素晴らしきこの世界
雲のまばらな青い空。その下には、無数の高層ビルが広がっている。そんな景色を見渡せるビルの屋上で、一人の男が悪魔との契約に臨んでいた。
「お前の願いは、異世界に行くこと。本当にこれで間違いないな?」
悪魔が3度目の確認をした。
「ああ、そうだ。間違いない」
男は、はっきりとそう答えた。
「全く時代は変わったな。昔は、お前のように自殺しようとしている人間に契約を持ちかけたら、金とか女とか権力とか望んだんだが」
(そんなものは、異世界に転生すりゃ簡単に手に入るからな。チートスキルで無双して、英雄になるもよし。こっちの世界の知識を活かして、料理店を開くもよし。ゴブリンを殺しまくって、ストレス発散するもよし。俺は、向こうにいったら、美少女に囲まれながら、スローライフを送ってやるぜ)
いまひとつ納得出来ないという顔をした悪魔とは対照的に、男は自らの未来予想図を思い浮かべ、ニヤニヤしていた。
「しかし、本当にいいのか?異世界なんてこの世界とあんま変わらんもんだぞ。それに別の世界に行っても、自分自身が変わるわけじゃないんだぞ。あと、契約の代償として、いずれあんたの魂をもらうからな」
「どうせ俺は死ぬつもりだったんだ。魂なんかくれてやるよ」
「では、最後にもう一度、確認するぞ。お前の願いは、異世界に行くこと。そして、契約の代価として、俺はお前が死んだ時にその魂を回収する。これでいいか?」
「ああ、構わない」
「では、契約成立だ。お前をこれから異世界に連れて行くぞ。ちょっとまぶしいがこらえてくれ」
そう言い終えた瞬間、すさまじい閃光が発せられる。思わず目をつぶる男。同時に、辺りを凄まじい暴風が吹き荒れる。
(ああ、俺は本当に異世界に飛ばされるのだ。魔法と美少女に溢れた素晴らしい世界へ!)
男は、これまでの人生をただ無気力に生きてきた。失敗したり、何かに負けたりしても、別に悔しいとは思わなかった。何かに本気で取り組んだことなど、ほとんど無かった。そして、気が付いたら35歳のニートになっていた。
自殺しようとした理由も、どうしようも無くなった自分の人生に絶望して、生きるのが面倒臭くなったからだ。
(俺はこの世界じゃ、ダメ人間だった。でも、異世界に行ったら、思う存分人生を楽しんでやるのだ。【異世界に転生したら、女の子にモテまくった35歳独身無職】の主人公みたいに!)
好きなアニメの主人公に自分自身を重ね合わせて、不気味に笑う男。その脳内には、すでに数多くの美少女に囲まれる己の姿が浮かんでいた。
風と光が止んだ。ゆっくりと、その目を開く男。
だが、期待に胸を膨らませていた男の目に映ったのは、何も変わらない光景だった。そびえたつ高層ビルの群れ、その上に広がる青い空は雲一つなく、この世のものとは思えないほど澄み切っている。
ただ、唯一違うのは、あの悪魔がどこにも見当たらないことだ。
「何てことだ、あいつ、俺をだましやがったのか!」
男は、思わずそう叫んだ。自分をだました悪魔への激しい怒りが彼の心の中に沸き起こった。
(悪魔の奴め、こうすれば俺が絶望のあまり自殺して、すぐに魂が手に入るとでも、思ったのか! クソっ、こうなったら何としてでも生き抜いてやるぜ)
この時、男は生きることに対して、強い執着を感じていた。彼は、もはや先程の人生に絶望して自殺しようとした人間では無かった。
男は35年の人生で初めて、今この瞬間を生きることに必死だった。
彼の人生は、確かに変わったのだ。
「さて、あいつが素晴らしいこの世界でどんな風に生き抜くのか、じっくり拝見するとしようか」
悪魔は、遠く離れた高層ビルの屋上から、自分の願いが叶ったことにまだ気づいていない男の姿を、楽しげに見つめていた。
その横では、大型犬くらいの小さなドラゴンが、溜息をつくかのように、軽く炎を吐いていた。
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