第三話 黒いたね
やだなあ……。なんか、ヒロシにつられて慌てて手ぇ出しちゃったけどさ。黒いたねなんて、縁起悪い。じいさん、消えちゃったし。考えんとこ。
「マコトー」
「はあい」
またあの話かなあ。やだなあ。
「創造塾の春期講習申し込んできたからね」
ええっ!?
「ちょ、ちょっと、そんな勝手に……」
「だって、あんたはこっちが段取りしないとなんもしないでしょ? 今は成績上位にいるって言ったって、ここの中学なんかアホしかいないところなんだし。何もしないで、受験を突破できると思ったら大間違いよ!」
僕は近くの春高でいいんだけどな。そんな、勉強の背比べをし続けるところに行きたくない。でも、今そう言ったら母さんが一日中僕に説教し続けるんだろうな。うっとうしい。やだなあ……。
「分かったよ。行くよ」
「じゃあ、さっさと机に向かいなさい。岡野さんがそろそろ見えるわ」
「は……い」
◇ ◇ ◇
中学最後の年。母さんは僕に、勉強しか選択肢をくれなかった。受験のある年って言っても、僕の目が教科書や問題集にばっか落ちてたわけじゃない。したいこと、興味のあることはいっぱいあったし、学園祭や遠足みたいなイベントも、女の子たちとの会話も、僕には楽しみだったけど。母さんは、それを楽しむ余裕すら僕から取り上げた。母さんは僕にいったい何を期待しているんだろう? 僕は母さんの奴隷じゃない。奴隷なんかじゃ……ない。
そして受験。K大付属高校を受けた僕は、合格してしまった。本当は滑り止めで受けてた春高に行きたかった。でも僕が私立校を落ちたら、母さんは僕がそこに受かるまで受験させるだろう。そんなん、絶対に我慢できなかった。しょうがない。僕はいやいや私立校に行くことを決めた。高校に行けば、母さんの干渉は少しは和らぐだろう。そういう淡い期待もあった。でも……それはすぐに掻き消えた。
レベルの超高い私立校で、僕が授業に付いていくのは並大抵のことじゃなかった。高校に入ったら僕が手に入れられるだろうと思った時間は、全部勉強で消えた。高校でしたかったクラブ活動も、クラスメートとの交流も、僕には何も許されなかった。あんたの周りにいるのは、全てあんたが蹴落とさないとならないライバルよ。母さんはそう言い放って、僕を中学の時以上の勉強漬けにした。塾。予備校。家庭教師。僕の時間なんか、どこにもなかった。
絶対にT大に入るのよっ! 目を吊り上げて、母さんが怒鳴る。僕はうんざりした。
「ああ、春高に行きたかったなあ……」
そして大学受験。母さんの過剰な叱咤激励と僕の必死の努力も虚しく、僕は派手に散った。僕が不合格だったことを知った母さんの恐ろしい顔を、僕は一生忘れることは出来ない。まるで僕が人生の敗残者であるかのように、延々と僕をこきおろして。僕は……もう耐えられなくなった。その日の夜。僕は手首を切った。
◇ ◇ ◇
目が覚めたら。そこは病院だった。助かってしまったのか。僕は、これから延々と続くであろう地獄に目の前が真っ暗になった。でも診察してくれた先生が、僕に思いがけないことを言った。
「君のお母さんだが、ちょっと要治療でね。伯母さんに付き添ってもらってる。君はしばらくお母さんと距離を置いた方がいい」
なんで……そんなことになったんだろう。分かんない。でも僕はほっとした反面、恐怖を覚えていた。これからどうやって生きていけばいいのかって。
「ああ、だから春高に行ってれば……」
◇ ◇ ◇
退院してから、伯母に後見人になってもらって予備校に通い始めた。今度は無理しなくても行けるところでいい。それは気楽だったんだけど、僕には目標がなかった。中学でも高校でも勉強漬けにされていた僕には、何かしたいこと、興味あることを探す能力がぽっかり欠けていた。それを探すってことにも意欲が湧かなかった。僕はもう使い古しになってしまったのかもしれない。
でも、成人してまで伯母の世話になるわけにはいかない。一浪でD大の法学部に合格。奨学金をもらい、バイトをしながら大学に通った。大学で、自由な時間とクウキを満喫できるはずだった。それなのに、僕の生活は以前の不自由なものと何も変わらなかった。
司法試験に合格して、弁護士に。それは僕の望みではなかった。でも、それが一番自分のこれまでの時を無駄にしない方法のように思えたんだ。寝食を忘れて勉強に没頭し、大学では誰とも友達付き合いをしなかった。
最初の試験に失敗して、腰掛け就職を決めた時も。誰も僕を祝福も、叱りもしてくれなかった。僕はどこまでも独りだった。薄暗い自分の部屋で、僕は呟く。
「春高にさえ行ってればこんなことに……」
◇ ◇ ◇
三回立て続けに司法試験に落ちて。僕は、それ以上のトライを諦めた。気力がなくなった。腰掛けのつもりで勤めていた会社で、僕はそのまま働き続けることにした。楽しい仕事でも、やりがいのある仕事でもなかった。でも、僕にはそれしかできなかった。
周囲の勧めるがままに見合いして結婚し、退屈な会社勤めと結婚生活を延々と続けた。楽しいことなんか一度もなかった。でもうっかりそう言ったら、僕に唯一残されている日常まで全部失ってしまうんだろう。僕は黙っているしかなかった。
自宅のトイレで、その壁に向かって独り言を言う。
「春高に行ってれば、違ったんだろうなあ……」
◇ ◇ ◇
「じいちゃん」
「ん?」
「じいちゃんのお祝いなんだから、笑ってよ」
「そうだなあ……」
息子が孫を連れて、僕の誕生日のお祝いに来ている。僕にとっては、これが最後の誕生日になるだろう。
あの時春高にさえ行けていれば。僕の人生はもう少し明るかったんじゃないかと。薄明かりに照らされたベッドの上で、僕は大きく息を吐いた。
「じいちゃん?」
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