ろした一閃の元に、マリールーの右腕は宙を舞い、カスケードの足元に転げ落ちた。痛みで崩れ折れたマリールーの髪を噴き出す鮮血が真っ赤に染め上げ、夕日のように黄金色に輝いていた彼の髪がゆっくりと床へ投げ出された。

 血に染まる絨毯の上に倒れ込んだマリールーの瞳に、止血の処理に急ぐカスケードが映る。

 剣は、カスケードの足元で鞘に収められないまま無造作に置かれていた。刃には紛う方ない己の血が滴っている。

 僕の想いは戯言なのかなとマリールーは消え入りそうな声で呟いた。その声はカスケードの耳にも届いていたが、彼はなにも答えなかった。

 カスケードに抱え上げられ、幾重にも巻かれた布を通しても尚、滲み出てくる血が彼の腕を紅く染め上げていく。

 マリールーはその後、隻腕のオルレカとしてその剣の腕を振るうこととなる。

 そして彼に愛を説いた女神、ウルマと恋に落ちるのだ。

 ガーデンを逃げ出した二人はこの池まで辿り着いたが追っ手も追撃の手を緩めるわけもなく、この地で夜明けを待っていた二人はオステオスに捕らえられてしまった。

 この地に降り立った神々の一人でもあったウルマは、愛を司り、そしてオステオスの妹神でもあった。

 オステオスの激情に触れたウルマは、兄の愛故にこの池の水底深く、今なお、鎖に繋がれたまま封印されている。

 そしてカスケードは自らの手で、育て上げたマリールーの命の花を月読の剣によって散らせたのだ。

 あの時のマリールーの瞳の意味を、未だに理解できていない。

 睨み据えた恨みがましい瞳だと思いますか、とマリールーは囁くように言った。恨まれても致し方ないことだとカスケードは思ったが、どこか胸の内がその答えを拒んだ。

 マリールーは悟りを開いた瞳だとでも言いますか、とも囁いた。それも違うと思った。彼が悟りを開いたのではなく、カスケードの罪を諭しているように思えたのだ。

 諭した上でその罪を赦す。

 だが真実は闇の中だ。マリールーはそれを胸に抱いたまま瞳を閉じ、その魂は月読の中へと吸収されたのだから……。

 カスケード自身が赦されたかったのではないのか。そう信じ込みたいだけなのではないのか。カスケードはわからない。マリールーは命を絶たれたのだ。月読の剣は、再生さえも絶つことができる唯一無二の剣なのだ。

 マリールーは黙して死んだ。

 カスケードは己の信じた正義が揺らぐのを感じたが、それは赦されぬ。マリールーはその名の下に粛清されたのだ。揺らぐことこそ間違いである。

 マリールーとウルマは今も離れ離れだ。

 今さら幸福だったのかとマリールーに問うのは酷というものだろう。やはりカスケードがそう信じたいだけなのかもしれなかった。

 愛を拒んだのは誠だったのか。否、マリールーを愛していたのか。

 いずれにしてももう遅い。

 ウルマは今もこの池の水底で鎖に繋がれたままであるし、マリールーに到っては月読の剣の、闇の中へと落ちてしまったのだから。

 結局よけいな感情は排斥するべきなのだという結論に落ち着く。なにも思わなければ、なにも感じなければ、苦しむことも悲しむこともないのだ。そう──あの時に誓ったのだから。

 池の靄の方から水鳥のものではない水音が起こり、カスケードは音の方へ意識を集中させる。

 人の気配だった。

 霞んだ朝日を背にして、風によって分けられた靄から現れたのはケリーだった。

 二対の羽根の内の一対は、折れて骨が剥き出しになっていて、そこから滴る血が水面を紅く染めている。色を失った顔は酷いもので暗い瞳は焦点がまるで合っておらず、ふらふらとたゆたうように歩くその姿はさながら亡霊のようだ。

 カスケードは咄嗟のことで、剣を置き去りにしたままケリーの元へと走り寄った。身体を支え岸へと上げてやる。草むらに横にしてやり、外傷が他にないか確かめた。どうやら翼以外に怪我はないようだ。

「村ひとつ殲滅するのにどうしてこんな大怪我をするんだ」

 折れたままの翼を脱いだ上着で包むと、吐き捨てるように言う。

 意識があるのかないのか。ケリーはカスケードに縋りついたが、瞳に色は戻ってこない。

 ケリーを抱え上げたカスケードは、怪我の具合よりもケリーのこの様子に重きを置いた。理屈ではなく、今、ケリーをガーデンに連れて戻るのは得策ではないと判断したのだ。

 池の近くにウルマの別荘があったことを思い出し、ケリーをそこへ連れて行く決心をする。

 ケリーの血が滲んでカスケードを紅く染めた。

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