5 迷探偵と白金の騎士
「どこに行くんだ」
夜中こっそり抜け出して裏口から出た途端、先輩の怒った声がした。
ひぃっ、と短く悲鳴をあげた私を、腕組みをした先輩が凍った眼差しで見下ろしている。
「まったく。こんなことだろうと思ったよ」
「ご、ごめんなさぃぃ……」
うう、ダメだぁ。
「ほらほら、子供はさっさと部屋に戻るんだ」
「はあぁい。おやすみなさーぃ……」
彼は怖い顔で、私を木戸の中に押し込んだ。
*
少し待って、私は二度目の脱走を敢行した。
(クリスのためだもん。諦めるもんか)
夜更けの歓楽街にきた私は、早速怪しい人物を探し始めた。
ほとんどは酔っ払いだけど。
「おや、君は……どうしたんだい?」
「きゃっ!」
いくらも歩かないうちに、中年男性に声を掛けられた。
振り向くと、いつも本で私の頭を叩く、あの教授が立っていた。
「あの……、届けものをした帰りです」
「そうか。悪いんだが、足を痛めてしまってね。家まで肩を貸してもらえないかな」
「わ、私でよろしければ……」
けが人を放ってもおけず、私は渋々教授を送ることにした。
*
お屋敷に到着すると教授は、帰ろうとする私を引き留め応接間に案内した。
そして足を引きずりながら、お茶を持ってきてくれた。
(こんな大きなお屋敷なのに、一人暮し?)
早速頂こうとカップを取り上げると、いきなり私の手から、カップが弾き飛ばされた。
「きゃあぁッ」
私は驚いて悲鳴をあげた。
ティーカップは派手な音を立てて砕け散って、床からは紅茶の香りが立ち上っていた。
「誰だ!」と教授が叫んだ。
ふと見ると、大理石の床に、何か銀色に光る細長いもの……ナイフが突き刺さっている。
「これが飛んできて……ってなんで石の床に刺さってるの?」
ちっとも訳が分からない。
「だから家にいろって言ったじゃないか。その中には、麻痺毒が入っていたんだぞ」
少し怒気をはらんだ、聞き覚えのある声。
部屋の戸口に立っていたのは、黒いコートを纏い、腕組みをしたユノス先輩だった。
「先輩! なんでここに」
「
「シンクレア君、これはどういうつもりかね!」
教授がすごい剣幕で、彼を怒鳴りつけた。
「警察を欺くために、ブロンド以外も狩ることにしたんですか、教授?
いや……王都を騒がす連続婦女誘拐犯め!」
ゆっくりと私の方に近づきながら、先輩が叫んだ。
(誘拐犯? ……教授が?)
「ま、まさか、あれは君が……」と教授。
「今日の号外、ご覧になりましたか? 被害者の特徴が初めて報道されましたね。
あれは僕が当局に指示をして、貴方をあぶり出すために流した情報です。
こんなに早く罠に掛かるなんて……。フフ、慌てましたか?」
「……ええい、頭のネジの緩んだ、ただの道化と思っていれば……
「僕は自分の素性以外、偽った覚えはない」
怒鳴った教授は、手にした金属製のトレイを先輩に向けて力任せに投げつけた。
彼は涼しい顔で、上体を少しひねってそれを
目標を無くしたトレイが空を切って床に落ちると、グワングワンと耳障りな音を立てた。
……応接室は一瞬で修羅場になった。
「一体どういうことなの? 謀ったって?」
「ミラ、こっちへおいで。詳しいことは後で……ここからは、僕の仕事だ」
と言うと彼は、駆け寄った私の腰に手を回してぎゅっと抱きかかえた。
「こちらも見事に騙されましたよ、教授」
教授(?)は悔しそうな顔で、グルル……と、獣のように唸ると、目を大きく見開いてギッと先輩を睨み付けた。
「中身が入れ替わっていたとは、
話している間にも、教授の肌が黒ずんでいき、どんどん人間から遠ざかっていく。
赤くぬっとりと濁った目玉は半分近くも前にせり出してきて、今にも零れ落ちそう……。
「その娘は、貴様の撒いたエサか」
と言う教授(?)の声は、複数の人の声や獣の声がオルガンのように幾重にも重なり不快な和音を作っていた。
腐敗臭のような息を吐き出しながら、こちらへにじり寄ってくる。
先輩は私を抱いたまま数歩後ずさり、コツンと私の頭を叩いて、
「まさか。これはあくまで事故のようなもの。だが、おかげで、貴方の尻尾が掴めました」と言いながら、私を背後に押しやった。
「貴様とて、同様に人を喰らっておるくせに」
教授(?)の言葉に彼がまなじりを決した。
「人を家畜にし死ぬまで生気を絞り上げる下賎な
彼は怒りを露わにそう叫ぶと、懐から小さなプレート状の物を前方に突き出した。
そこには、見覚えのある、美しい細工が施された金属製の小さな紋章が貼り付いていた。
そして先輩は、高らかにこう宣言した。
「王都守護隊特殊処理室所属、二等特別執行官、ユノス=シンクレアが、女王陛下の名において貴様を
抵抗しなければ女王陛下の慈悲により一瞬で滅してやる。さあ、両手を頭の後で組み、床にひざまづけ!」
「え、ええええええええぇぇぇぇっ!?」
(せ、先輩が王都守護隊のトップエリート!?)
妖魔の叫びは彼に抗戦の意思を伝え、同時にヒュッと数度、微かに空気を裂く音がした。
黒い影が数度、閃く。
目の前で金属を打ち鳴らす甲高い音が響き、足元には、バラバラと骨のようなものが幾つも転がった。
――化け物の口から高速で撃ち出された大量の牙を、先輩が目にも止まらぬ早さで全て払い落とした。
彼の両手には、銀色に輝く大ぶりな銃が二丁。
「済まなかったミラ……、これで本当に最後の隠し事だ。
後でどんな罰でも受ける。だから、少しの間、後を向いていてくれないか」
彼は二つの銃口を、そして
ガチャリ、と二つの撃鉄を下ろす音が重なる。
妖魔は四肢の関節を、あり得ない方向に曲げてよつん這いになると、飛びかかるタイミングを伺うよう頭だけをこちらにグルリと向け、体を床スレスレまでグっと沈めた。
空気が張り詰める中、私は後を向くフリをして、彼等を、あの恐ろしいものを、指の間から……見てしまった。
私が全ての正気を失わずにいられたのは、先輩がいたから。
――それを、教授だったモノは見逃さなかった。
赤黒く血走った目で、私に視線を合わせると、ニタリと笑った、その瞬間、
『ソレ』は、私の精神を一瞬で侵した。
私のなけなしの正気は、あっという間に蒸発してしまった。
「きゃあああああぁぁぁぁぁッ!」
辛うじて教授の原形をとどめていたソレは、体の皮がずるりと剥けて、中から臓物のような、血塗れの妖魔が這いだしてきた。
これ以上はもう、言葉に出来ない……。
「ミラ!」
ユノス先輩が叫ぶ。
「せんぱ……い」
彼に呼ばれた私は、あやうく沈みかけた狂気の淵から戻ることが出来た。
でもその一瞬のスキに妖魔は倍ほどに膨れあがってしまい、私たちに襲いかかってきた。
「クソッ、させるか」
避けきれないと一瞬で判断した彼がコートを翻し私に覆い被さった。
……ごめんなさい、先輩。私……
死を覚悟した瞬間、どこか別の場所から一発の銃声が響いた。
「ぐぎゃぁッ」と妖魔の悲鳴。
何が起こったのか、先輩の陰でわからない。
「ごめん」
短く彼が告げると、私は強く床に押しつけられた。
……貴方の意図はわかってる。怒ったりしないよ。
頭の上で連続した銃声が轟くと、何かの爆ぜる音と共に、火薬の匂いと血と油と下水の混ざったような臭いが部屋に充満した。
妖魔が絶叫を上げ、私は必死に耳をふさいだ。
さらに畳みかけるように響く銃声と、妖魔がのたうち回って調度品をなぎ倒す音に私は怯えた。
体の上に破片の雨が降り注いでも、彼を信じて冷たい床の上で必死に耐えた。
……一秒でも早く終わって、と。
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