第002話 02月16日(火曜日)「どこにいても、道に迷っている」
――座標軸:風見ナミ
夜明け、だろうか。
赤い。朝焼けの、赤。燃える、赤。あるいは、血のような……
目を覚ましてぼんやりとしていたナミの視界に映ったのは、どこか印象的な赤色だった。
風見ナミは、普段から睡眠が深い。大抵は大した苦労も無くいつでもどこでも眠れるし、睡眠の途中で目を覚ますといったことも無い。
だからこれはまだ夢の途中だろう。そうに違いない。彼女はそう、結論づける。
けれども。
確かに暁時ではあるものの、先程目に入った赤い色は朝焼けの空のものではなく、どうやら他人の髪の色だった……ということに、彼女も漸く気がついた。
どうやら太陽は昇ったばかりらしい。時間的にはまだ早い。ただ、ずっと運転状態になっていた暖房のお陰で、2月の早朝の寒さを感じる程ではない。この冬が暖冬だというのも、今朝に関しては幸いしたようだ。
自分のものではない、クークー、という規則的な音が心地いい。
赤毛の男を見ると、昨日とは随分と印象が変わり、目を閉じたその顔は妙に若い。よく知らない男の髪を間近に見ても不快に思うことはなかったし、よく知らない男の無抵抗な寝顔を見ているというのにどうしたわけか言いようも無く大きな安心感に包まれることを、彼女は感じていた。
なぜだろう? わたしは、この人のことを殆ど何も知らないはずなのに。
更に少し頭を起こす。規則正しく深い呼吸を続けている男は、両腕でもって絵本を1冊、大事そうに抱えている。彼女が貸し与えた内の一冊だ。実は結構、彼女が気に入っている一冊でもある。その姿勢が、まるで大切な何かを守るかのような、必死な様子にも見える。「ああ、だから若いと。そう思ったのか」。彼女は妙なところで納得する。
人が家の中にもう一人いること、それらがもたらす安らぎを、彼女は不思議なことだと思う。
そう思いながらも、一方で、それが当然だと彼女の内心が強く訴えていることを、寝惚けたままの彼女の思考はゆるりと肯定する。
――だって、兄ちゃん、まだ、おねむだもの……――
幼い声で、そう呟かれたような、気が、した。
男の規則正しい呼吸音に引き寄せられるように、自分の呼吸もどんどんと深まっていく。瞳が落ちる。頭も落ちる。
そうして彼女は、二度目の眠りに落ちていった。
――座標軸:神矢レイジ
夜明け、だろうか。
青い。青の黎明。それは、美しい青だ。
目を開ける前、彼が最初に思い浮かべたのは、夜明け前、まだ薔薇色に染まる前の、深い青さを湛えた早朝の空の色だった。
その美しさをどうして思い出したのか。そうだ、あれはナミの瞳の色だ。彼女の、希望に満ちた、あの青い色。彼女の青の瞳。それはあの暁天だ。赤と親和性があるというのに、やっぱり青い、あの透明な空の色。ああ、ナミ。君の今日の一日が、素晴らしい日でありますように……
目を覚ました男は、二度、ゆっくりと深呼吸をする。部屋は温かい。どうやら、空調がつけっ放しのようだ。照明だけは消されているところをみると、自分が何とかそこまでの意識を保っていたか、あるいは彼女が夜半に一度でも目を覚まして消したのか。
……彼女?
「……!……」
ナミが、昨晩とほぼ変わらぬ姿勢のまま、クークークー、と寝息を立てている。部屋は、大分明るい。目覚める直前の夢の中ではまだ日が昇る前の時間であったが、実際に目を覚ました今はとっくに太陽は昇り切っているようだった。彼女の学校がいつから始まるのかは分からないが、そろそろ目を覚まさないとまずい時間ではないだろうか。
起こした方がいいだろうとは解ってはいたが、眠ったままの彼女に手を触れるのは気が引けた。暫し考えて、彼はそのまま彼女に触れることなく、自分の体の点検に入る。
体の節々が痛い。けれども、熟睡したためか状態は悪くない。平素のように魘されなかったのも幸いだった。
彼は大きく伸びをしながら起き上がる。すぐ傍にいた彼が起き上がったことを受けても、彼女は眠りから覚める様子はない。少しだけ考えると、彼は朝のお茶を淹れることにした。台所の目につくところに茶葉をまとめたコーナーがあったのを、昨晩確認していたから。
高級そうなダージリン。日常使いらしい大きな袋のディンブラのリーフ。室内唯一のティーバックはアールグレー。そして自家製と思しき乾燥ミントは、ミントティーといったところだろう。ディンブラとアールグレーは販売会社も別のものだが、それぞれの袋にはオーガニックであることを示す国際マークがついている。更に、彼女が昨夜使ったと思しき高級タイプのジャスミンティー。その隣には、やや格が落ちると思しき、大きな缶入りのジャスミンティー。緑茶の茶筒は一つ、それに珈琲は豆。缶の中のコーヒー豆はどの品種かは分からない。だが、それ以前に豆を挽く音が良くないと思い直し、彼は紅茶を選択する。起き抜けならばカフェインの多い緑茶も目覚ましになっていいのだが、緑茶は最後に淹れた経験から暫く年月が経っているため、的確な時間と湯の温度を想像できなくなっていた。熱湯で淹れてはいけない、という程度のことしか彼の記憶には残っていない。
遠慮しながら冷蔵庫を覗くと、丁度牛乳もある。よし、とばかりに普段使いらしい紅茶の茶葉の大きな袋を手に取った彼は、鍋に水を張って湯を沸かし始めた。
――座標軸:風見ナミ
温かくて柔らかい紅茶の香りに鼻腔をくすぐられる。カチャカチャという陶器の触れ合う小さな音が、どこか心地よい。
「目が覚めたかね、ナミ」
彼女はまだソファの上。体の上には、昨日「彼」が着ていた黒色の化繊のジャケットが掛けられている。その衣類の持ち主は、昨晩の初めに彼女が座っていた一人掛けの椅子に腰を掛け、客用の紅茶茶碗を置いて絵本を手にしていた。
「おはよう。ナミ」
まだ彼女が本調子ではないことを理解しているかのような声色が、静かに響く。彼女は数秒、レイジの顔をぼんやりと眺めた後、「わ!」と叫んで急にぜんまい仕掛けの人形のように飛び起きた。
「……お、おはよう!」
飛び起きた。ああ、飛び起きた。自分の顔は、きっと耳まで真っ赤になっていることだろう。ヤバイ! よく知らない男に寝顔を見られた! このドジ、何?
「寒くなかったかね? 目を覚ましたのなら、顔を洗ってさっぱりしておいで」
それだけを言って、昨晩のことどころか今の状況についても何一つ言語化すること無く、男は視線を再び手元の絵本へと完全に戻す。その目線からすると漢字が読めないからだろう、どうも漢字の上のふりがなに一所懸命集中している様子だ。
そんな彼に、彼女は何も返事ができず、ただトイレに立て篭るしかなかった。
彼女の戻りが遅いであろうことを予想していたのだろう。あれから15分程が経過して漸く少女が居間へと戻ってきた、そこ合わせたかのように、彼はミルクティーのカップを持ってきた。
「そろそろ目を覚まして貰おうと思っていたところだった。自力で起きてくれて、助かったよ」
穏やかな表情で、赤銅色の肌の大男は彼女にカップを渡す。
「……あ、ありがと」
体に何かをされた形跡は、勿論何もない。
結界を張り損なった2階も含め、家探しをされた様子もない。金目の物、金銭関係はもとより、物が動いた気配も一切無かった。変化があるとすれば、台所だけ。お茶界隈。それだけだ。
そう軽く確認をして、彼女はホッと胸を撫で下ろす。尤もそれは、彼女の想定の範囲内のことではあった。
渡されたカップを手にしながら、彼女はもう一度、自身を点検する。
顔は洗った。制服にも着替えた。宝珠も身につけた。顔もきちんと整えた。髪もブラシをしっかり入れた。ああ、それでもこんなに恥ずかしい……
「こちらとしては、本当に助かった。一晩、温かい部屋で、外敵を気にすることなく安心して眠ることができたわけなのだから」
本当に気にしていない、とばかりに、彼はお茶を一口、口に含む。
「た、助かったわ。こちらこそ。そう言ってもらえて」
彼の冷静な返事にやっとこれだけをことばにすると、ナミは少し照れたままの笑みで彼を見上げた。
それから目線を紅茶に移す。紅茶、というよりもミルクで煮出したチャイのような淹れ方をしているようだ。
黙礼だけで彼に断りをいれると、彼女は手の中のカップからチャイを一口含んだ。ほんのりと、甘い。香辛料は使っていないようだが、茶葉とミルクがお互いの香りを引き立てあっている。いい味だ。
そうして口の中で香りを転がすかのようにお茶を味わっていると、彼女の頭は徐々にシャンとしてきた。
ここでナミは漸く、なぜ彼が朝からここにいるのか、そしてその原因となった神矢老人の不在の理由に思い至った。
「神矢のおじさまからの連絡は?」
「いや、まだ何も」
ナミの問いに、レイジの顔が深刻な表情を帯びる。
「先方もまだ病院の中にいるかもしれないが。試しがてら、一度こちらから通話してみよう」
電話の為なのか少し離れていった彼の身振りを契機に、彼女も立ち上がる。そのまま彼女は台所へと入った。昨晩の経緯を思い出している内に、夕食の残りが大量に冷蔵庫の中へと押し込まれていることを、彼女は思い出したのだ。
電話をかけているレイジが視界の隅に入る。どうやら上手く相手を捕まえたようだ。
一瞬だけそれを意識した後、目を手元に戻すと彼女は手早く朝食の準備を整えていく。冷蔵庫の中を簡単に点検し、すぐに食べられるものを中心に取り出していく。
食事を整えることに思ったよりも時間がかかったが、相手の電話の時間は更に長い。食卓の準備が全て整っても、彼はまだ携帯を持ったまま部屋の向こうで会話を続けていた。彼女に話の内容は聞こえないが、冷静なままで変化のない背中を見ている限りでは、大事は避けられているようだ。
「はい、はい、はい……」
会話は終盤にさしかかっているらしい。彼の相槌の様子から、彼女はそう見て取る。
居間のソファではなく台所の傍、食卓としていつも使っている小さなテーブルへ。そこへ食べものの皿を運んで、彼女は全てを整えて彼を待った。
「はい、分かりました。それでは」
通話を終了したからだろう、彼の肩の力が抜けたのが彼女にもよく判った。
「問題は?」
短く、彼女が問う。
「無い。ご家族は共に無事だそうだ。怪我の程度も、軽い打ち身程度で、検査結果も問題無いとのことだ。午前に最後の回診を受け、それで何もなければ午後までには病院を出られる、と。ただ、同乗していた同じ剣道の門下生の中に重傷者が出たことで、現地がいろいろと混乱していると言っている。引率の大人の中からもどうとか言っていたな。どちらも老師ご自身は直接の面識のある人物ではないそうだが、御子息の友人や関係の方だし、その辺りでの兼ね合いもありそうだ」
一息に状況を説明して、そこで初めてテーブルの上の料理の数々に彼は目を留めた。だが、それはすぐに意識から外されたようで、彼は簡潔にその続きを伝える。
「今日中には
ここで初めて、レイジは安堵したような小さな笑顔を顔に浮かべた。今晩の宿を話題にしたところで、多少自嘲の意味も込めたらしい。
彼が電話口で話をしていた時間に比して、内容は簡潔だった。長い時間の電話だったところからすると、更に別の話をしていたのだろう。たとえば、昨日彼らが何か予定を立てていたことに関連するような。そこを口にしなかったことに思い至ったが、どうせ部外者の自分に関わらない内容だと思い、ナミはそのことを意識から外した。
「おばさまも悟朗も問題無いのね。それが聞けただけでも安心したわ」
神矢家の人びとが無事ならば、彼女がもうこれ以上心配することはないだろう。悟朗少年の剣道仲間に怪我人が出たことは心の痛む面もあるが、彼女自身に責任の無い事柄に対してそれ以上何かを思うことは無理だった。怪我人の早くの回復を祈り、帰ってきたリサ夫人と悟朗の気落ちを励ますのが、彼女のできるせいぜいのことだろう。
状況がはっきりした以上、2人のそれぞれの予定は決まった。そこで時計を見た2人は、慌てて席に着いて食事を開始した。
彼女よりもどのくらい早くに目が覚めていたのかは分からない。が、体格が良い人間は空腹になるのも早いのだろうか。彼女の目の前の椅子に座った男は、豪快に食事を進めていく。
豪快に、といっても、それは昨晩の料理のボリュームが作用している面もある。食卓は、昨晩の残りものばかりだというのに、必要以上に豪華で量もたっぷりだ。およそ朝食らしくない。
食欲もだが、むしろ食べ残しを嫌っての行動だろうか。彼の見事な食べっぷりを見ながら、なんとなくではあるものの、彼女は彼の習性をそう想像した。
そうして朝食を終え、一口分ばかり先に食事を終えたレイジが食器洗いを買って出た。
「君はこれから学校へと向かうのだろう。ならばその準備をしてくるといい」
ワタシはすぐにでも家を出られるし。そう言って片づけごとを先回りして進めていく、妙に気が利く男を台所に置いて、彼女は自室へと上がって行った。
歯磨きやら身支度やら戸締りやらの後、
「さて。行きますか」
とレイジに声をかけ、既に大型のバックパックを背負った彼を先に向かわせながら、彼女もまた玄関の外に出た。
――座標軸:神矢レイジ
先に門の外に出たレイジは、ナミに気づかれないよう周囲の住宅地の様子に視線を飛ばし、気配を巡らす。特に、この家に対して興味を持って見ている人間は見当たらなそうだ。尤も、家の中、窓越しにでも見られていたら、その判断は難しい。魔力持ちではない彼には、そこまでの観察は無理だ。
一方、当の家主である風見ナミはというと、そうしたご近所の視点に対しては全く無頓着だ。何も気にしている様子は無い。彼は呆れ気味に息を洩らす。
昨晩も思ったが、「戦争」を経験してきた魔女の一人暮らしにしては、彼女は警戒心が甘すぎる。とはいえそれは、きっと人生経験の不足故のことなのだろう。何しろ彼女は、まだ15歳に過ぎない。それに、魔女狩りの無くなった現在和国の平和さ加減もある。
レイジは軽く、彼女の全体を目で追う。両耳のピアス、両手に指輪。利き手である右は中指に、補助的な位置づけであろう左手には小指に、それぞれ小さな青石のついた指輪を装着している。これらの装飾品は、魔女としての必需品だ。更に左手首には、時計ではなくブレスレットをつけている。昨日は気がつかなかったものだ。あるいは、昨日は身につけていなかったのかもしれない。
そして。今は隠されているが、あの制服の胸の下、恐らくはベストの下辺りには、昨日も久方ぶりに目にすることになった、あの大きな青い宝珠のついたペンダントが隠されていることだろう。彼女が日頃身に着けている中でも、一番意味を持った石である筈の。そして彼が、9年前との繋がりを確信できた物質を。
遠い追憶に心惹かれそうになる自分を、彼は頭を振って追い払う。そして意識して、彼は9年前の小さなナミではなく、目の前の14歳と11カ月、あと数日で15歳を迎えるという少女へと目を向けて、それから家の前の坂道を歩き出した。
彼から遅れるようにして坂道を上りながら、ナミは話しかけてきた。
「今日はどういう予定なの? レイジは、和国のあちこちを知って、取材の下調べとか、そんな感じ?」
「ああ。そうだな。差し当たって、今日は何の予定もない。まあ、君は頑張って学生の本文である勉学に励みたまえ」
あとはことばも無く、北へ向かう緩やかな坂道を、2人は歩く。やがて長い坂道の先に、左右……つまりは東西方向へと走る街道が見えてくる。結構な交通量のある、かなり大きな道。彼が昨日、バスから降りた道だ。
そうして大きな道の交差する坂の上まで、2人は辿り着いた。彼女の通う学校の方角が判らない彼は、隣に並んでいたナミの様子を窺った。するとその気配を察したのか、彼女がその聡そうな青の瞳を彼に向けて、にっこりと微笑んできた。
「そこにバス停があるわ。そこから乗ってね。じゃあわたし、こっちだから。行くわ」
恐らくは彼女のことだ。学校の方向がどうであれ、バス停の近くまで彼を送る算段で、遠回りをしていたに違いない。だから、彼は彼女にきちんとお礼を言う。
「ああ。ありがとう」
「こちらこそ」
何か、彼女にお礼を言われるようなことをしただろうか? 彼女の最後の「こちらこそ」の意味がふと気になって、彼は足を止める。
既に、彼女は彼に背中を向けている。真っすぐな姿勢。美しい歩き方。武道を嗜む者としてその美しい姿勢は当然としても、やはりそれでも、その少女の背中が眩しくて仕方がない。
「ありがとう」
聞こえないのを承知で、彼はもう一度、その背中に語りかける。
さあ、行くか。
彼女とは逆向きに、彼も歩き出した。
――座標軸:風見ナミ
中学校は、神矢悟朗の巻き込まれた交通事故の話題で持ちきりだった。
朝のテレビニュースの類を見ていないナミは知らなかったが、ニュースを見ていた多くの生徒の間で、事故に死者が出なかったこと、重傷者がこの学校の関係者ではなかったことだけは広まっており、皆はその意味でも安心してこの事故のことを話題にしているらしい。昨夜の早く、彼女が神矢邸にいたときには報道が間に合わなかったようだが、朝一番のニュースとしては扱いが大きかった模様だ。
「神矢って剣道の大会だかなんだか、そういうヤツに出てたんじゃなかったっけー?」
「地域ブロックだよ。雨音地方の。アイツ、あれでも西乃市の代表の一角だったんだって」
「えっ、そうなんだ。普段ぼーっとしてるヤツなのにな」
「ちっともそんな風には見えないもんな、神矢って。むしろトロそうな顔してるし」
「え、あいつ、剣道部ではバリバリだぜ。ただ授業だとぼーっとしている……」
「だな」
神矢悟朗とクラスの違うナミは、この話題に多少の興味は惹かれても、その会話の輪に加わらないようにしていた。それは、主に話題を熱心に取り上げていたのが男子の集団だったということもある。
彼女の属するクラスの女子たちもこの話題はひとしきり話に上げてはいたが、それでも他のクラスの生徒で、剣道以外に目立った特徴のない神矢悟朗を話題にすることは飽きが来るのが早く、話題はすんなりと収束していった。
そうしたわけで、彼女はこの話題に殆ど参加することも無く、いつもの平凡な学校生活に身を置いていた。
午前中の4コマの授業を終え、生徒たちは三々五々、昼食を楽しみ始める。この段階になると、既に朝の話題は過去の話だ。
「カザミン、お昼は?」
そう言って、お弁当を手に彼女の机にやってきたのは、サエだ。
セミロングの髪の両サイドを、メガネと同じ色のピンで留めている彼女は、朗らかな声でナミの昼食を心配してくれる。彼女はこの1年間、ナミがクラスでよく行動を共にする、仲良しの少女の一人だ。
「今日はぎりぎりだったから……」
「そうだね、珍しく遅かったもんね、今日。遅刻じゃなくて良かったよ」
「うん、ホント。じゃあ、ちょっと購買に行ってくる」
「カザミン、私も購買」
そうやってもう一人、長身の少女が声をかけてくる。
「うん、一緒に行こう、カヤちゃん。サエちゃん、あんたの分も何か買ってこようか? 牛乳、いる?」
「ううん、今日はお母さんにポット持たされちゃったから」
だからマイ・ポットなの、と小ぶりの、中学生の女子らしいピンクの小ぶりなポットを「おもたいー」と笑いながら言って、軽々と振る。
「カヤちゃんは今日も部活でしょ。購買の食料じゃもの足りないんじゃない?」
ナミは、共に購買部へと同行する友人に、放課後の予定を聞く。
「うん。3年生の部活もう今週でおしまいだからねー、後輩たちにビシバシ、愛情を伝えてやんないとさー。だからちょっと多めにがっつり買わないと」
カヤはバスケ部だ。短髪で背の高い、スマートな彼女。誰がどう見たところでスポーツ少女という印象を抱くこと、間違い無しである。その高身長がバスケを始めた契機だというが、武道者であるナミにしてみれば高身長であることは羨ましいの一言に尽きる。
待っているサエを気にして、ナミは素早く菓子パンとサンドイッチを入手すると、おにぎりの具材で悩むカヤを急かす。渡り廊下の外でレモネードのホットを買い、少女2人はダッシュで3年生の教室へ戻り、のんびりかつ穏やかな空気を纏うサエの待つ机へと突進する。
スポーツウーマンが服を着て歩いているようなカヤと好対照、おっとりした面立ちのサエが、机に戻ってきた2人へと嬉しそうに大きく手を振る。
この2人はどちらも、ナミが魔女であることを公言していても、それで態度を欠片も変えることの無い、大切なクラスメートだ。
昼食時の話題は、自然と神矢悟朗の事故の話題へと移っていった。
「カザミンの幼友だちだもんねー。怪我が無くて良かったじゃん」
「うん、びっくりよ。まあ、悟朗も付き添いだったお母さんも、共にほぼ無傷らしいし。わたしのお師匠さんもそれで安心。とにかく、良かったわー」
神矢の拳道の道場に通っていることは特に誰にも隠していない。だから2人の友人は、ナミが、同じ学年の幼馴染みよりもその父親の方とより親しいということを理解していた。
「でね。昨日の午後に、おじさま……師匠の所に、外国からのお客様が来ていたんだけどさー」
幼なじみのネガティブな話題を避けて、彼女は昨日のひと悶着あった出来事の、主に昼の部の話を面白おかしく友人と共有することにした。何より、アレは面白過ぎる。何といっても、「拙者」で「ござる」、なのだから。
しかしどこまで話そうか。彼女は一瞬、思考を巡らす。流石に昨日の、特に夜間のことについて喋るのは問題が起こりそうだ。たとえそれが、中学生活においてかなりの信用を置いている、大切な友人であったとしても。武道の師匠の門下生とはいえ、昨日会ったばかりの外国人を、何の準備も無しに泊めただなんて……うん、この辺りはパスしておかないと。考えを巡らせて、彼女は話題を提供し始める。
親しい2人は、ナミの家がやや複雑な状況にあって、ほぼ一人暮らしに近い状態であることを知っている。更には、何度も家に遊びに来ている。そうした状況を知るクラスメートに、ナミがよく知らない男を一晩家に泊めた、などということを知られることは好ましいことではない。
「珍しくはないんだけどねー。道場の門下生の中には、外国からの人もいるからさー」
「へー。拳道の門下生、ってことは、男の人だよね? それとも女の人?」
「うん、男。それがね、」
そうは言っても、個性的な男だ。話題には事欠かない。奴の癖を一つ二つ披露するだけでこの友人たちの笑いは取れるし、上手く使えばクラスのみんなに朗らかな話題を提供することもできるだろう。少なくとも、今現在あまりいい状況にない神矢悟朗を話題にするよりも、ずっと建設的だ。
「和語がすっごく達者なのよー、それが。でもさ、一人称が……何だと思う?」
「えー、男の人でしょ?『僕』とか『俺』とかしか、ないじゃん。そうじゃないってこと?」
弁当持参のサエが、色鮮やかに作られた母親のお手製の弁当を口にしながら、合いの手を入れる。
「いやー、それが違うんだなあ~、フフン」
思わせぶりな身振り。ナミはサエとカヤ、2人の顔を、クイッ、クイッ、と目力を込めて見る。
「『拙者』よ、『拙者』! わたし、生まれて初めて、テレビや芝居の中以外で、アレを自称で使っている人を見たわー」
ナミの目線の先、左右に座る少女たちが、動きを止める。
「えー、あり得なーい!」
と、サエ。
「マジ? 聞き間違いじゃなくって?」
と、カヤ。
少女2人が、今度は逆に、ナミへと大きく目を見開いて食いついていく。
「いやさー、わたしも聞き直した訳よ。何回も。でも、ギャグでやっているわけじゃないのよ、どう聞いても。そしたらその人、時代劇の大ファンらしくてねー」
昨夜の酒盛り……といっても、飲酒をしていたのは実質神矢老人一人であったが……その席で、淀みなく数々のサムライ・フィルムのタイトルと内容を滔々と語り上げ、あげく忠臣蔵と魔女文化の共通項目をでっち上げのように持ち上げるあの会話もとい演説を思い出すと、彼女は昨晩の軽い頭痛が戻ってきそうになる。頭を軽く振って、彼女はその印象を遠ざけた。
「『井戸黄門』の人気だとかさー。『忠臣蔵』がどうこうとかさー。あとなんだっけ。『犬侍』? まー確かに、それはそれでそれぞれそれなりに名作だったりするわけだろーけれども。あの人、時代劇のこと何一つ貶すことなく褒めまくってねー。なんだろう、あのポジティブな批評性」
「カザミン。その様子だと、その旅行者さんは、和国に未だにゲイシャとニンジャとサムライと殿様がいるとかって勘違いしているかもしれないねー」
「まー、可能性は無くはないけどー」
サンドイッチの最後の三角部分を口の中に放り込みながら、ナミは相の手を入れてくれたカヤにリアクションを投げ返す。
「一応、和国に来たのは初めてじゃないらしいし、8年前にも神矢師匠の道場を訪ねたことがあるらしいから。だから、そのくらいは今の状態を理解しているんじゃないかな」
「でも、ゲイシャ・ガールとかニンジャとか、もう300年も前の話じゃん」
「えー、カヤちゃん、300年はちょっと違うよー。200年……だっけ?」
サエが横から口を挟む。
「うわー、もう歴史の話はいいよー。入試は終わったんだよ、入試は!」
「そうだよね、終ったんだよね」
この仲良し3人組とのこうした他愛のない語らいも、もうあと1カ月の運命だ。3人は、それぞれが公立高校に通うことになってはいるのだが、通う学校が3人とも別々だ。こうした無駄に楽しい時間も、あとほんの少しで終わる。3人の少女は、来るべき未来を楽しみに思いながら、一方でこのささやかな幸せな時間に名残を感じてもいる。
「ま、とにかく、『拙者』でしょ。あと、たまに『ござる』で語尾を締めるのよ。やってらんないわ、まったく」
小さく音を立てて、彼女は自販機で購入したホット・レモネードの最後を飲み切った。
――座標軸:神矢レイジ
……ハクション!
街中を歩きながら、長身の男は考えあぐねていた。
師とは連絡がつき、本来予定されていた行動、その実行の見通しは立った。同時に、それまで数日ばかりの自由が得られた。
とはいえ。
「……しまったな」
間抜けな事をした、と通常の自分ではめったに犯さない類のミスを思い出し、眉間に皺が寄っているのを自覚する。
しかしそれ以上に、それを口実にしたい、と願う自分がいることも分かっている。
地方都市たる西乃市の市街地で、彼は目立たぬように歩く。その長身に、赤銅色の肌、短髪とはいえ明るい赤毛。どこからどう見ても和国人らしからぬ風体。誰もが一目で余所者だと分かる風貌。しかしそうでありながら、彼自身は目立ちにくい身ぶりで歩くことに慣れていた。
ショッピングビルのショーウィンドーが鏡のように、彼の姿を映す。その一瞬の姿を見て、彼は更に眉を顰めた。
「赤くしなければよかったな」
そう、心の中で呟く。
一番目立たない色がいいと彼も一度は考えたのだが、やはりできるだけ「9年前」の印象から離れたものに、という結論に落ち着いた。あれから顔つきも結構変わった……とは思うものの、少しでもあの頃の痕跡を残さないようにしたかった。肌の色は簡単には変えられないものだし、瞳にカラーコンタクトを入れることも日々の手間やその面倒を考えてすぐに見送ったアイデアだ。ならば、髪くらいは昔の痕跡を消さないと。
それも、明後日の会見にとっては意味が無いことであるというのは解っていたのだが。
「ハクション!」
二度目のクシャミ。更に深く眉間に皺を寄せながら、彼は鼻を押さえる。
それにしても、この失敗は堪えたな。今朝、家を出た時は彼女と一緒だったことで気分が高揚していて、まるで気がつかなかった。そう自分を振り返り、彼は己を鼻で嗤う。
無駄銭になるから代わりの物を購入するのは差し控えたい。いやはや、どうしたものか。夕方になるともっと冷え込むだろう。それまでに自分の心を決めておかねば。諦めるか否か。
けれども。どこかで「その先」を望んでいる自分を、男は自覚していた。
――座標軸:風見ナミ
帰宅部のナミは、自宅へと真っ直ぐ帰ってきていた。
友人たち、カヤはバスケ部、サエは手芸部だ。遊ぶ約束もできないし、何より普段の彼女ならば火曜日の今日は道場の日でもある。
けれども昨日の事情から、道場は休みである。
ならば、受験も終わって間もないことだし、それまでの張りつめた生活の分、少しくらいだらけてもいいではないか……
家に戻ってすぐに2階の自室に向かった。部屋の時計が午後4時近くになっていることを目に止めて、お茶でも淹れるかと思い立ち、彼女は階下の台所へと向かう。
そして、居間から台所へと横切っていくその時、彼女は小さな違和感に目を取られた。
視力に魔力を通すまでも無い。
「あ」
声が、出ていた。
「あの人……!」
違和感の元は、ソファの背にかけられたままの、黒くて大きなジャケットだった。厚手の化繊で、ややごわごわとした手触りの、思いのほか大きな黒い布。あの外国人のものだ。彼が、自分の上に布団代わりにかけてくれた……
「……もう、こんな時間じゃない!」
寒いわよね、取りに来るかしら……あれこれ考えを巡らすが、彼女は短時間で決断を下し、行動に移す。
ケトルの火を止める。階段を上り、自室で自分のコートを手に取ると、彼女はすぐに居間へと戻る。次いで、手に彼の忘れ物のジャケットを持つと、自身はコートを羽織って普段履きのローファーで家を出た。扉には鍵を、けれども、門には鍵をかけずに。いや。
「……」
小さく、呪文を綴る。門に対しては、「あの人」が来たら、玄関の前まで招くよう、彼女は強めの暗示の呪文をかけていくことにする。
先に、念のためにと彼女は神矢の本家を訪ねるが、まだ誰も戻っていなかった。
ということは、彼は予定通り、今晩は西乃市の市街地で宿泊先を見つけるつもりなのだろう。住宅街であるここ中野町にはそうした施設は皆無だから、ジャケットを取りに戻ることを考えなければ、彼の行動圏は市街地でしかない。それどころか、宿泊先の状況によってはより街の規模の大きな隣の東乃市へと向かう可能性すらある。
「うーん。わたし、人探しの呪文も呪術アイテムも、持ってないわよ」
自身の能力の未熟さに少しばかり腹を立てながら、一人呟いて、彼女はバス道に向かって歩く。
すぐにやってきたバスに乗り込んでから、彼女は内心、「やっぱり家で待っていた方が効率的だったかな」と判断をミスした可能性に不安を感じていた。
しがない地方都市とはいえ、西乃市の市街地の規模は適度な面積がある。当てずっぽうで歩き回るだけでは、たとえあの目立つ赤髪の青年とはいえ探し出す可能性は低いように思えたのだ。家に居たときはその方が確実だと彼女は思っていたのだが。
「うーん、ドジったかも。これ」
昨夜のことも結構なドジではあったが、今もまた同じ愚を犯しているような気がする。時間は午後の4時をとっくに回っている。車窓から外を見ながら、彼女はあれこれと考え続ける。
「……寒い、かな」
寒くないといいんだけど。呟くともなく、彼女は唇に彼の名前を乗せていた。
――座標軸:風見ナミ
「魔女」「魔力持ち」、あるいは稀に「魔性の一族」などという呼び方を聞くこともある。
世界各国、その呼び名はいろいろであるが、要はたったひとつの特徴、それを指示していることばだ。
そう、たったひとつ。
それは、魔力が使えるか否か。それが、大きな境界となる。
魔力を使える人間とはいっても、その力にも一定の法則がある。なんでもかんでも思い通りにいく、というものではない。さらにその内容は、人による向き不向きといった個性に大きく左右されるものでもある。
行使のできる魔力の方向性もその力も、非常に限定的なものに過ぎない。
それは、魔力持ち本人が接触のある物体に対して微弱な物理的干渉が可能、といった程度のことだ。
何か物にぶつかりそうになれば、その寸前に、痛くならないように重力を操作する、もしくは身体を強化又はガードする。あるいは、降って来る雨を弾く、といった使い方。もう少し細かく芸のある使い方としては、目や耳、鼻の、それぞれの感覚をより研ぎ澄まして性能を上げるといったことも、魔力行使の種類としては誰もがよくやることだ。とはいえ、それもそう大して強度や精度が上がるものでもなく、また時間もさして長くはない。便利ではあるが、その程度のものだ。
多少魔力の多い魔力持ちであれば、自身の体や触れた物に対する魔力の行使時間を長く保つことができる。あるいは、より広い面積、より大きな物体へと、その干渉を広げることができる。
だが。やはり、こうしたものは、その魔力持ちの個性、そして好みにも大きく左右される。
まして、今ナミが必要としている人探しのような魔力行使ならば、小型の使い魔を使う魔女が殆どだろう。能力によっては、人探し、探査に力を発揮する呪文を力として使う者もいることはいるのだが、それは少数派だ。それはそうした魔力行使が向いている人、そうした鍛錬を続けてきた魔女の場合だけだ、と言い直してもいい。
「あー、こんなことなら、もっと早くに使い魔の手配をしておくんだったー」
街中をあてもなく歩き回りながら、彼女は小さく声に出して愚痴をこぼす。
武道を嗜むことが空気のようになっている彼女の性格は、良く言えばアグレッシブだ。攻撃的な力の使い方、あるいは瞬間的な衝撃に対する防御等については、相応の勘を発揮するし、そうした呪文の会得も自信がある。けれども人探しのような細やかな作業に関しては、残念ながら彼女はその会得を先延ばしにしていた。
手近なものを急ごしらえの使い魔として一時的に人探しの道具として活用するような高度な技を、彼女は持ち合わせていない。
知り合いの数人の魔力持ちの顔を、彼女は思い浮かべる。あの人だったらこんな人探しなどあっという間に解決できるだろうに、という人物が彼女の脳裏に数人浮かぶが、今ここで協力を要請できる程の時間的余地は無い。安心して頼れる人材の居場所はこの市街地からは遠く、一方で市街地にいる同族の中には逆にこうしたことを頼めるほど親しい関係の人はいない。
手元に目的の人物の匂いのしみ込んだアイテムがあるというのに、自分の方にそれを活用する手腕が無いとは、ちょっと残念だし、魔女的に言えば間抜け過ぎる。それを考えると癪ではあったが、無いものを強請っても仕方がない。
彼女は、今ある自分の手札を切るしかない。つまりは、頭を働かせ、足を使う、ということだ。
時間的にも夕景が濃くなり、魔力を通したところで色目の強いものであっても目で見つけるのが難しい時間帯に差し掛かっている。それに、朝の彼の服装を思い浮かべると、代わりとなる品物を調達していなければ、この時間帯に外をうろついている可能性は低い。暗くなり始めのこの時間であれば、もう既に宿に落ち着いているか、それともどこかで早めの夕食にありついているか、といったところだろう。
宿がどうこうと昨日も言っていた気がするが、この街のビジネスホテルに泊まる種類の人間には見えなかった。寝袋を持参して行動している、というようなことを口にしていた気もする。しかし暖冬云々を抜きにしてこの時期の和国で野宿はあり得ない。
だから、なんだっけ、あの単語。えーと……ともかく、意味は「安宿」のことだったと思うのだが。わたしの知らない英単語を言っていたけれども。昨日。あれは、なんて言ったっけ……彼女はあれこれ思考を巡らせるものの、そのことばが意味しているであろう「安宿」とやらを探すしかないという結論に達する。
彼女は軽く手元の携帯で検索をかけるが、類語の選択が上手くいかない。検索を掛けてもかけても、何もヒットしない。
むしろ大きな画面で地図情報が検索ができる環境が欲しい。それも、西乃市に特化したような。
「となると、図書館ね。交番よりもアテになりそうだし」
図書館? 温かくて、長時間滞在のできる場所。もしも宿にいなければ、図書館のような公的施設で暖を取っている可能性もありそうだと、彼女は思いつく。
ならば、急げ。市の図書館の開いている時間はどのくらいだったか。
「あの人のことだから、居るとしたら和書よりも洋書のコーナーよね」
いちいちことばを口にして、確認する。そんな自分に気づいて、彼女は一瞬苦笑を浮かべる。そしてすぐに考えを人探しへと戻す。
洋書の蔵書がある図書館となると、西乃市であれば駅から程近い中央図書館だけだ。行こう。急がなくては。
――座標軸:風見ナミ
やはり、外したか。
館内をくまなく探したものの、それらしい人影は見つからない。残念なことに、彼女の読みは間違っていた可能性が高そうだ。
ならば、西乃市の宿泊施設の情報を館内の電子端末で検索すればいい。そも、閉館時間もそろそろ近い。
そう判断して、彼女は入口付近にある、西乃市のよろず案内が可能な電子端末へと移動する。手短に検索をし、それっぽいものをピックアップして……といっても数はとても少ない……その結果を印字する。携帯でそれらの情報を洗い直した方がいいかもしれない。そう、彼女は考えを巡らす。
その前に、念のためもう一度館内に戻って洋書コーナーを回ろうと彼女が思った、その時だった。
彼女の視界の隅に、赤い色が過る。
振り返り、彼女は静かにその色を探す。瞳に微量の魔力を乗せ……館内の魔力探知機に反応しないように注意しながら……素早く周囲を見遣るが、既に赤い色を見失っていた。まさか、という思いと共に、彼女は静かに館内を歩く。
だが。先にその足音に気づいたのは、彼の方だった。かなり距離があったというのに、しかも音を押さえて歩いていた彼女のことに気づいたのは、彼だった。
「……ナミ?」
予想外だったのだろう。彼女の耳が拾った彼の微かな声色は、驚きを込めたものだった。
その声色に、彼女は振り向く……そして。
足早に彼のもとへと辿り着くと、ナミは目の前の男を見上げて言った。
「はい」
不機嫌な顔をして、黒い布を無造作に彼へと向けてさし出す。
「忘れ物」
彼の手には、借りるつもりにでもしていたのか、和語の時代劇ソフトが3枚ほど抱えられている。
「あと15分で閉館よ。館内の視聴覚室が使える時間なんて、無いでしょ」
なんで彼女は、そんなどうでもいいことを言ってくるのだろう。彼の眼の色に、そう言いたげな困惑した表情が浮かんでいる。しかし、実際の彼からは声は何も出てこない。数秒経って、ようやく、
「あ、ああ」
お礼ではなく、妙に間抜けな様子で母音だけが発せられていた。彼は、驚き続けているだけのようだった。差し出された黒のジャケットに手を伸ばしたのは、更にその数秒後だ。昨日から観察している限り、こうやって何も対応が取れないというのは、この男にしては珍しいことのようにナミには思えた。
「市街地にどんな宿があるのか分からなかったから、調べに来たの。あと、ここなら温かいでしょ。あなたが暖を取っていることも想定に入れていたわ」
「……凄いな」
彼が、急に破顔する。物凄い、笑顔だ。そのあまりの嬉しそうな表情に、これまで顰め面だった彼女は、面食らった。
「どんな魔法かと思ったよ」
「わたし、まだ探索の呪文も得ていないし、今は使い魔もいないから」
だから、足を使うしかなかったのよ。そう言おうとして、彼女は口を止める。ここは図書館だ。たとえ声を小さくしたところで、長話をする場所ではない。
「……凄いな」
同じことばを繰り返して、目をまんまるくした長身の男は、嬉しそうに彼女を見る。
「大したものだ、ナミ……それで、わざわざ、これを?」
「ええ。じゃあ、返したから、これで」
「待ちたまえ」
用は済んだ、と踵を返す少女に、彼は初めて大声をあげる。「ここは図書館なのに」と彼女は内心で毒づきながら、自分の口元に人差し指を当て彼へと顔を向ける。万国共通の「お静かに」のゼスチャーだ。
「……すまん。少し、待っていてくれないか」
声のトーンをぐっと抑え、彼が頭を下げてくる。
「君にきちんと礼を言いたい。すぐにこれを元に戻してくるから」
これ、と手にしたソフトを少し上げて、彼はナミに時間を請う。
「出口の所にいるわ」
小声で場所を指定して、彼女はその場を離れた。
さして間を置かずに、レイジはナミのもとへとやってきた。腕には、彼女から返された黒いジャケット、そして昨日、彼女が絵本と共に貸した布鞄があった。
「あ、鞄……」
「ああ、ナミ。ありがとう。これも使わせてもらっているよ。しかし凄いなあ、君は」
彼は本当に嬉しそうだ。
「ありがとう、ナミ。寒くはなかったかい?」
「え?」
寒かったのは貴方でしょう? そう言いかけるが、しかし彼女は声を出せなかった。
「いや、途中で忘れていたことには気づいたのだが、君への確認は次に道場へお邪魔する時にしようかと判断してね」
嬉しさを隠せない様子で頬を緩めた彼が、返されたばかりのジャケットを羽織る。
「だから宿では、ヒーターの真ん前のベッドを占領したんだが」
ドミトリーに泊っている、と彼は続けて彼女に言った。
「ドミトリー?」
「ああ、相部屋のことだよ。聞いたことは無いかね? 和国のゲストハウスは清潔で安心できるものだからな」
「ゲストハウス? ああ、それだ!」
中学生の彼女には無い概念、知らない単語だった。
そもそもナミは海外旅行どころか国内旅行も満足にしたためしがない。学校行事以外には、必要な用事で遠方の魔女コミュニティを訪ねたことがこれまでの彼女の旅行の全てだ。雨音地方から外に出た経験は、片手で数える程度だ。
だから相部屋もある素泊まりの安宿の存在は、彼にその説明や仕組みを聞くまで彼女の想像の範疇の外だった。
「そうか、ナミは旅行をあまりしていないのだな。まあ、世界にはそういう宿の形態もあるということだ。この西乃市にも」
「レイジは温かいのね。ならば、いいわ」
素直に良かった、嬉しい、と言ってしまうには、ちょっと癪だった。けれども、彼が上着を持たない場合の対応を既に行っていたこと、また彼女の返却を心から喜んでくれている様子は、彼女の心にもまたほんのりとした温もりをもたらしてくれた。
「ナミ、寒くないかね?」
「わたしは大丈夫よ。でももう暗いし、帰るわ」
「送った方がいいかね?」
これは儀礼的なことばなのか、それとも内容通りのことなのかは、彼の表情だけでは判断が難しかった。
彼は、昨日まではここまではっきりとした表情を見せて会話をしていなかった。むしろ、内にある感情を抑制しながら対応をしているような様子が見て取れた。それは、よく知らない子どもに対しての対応としてはまあ妥当なものだと彼女も思っていた。けれども今は、妙に表情が豊かなような気がする。その瞳に今、映っているのは、強い心配そうな色合いだ。
「大丈夫よ。あとはバスに乗ってすぐだから」
好意は嬉しい。昨夜の対応も今朝のやり取りも、思い返すと、彼の対応は基本的に紳士と言ってもいいものだし、下心のような何かも特には感じられなかった。
けれども今の、抑えきれないような喜びようや隠しようのない心配の色を浮かべる瞳の色は、彼女には戸惑いをもたらした。
ここまで親身になられるほど、親しいわけではない。それら一連の対応は、彼女にしてみれば確かに少し大袈裟ではある。
だが、相手は旅行者だ。慣れない旅先のハプニングに対しての反応だろうと思えば、解らなくも無い。きっとそういうものなのだろう。ナミは小さく頷いて、彼を見上げた。
「ではバスの乗り口まで送ろう。向こうのバス停から君の家の門までは、そう遠くはないからな」
相変わらずやや時代がかった言い回しで、レイジは彼女の隣に立ちエスコートする。
「レイジだって……市街地をこんなに歩き回って、道は問題ない? お宿まで、ちゃんと戻れる?」
「人生そのものが旅だからな。どこにいても、道に迷っている。だから、問題無い」
「何それ」
声に出して、吹き出して、笑う。気障なのか間抜けなのか。どちらかよく判らない彼の自嘲を、彼女は笑顔で受け止めた。
「迷うことには慣れている、ということだ。まあ、今日は半日この街を歩き回ったから、構造そのものは既に理解しているがね。ここは小さい街だし」
「あなた、地図を読むのも得意そうね」
「そうだな。でなければ、旅は難しい」
昨日、殆ど彼の国のこと、過去のことに話が及ばなかったのは、話題が和国文化に集中したせいもあった。だが同時に、自身に関する話題を彼が好まなかったような気配もあったのだ。彼女はそれ以上彼の身の上に関する話を広げていいものかどうか、判断がつかなかった。
若干迷ってから彼女は気持ちを切り替え、話題を変えることにする。
「明日は道場へ来るの?」
季節を先取りしたアイテムが綺麗に飾られたファッションビルの角を、2人は曲がる。
「いや、特に予定はない。老師と連絡を取ってからだな」
「明日は拳道じゃなくて、剣道の稽古をしているわよ。あの道場で」
彼が知っているかどうかは分からないと思い、彼女はその話題を口にした。
「神矢のおじさまの道場は、週の半分、4日が拳道の道場、そして残りの3日が剣道の教室として使われているの。拳道はおじさまが師範だけれども、剣道は、別」
時代劇が好きというレイジ。更に、あれだけの拳道の腕前だ。他の武道の嗜みもありそうだと思い、彼女は彼が興味を持ちそうな剣道の話題を振ってみる。
「剣道の教室は、別の男の人が指導を担当しているわ。魔力持ちの」
これまでの付き合いから、目の前のこの外国人が魔女や魔力持ちに対する抵抗感を持っていないことは理解できていた。差別主義者でないのなら、武道の師範が魔力持ちであることにも拘らないだろう。
「相当の実力者よ」
魔力もそこそこイケてるわ。男にしては。そう言いかけて、彼女は声を止めた。
総じて、魔力持ちは、男よりも女の方が量も質もいいものを持ち合わせている例が多い。魔力の強弱、行使の範囲の広い狭い、行使時間の長い短いを言えば、多くの場面で女の魔力持ちの方にまずその軍配が上がる。魔力持ちのコミュニティの中心人物がどこも最終的には女に偏ることも、魔力持ちが世界のどこであっても殆ど女系で家督が継がれていることも、そうした実質的なことが下地にあってのことだ。
だが、そのことを、魔力無しに対して強調する必要は無いだろう。そう思い、彼女は剣道の話に的を絞る。
「もしも興味があったら、訪問してみるといいんじゃない? 急な訪問でも、神矢のおじさまの名前を出せば、問題無い筈だから」
まあ、ちょっと変わった人だけど。と、小さく付け加える彼女の目に、目的地が見えてきた。
「剣道か……それはものすごく興味があるな、ナミ」
彼の瞳が、きらりと輝く。それは昨晩、サムライ・フィルムの魅力をいきなり語り出した、あのときの目つきに近い。
「時間は、午後からだね?」
「ええ、そこは拳道と大体同じ時間配分よ」
午前中は道場の掃除や、あるいは稀に少人数の稽古をしている時があるが、外部の人間が来るにはあまりいい時間ではない。彼女はそこまで言わなくてもいいと会話を流して、彼のことばを肯定する。
「では、その師範が来られる頃にでも、お邪魔しよう」
先程図書館で視聴し損なった時代劇のソフトを残念がることなく、それ以上に興味と期待を寄せて、男の目が子どものようにきらきらと光る。
「で、ナミも、来るのかね?」
「え?」
実は、ナミは剣道にも参加をしてはいる。世の魔女嫌い《ウイッチヘイト》への対策の意味もあって強く在りたいという願いを持つ少女は、師範が同族の人間ということもあり、剣道の教室にもずっと通っている。
ただ、明日はそのつもりではなかった。拳道と違い、剣道にはそこまで熱心になれなかった彼女は、辛うじて落ちこぼれにならない程度に通っているに過ぎない。不真面目もいいところだ。
「貴方は、竹刀を握ったことはあるの?」
「いや、無い」
バスターミナルで、中野町へと向かう乗り場に彼女は並んだ。ナミは無意識に、誰にも聞こえない程の小さな呪文を呟き視界に魔力を上乗せすると、進行方向の逆へと意識を向ける。遠く、バスターミナルへと向かって走って来るバスが見える。あれが折り返しのバス便になるのだろう、と彼女は思考の隅で考える。
「だが、一通り、剣は使ったことがある。和国の剣道とは違う法則性のものだが、恐らく応用は効くだろう。で」
バスがやってきた。並ぶ人の列が、動き出す。
「ナミも、来るのだろう?」
同じことをもう一度、彼は口にした。
「そうね、勉強が忙しくなくて、気が向いたら」
「来てくれ」
強い彼の口調に、彼女は思わず不思議そうな顔を彼に向ける。その目を見て、彼は、ハッと何かに気づいたような顔を返してきた。
「いや、もちろん、君が良ければの話だが……この上着の、お礼がしたい」
彼女の表情が和らぐ。ああ、そういうことか。彼は、お礼をのタイミングを探していたのか。
「そうね。でも、無理はしなくて大丈夫よ」
けれども、素直になんか返してやらない。笑顔で、でもやや挑戦的な色を唇のラインに込めて彼を見遣ると、彼女はバスのステップを上がる。
「時間があったらね。じゃあね」
「ありがとう!」
扉が閉まる。レイジが見送っている姿が見える席に座り、彼女はバスへと手を振る男を視界に入れた。彼女が気づいて手を軽く振り返すと同時にバスはすぐに動き出し、男の姿はすぐに彼女の視界から外れて消えた。
男の姿が見えなくなると同時に、彼女は、人探しの魔力がまるで行使できなかった先程までの自分の姿を思い返す。これは反省材料だ。
得手不得手は確かに誰にでもある。けれども、不得手を不得手のままに放置して、実害が生じていては問題だ。
それにはやはり、そろそろ本格的な使い魔の使役を考えなければいけない。
そうやって彼女はバスの中、魔力持ちとしての課題、自分の目標について考え続けていた。
(つづく)
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