第8話 悪魔の困惑

 こんな夢を見た。


 私は人生で1度だけ引っ越したことがある。生家であったが、非常に古くそこに新しく新興住宅地ができるということで、引き払って新しい家へ移り住んだ。でも、夢で毎回出てくる「自宅」は、この古い生家である。家具も当時のまま、もう随分様変わりしてしまっただろう、生家から見える風景も、当時のままで固定されている。そんな生家の窓から、私は外を眺めていた。

 空には墨の色をした濃い黒の雲が漂い、その合間からは眩しいばかりの青い空が見え隠れしているのが、対照的でより不気味さを強めている。いつもそうだ。この生家が夢の中で出てくると、高い確率で、空にはこんな墨のような雲が漂い、次第に嵐になっていく。私は生家の戸締りを厳重にして、嵐が通り過ぎるのを待つ、そんな夢だ。

 夢の中ではこれが夢だと気づかないことが多い。そのときも、既に取り壊されたはずの生家の中をうろうろしながら、窓はちゃんと施錠されているか、玄関は閉まっているかを細かく確認する。以前、ベランダの小窓が開いていて、そこから黒い蛇が1匹入り込んで、大変な目にあったのを思い出した。確か、自分の机の引き出しから、非常に長い竹の定規を引っ張り出して、蛇を叩いた後にベランダから放り出した。竹の定規は、到底机の引き出しに入らないほど長かった。


 家の戸締りが出来ていることを確認して、また窓から外を観察し続けると、道路の街路樹がいつのまにか背が高いフェニックスの木に変化していた。でもそんなこと構わない。そういうことだってあるだろう。

 やがて、フェニックスの木がしなり始める。風が強くなってきたのだ。古い生家は少しの風でも、窓ガラスがしなるぐらい揺れたものだけど、夢の中の生家はちょっとやそっとの嵐ではビクともしないから、とっても安心する。次第に空を漂っていた墨色の雲から、ゆっくりゆっくりと下へ筋が延びてきて、それがいくつもの竜巻となり、窓から見えるすべてを荒らし始めた。一方へしなっていたフェニックスの木も、今は大きな幹を軸にして、ぐるんぐるんと円を描くように回転しはじめている。ビクともしない生家から、それを眺めていると、一本の黒い竜巻がこちらに真っ直ぐ向かっているのが見えた。これでは直撃してしまう。だからといって、生家に足が生えて逃げ出せるわけもなく、あっという間に竜巻に飲まれてしまった。

 さすがに窓が割れるのではないのか、と思い、私は家の中央に陣取って、いつどこの窓が割れても逃げ出せるように構えていた。ふと、ベランダの窓に白い人影が映った気がして、ベランダを注視する。

 生家は黒い竜巻の中心部にいるようだった。やがて、ベランダの窓から、白い帯みたいなものが見え始める。竜巻に飲まれた生家の周囲を、白い何かがぐるぐると回転しながら囲んでいる。しばらくはその動きが早くて、正体がわからなかったが、次第に動きを遅滞させていき、肉眼ではっきりと見えるようになった。


 生家の周りを、手を繋いだ子供たちが回転している。


 頭からつまさきまで真っ白。服は白い布の中心に穴をあけて、そこに頭を通してるような、てるてる坊主のような格好だ。男の子も女の子ともに、ランダムで輪となり、手を繋ぎあって私の生家を取り囲み、宙に浮いたままゆっくり回転して竜巻の中心部となっていた。

 彼らは無表情であり、視線はずっと私を見ている。恐怖というより、不気味で仕方がない。もしかしたら、家の周囲に無数にある黒い竜巻も、その中心部にはこの子たちの仲間がいるのではないのか?彼らは無言で生家の周りを廻り続ける。


 大きな羽音と共に、それは突然途絶えた。気づけば、周囲を荒らしまわっていた黒い竜巻も、ひとつ残らず消え失せている。空には未だに墨色の雲が健在であるが、それも、見ているうちに、水で薄められるようにして、どんどん溶けてなくなっていく。空の色が薄くだけど見え始め、雲の間から、天使が覗いた。

 天使といっても、ガーデニングのオブジェとして飾られているような、石の彫刻のような姿であり、巻き毛の子供の姿をしている。ケルビム、つまりはキューピッドのようだった。それは、雲の合間からこちらの様子を確認するように、ぎこちなく首を動かしたあと、空の向こうへと姿を消した。

 窓を開けて、ベランダに出る。あれだけの嵐だったのに、外にはフェニックスの木が落とした椰子の葉が散乱しているだけで、そんなに被害がなさそうだった。私がベランダの手すりから顔を出していると、その手すりの端に、何か巨大な塊が座り込んでいるのに気がついた。いつの間にか、真っ黒な生き物が、手すりの上に器用に体を縮めて座り込んでいる。

 ヤギのような頭部に、薄っすらと灰色の地肌が見える程度に生え揃った硬そうな黒い体毛に覆われ、力強いコウモリの羽、尻尾はなかった。手足は長く、頑丈そうで、灰色の分厚く鋭い爪が生えている。それを折り畳んで、手すりに座り込んでいる彼は、どこからどうみても立派な悪魔だ。鉄の棒のようなものを持っている。

 彼は緑の色の眼で、ぼんやり空を眺めてながら、


 「悪魔が人助けしてるとか、間違っているよな」


 と呆れたように言うと、ため息をついて大きな羽音と共に山の向こうへ飛び去っていく。その頃にはもう、空は青い色を取り戻していた。

 つまり、あの忌々しい嵐は天使が起こしたものであり、それをやめさせたのは、悪魔だったのか。悪魔本人が困惑しているし、姿こそ名状しがたい者だったけど、あの白い子供たちや、彫刻のような天使よりはずっと親しみを感じたのは確かだった。

 街路樹はフェニックスの木から、いつものナンキンハゼの木へ戻っていた。

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