第2話 初めての進学塾!

わが家に中学受験という概念が湧いて出た翌日。ママはいつも以上に気合いが入っていた。いつもなら目玉焼き程度に簡単に済ませる朝食も、なんとなく鮭なんか焼いてしまって、春樹には「どうしたの?」って言われるし、パパには「俺、何かしたか?」なんて冗談を言われてしまった。でもそれでいいのだ。今日はパワーに満ちている。今日は新しい一日。春樹が心機一転、新たな目標に向かうのだ。ここはママとして、しっかりサポートしていかなければ。

「もう、食事は基本のキよ!たんぱく質取らないと、元気でないんだから。」

胸を張って答えた。


二人を送り出して、洗濯機を回し、その間に布団を干す。そしていつもより手早く、あらゆる部屋を掃除機掛けして、一日のルーティンをこなした。いつもなら、お昼のワイドショー番組は欠かさずチェックして、そこで紹介された食材や便利道具を買いに出かけたりもするけれど、朝起きた時に決めたのだ。今日は受験生のママデビューの日にすると。そのために、塾のリサーチと、本屋さんに行く時間を作ったのだ。いつもより、台所なんかは雑然としているが、まぁ、細かいことは気にしないことにしよう。

新聞広告をめくり、裏が白いチラシを見付ける。そこに通える範囲にある塾の名前を書き出す。そしてスマホで検索をしながら、特色をメモする。小さな個人塾を含めると10件以上になった。全国規模のフランチャイズ系や、特定の進学校に照準を合わせた地元の名門塾、学校の勉強の予習復習をしっかりするのが売りの寺子屋風の塾…そして教育方針も、個人指導からグループ授業、1教科から申し込める所から4教科で時間割が決まっている所、二つとして同じものが無かった。ホームページを探しながら、些細な事でも、気になったことは書いて行った。そして乱雑なチラシを見て、少し心がぐらついた。

そんな中でも、気になる塾を3つまで絞り込んだ。全国チェーンで家庭教師並みの親密個別指導がウリの『カテキョーゼミナール』、県内3教室で常陽一高に毎年100人以上合格させている『常進会』、そして学校の勉強を重視した『ハートサポート』。しかしここからが問題だった。絞り込んだ後、どんな風に春樹本人に合ったものなのか、選ぶ方法が分からなかった。勿論それぞれ、お気軽にご連絡下さい、とホームページにも書いてあるし、無料体験実施中、なんてキャンペーンも行っている。でも経験上、化粧品でも何でも、勧められるがままに買ってしまう押しの弱い自分では、のらりくらりと流されてしまうのではないか、そう考えると資料請求や問い合わせも、相当な勇気が要ったのだ。

「どうしよう…」

自分の化粧品なら、合わなかったら使わないで済む話と割り切れる。でも春樹の事となると、勉強嫌いになってしまったらどうしよう、などと無駄に心配してしまうのだ。手持ち無沙汰にスマホを弄る。

「…そうだ!」

その時にひらめいたのだ。そうだ、他のママ達に聞いてみよう!LINEアプリから、春樹のサッカー教室のグループ開く。同じ学校の子も多く、メンバーが30人もいれば、すでに塾に通っている子もいるだろうし、詳しいママもいるだろう、そう考えたのだ。その上このグループは若いママも多く、教室に関係することだけではなく、あの俳優さんかっこいいよね的な軽い話題も飛び交っていたから、何かしら聞けば反応が返ってくるだろう、そう踏んだのだ。

小学2年生の時から、春樹をこのサッカー教室に通わせている。小学校に入りたての頃、春樹を含む男の子グループが、やんちゃをして同級生の女の子を泣かせてしまったことがあった。その時に散々、これだからひとりっこはわがままでダメなんだ、挙句の果てには核家族で、こんな子ロクな大人に育たない、と相手の親から責められ、ひどく落ち込んだ。今となっては、髪を引っ張っただのその程度であれだけ騒ぎ立てる相手も相手だと思うことも出来るのだが、当時は本当に、悲しくて悔しくて、子育てに悩んでしまったのだ。そんな中、パパが協調性を鍛える習い事をさせようと見付けて来たのが、このサッカー教室だった。思えばその時も、長本という選手が海外の有名チームに移籍したとかでニュースになっていたような…。そんなサッカー教室のママの名前を見つつ、個別に送ろうか、グループに発信しようか、考えていた。その時、2週間前に発信された『明日の選考会、頑張ろうね(*’▽’)』の文字を見て、ふと手が止まった。選考会…自分も春樹も気にしていなかったが、あの時、確かJ1クラブのジュニアユースチームの選考会があったはずだ。思えば、サッカー教室も一枚岩ではない。わが家の様に、チームワークや団体行動を目当てに通わせている親もいれば、比較的本気でサッカーに捧げている親もいる。Jリーグとは言わないまでも、高校サッカーやユースで活躍する卒業生もいると聞いた。春樹のサッカーの腕前は、レギュラーの当落線上にあり、試合に出られてよかったね、というレベル。本人は、太郎丸も昔はサッカー少年だった、と聞いて、このラグビー熱の中でも真面目に練習に通っているが、他のママ達はどう思うのだろうか…ラグビーの事ばっかり話して、サッカーに本気じゃなくて、その上中学受験の話を勝手に始めて…怖くなって、そっとアプリを閉じた。大きく膨らんだやる気が、どんどん萎んでいった。

「わたしって、こんなに人望なかったかな…」

息子のことひとつ、相談できるママ友がいないなんて。声に出したら、どんどん心が暗くなった。こんな時は電話するに限る。気持ちを振り払うように、通話履歴を開いた。コール音が、いつもよりも長く感じた。

『もしもし、どうしたの?』

「あ、淑子お姉ちゃん。今、電話大丈夫?」

『大丈夫よ。』

「ねぇ、聞いてよ!春樹、塾に通いたいって言いだしたの!」

『なに、良いじゃないのよ。』

少し呆れた様に答える。晶子の姉、淑子は立海大学に通うお姉ちゃんと、常陽一高に通うお兄ちゃんの2人の親で、なんでも自分よりも早く経験している上に、頼り甲斐のある性格なので、何かと困ったことがあれば、しょっちゅう電話していた。

「そうだけどさ…でもわかんないのよ、どんなとこが春樹に合うのか。」

『なるほどねー。合う合わないもそうだけど、何のために塾行くの?』

何のために、の言葉がずしっと胸に刺さる。

「何って…春樹が、茗荷谷学園、行きたがってて。」

『中学受験かぁ…それなら、うちのお姉ちゃん塾でバイトしてるから、帰って来たら聞いておこうか?』

「ほんと!?」

『うん。割とうちのお姉ちゃん面倒見良いからね。後でまた電話するよ。』

「お姉ちゃん助かる!連絡待ってるね。」

『何時になるかわかんないけど。一応ね。あんま期待しないで待ってて。』

「はーい!じゃあねー」

電話を架けた時とはうってかわって、切る頃には一気に心が軽くなった。

「やっぱお姉ちゃんだなー」

ひとまず、塾の件は明日まで保留で良し、ってことにしよう。殴り書きに書いたメモを片付けて、外に出る準備をした。


自宅から車で約15分。田舎の代名詞ともいえる巨大モール、エオンモールが見えて来る。カラフルにぎらつく、地面にへばりつく巨体。低層で横に長い構造で、都会の摩天楼とは違う圧迫感がある。週末にパパと一緒に来る約束はしていたけれど、パパと一緒だとゆっくり見ていられない。ましてや本屋さんなんて。空きが目立つ駐車場に、車を泊めて、いつもの様にその大きく口を開けたエントランスに入った。

休みの日は、町のどこにこんなに人がいたのかと思うほどごちゃごちゃしている店内も、平日の午後はひともまばらだ。肩で風を切る様に一直線でエスカレーターに乗り、3階の書店に向かった。

近所で一番大きな書店で、うろうろしながらファッション誌や週刊誌、ノベルティ付きの雑誌の誘惑をかき分けて教育関係の雑誌を探す。同じところ3周した時に、ようやくビジネス誌と一緒に置かれているのをようやく見つけた。

恐る恐る手に取り、パラパラとその中身を覗いてみる。『御三家に入るための食事法』『子供の頭脳は親で決まる!?』『ライバルに勝つためのお年玉活用法』…これは結構過激派なのでは?と思いつつも、自分の学力レベルがちらついて不安な気持ちになる。一方で塾の宣伝に記事のようなものまで載っていて、全く受験のことは分からなかった。思えば、よく読んでいるファッション誌だって、4分の1くらいは広告で、ピンポイントで情報を得ることも難しいし、ちょっと見ただけだと流行だって分からない。連続で読まれることを前提としている以上、それは仕方ないことかもしれない。分かってはいるものの、小難しい専門誌を前に徒労感を覚えた。それでも来たからには、となるべく易しい雰囲気の見出しを探して、『勉強ができる子を育てる部屋づくり』と『はじめての受験!パパとママの心得』が特集されている二冊の雑誌を買って、ひとまず書店を後にした。


モールの1階に入っているカフェに入り、カフェモカとサンドイッチを注文して、漸く腰を下ろした。塾の事と本を買うこと、今日やると決めたことを一応成し遂げたはずなのに達成感はあまり感じられない。包みを開けてサンドイッチに齧り付く。パンがかさかさして、なんだか惨めな気持ちに拍車がかかった。店内からぼんやりと往く人々を見る。キャラクターのカートに子供を乗せた若いママが通った。あんな時代もあったなぁと、それが受験に振り回される年になってしまったんだなぁと、そう思うとため息が出る。もちろん、その時はその時で、悩みも尽きなかったのだけれど。この中学受験の日々も、後から思えばいい思い出になるのだろうか?たったの、あと1年ちょっとの小学校生活。春樹の人生の分岐点が初めて現れた。一方の自分は、まだそれを受け止め切れないような気がして、もやもやした気持ちが晴れないでいた。

ふと、時計を見る。14時35分。そろそろ帰らないと。行動しても悩んでも、結局私は主婦なのだ。毎日、いつ何時でも、ご飯を食べさせるのがお仕事なのだ。よしっ、と勢いよく立ち上がって、飲みかけのカフェモカを片手に、巨大モールを後にした。


帰宅目標の15時。荷物を置いてキッチンに滑り込み、冷蔵庫を開ける。残り物、端切れ野菜のオンパレードだった。

「せっかくエオン行ったなら食材も買ってくれば良かった…」

今からスーパーに行っても、春樹が帰ってくる前には戻れない。ため息混じりに冷凍庫に手を掛ける。

「…餃子でいいか。」

ひとまずメインの献立を決めて、麦茶を用意したり、煮物を作る準備をしたりと、いつも通りの作業に取り掛かった。


しばらくして、いつもの様にドタドタと子供たちの帰って来る雰囲気を感じる。程なくして春樹が走って帰って来た。

「ただいまーっ!」

「おかえりなさい。」

「ちょっとみんなとラグビーしてくる!」

「えっ!?」

昨日は帰って早々勉強に取り掛かったっていうのに、今日はランドセルを和室に投げ込んで、二階に駆け上がっていった。

「ちょっと!」

手提げに突っ込んでいたウィンブレと外遊び用のバッグを小脇に抱えて、階段を駆け下りてそのまま玄関に向かっていった。

「じゃ、行って来るー!」

「ちょ、宿題は!?」

出て行く春樹の後ろ姿に向かって叫ぶ。

「夕飯前にはやるからーっ!」

そう言い残して他の男の子達の集団に合流し、近所の公園の方に向かっていった。


「まったく…」

大きなため息をつきながら、ダイニングに戻って来た。

「ふふっ」

そうしたら何だか、気が抜けて可笑しくなってしまった。昨日は太郎丸になると言って勉強を頑張るって言ったのに、今日はお友達のところへ一直線。ころころと行動が変わって、全く男の子には呆れてしまう。でも、本当はダメなのかもしれないけど、少しホッとしたのも事実。塾も受験も、春樹の人生全部背負う覚悟で頑張ろうとしたのに、空回りし通しだった一日。当の本人があんな呑気な様子で、ちょっと肩の力が抜けた気がする。まだ、何も始まっていないんだから、そう焦っちゃいけないんだ。

「さぁ、ご飯の準備しちゃおう!」

ママはいつだって、忙しくしていなきゃね。


パパの帰りを待っている間、春樹は言われた通り、リビングで宿題をしていた。暗くなるころに泥だらけで帰って来て、まぁその泥だらけ具合にもちょっとびっくりしたのだけれど、そのまま部屋に直行しそうになるのを捕まえて、その場でランドセルを持ってきてリビングに座らせた。

「ごはんの前に宿題するって言ったよね?」

「でも今からウルトライダー…」

「録画しておけばいいじゃない。」

「えー!」

「えー、じゃないでしょ?約束したんだから。」

「下手な事、言わなきゃよかった…」

「こらっ!そういうこと言うと録画もしてあげないよ?」

「わかったわかった、宿題すぐやりますぅー」

そう言いながらも、きちんと机に向かってくれた。30分くらいで宿題を済ませて、その後は学校で借りた本を読んでいるようだった。

「珍しいわね。本を借りて来るなんて。」

「うん。調べ学習のやつ。」

「そう…」

真剣に本を読んでいる姿が、ふと昔のパパの姿と重なって見えた。


しばらくしてパパが帰ってきて、漸く夕飯の時間になった。

「え~餃子!?お前最近、ご飯手抜きしてない?」

テーブルを見るなり、パパが不満そうに言った。日中、外出してスーパーも行かずに帰って来てしまった以上、何も言えなかった。ため息をつきながら、パパは頂きますと言って箸を進めていた。

「でも俺、餃子好きだよ?結構これ、美味しいし。」

不穏な空気を察して、春樹が気を利かせてくれた。力なく、ありがとうと言って、黙って箸を進めていた。家の電話が鳴ったのはそんな時だった。ピクリとも反応しないパパの横を通り過ぎて、電話に出た。

「はい、中島です。」

『もしもし、こんばんは。みゆきです。』

淑子のところの大学生のお姉ちゃん、みゆきちゃんからの電話だった。

「みゆきちゃん!あ、お電話ありがとう!」

『こちらこそ、遅くなってごめんなさい。ママから色々話は聞きました。』

「ありがとね。わざわざごめんなさい…」

『もし、おばさんの都合がつけば、今週末そっち行っても良いですか?塾の資料とか持って行こうかと思って。』

「えっ!ホント!?わたし本当に塾の事も受験の事も分からなくて困ってたのよ…」

『ははっ!困ってるの電話からでも伝わってきます。』

「えーっ!」

『じゃあ、多分土曜日の夕方になると思いますけど、そっち行きますね。』

「ありがとう!待ってるね。」

『それじゃ、おやすみなさい。』

「はーい、おやすみー!」


受話器を置いて、再びテーブルに着く。今日一日の徒労を吹き飛ばすような電話にウキウキしていたのだが、座った瞬間にパパの機嫌悪いことを思い出した。何も言わずに、また黙ったまま食事を続けた。


食事が終わると早々に、パパは寝室に籠ってしまった。リビングでは悠々と、春樹が録画していたウルトライダーを見ていた。そしてエンディングに差し掛かった頃に話しかけた。

「週末に淑子おばさんとこのみゆきちゃん来てくれるって。」

「なんで?」

「おねえちゃん、塾の先生してるから、受験の事とか教えてくれるって。」

「へぇー」

「聞いてる?」

「うん…みゆきちゃんが来るんでしょ?」

めんどくさそうに春樹は答える。

「だから、遊びに行くなら午前中だけにしてね?」

「はーい…」

「聞いてる?」

「だから聞いてるって!テレビ見てるの、邪魔しないで!」

「だって、エンディングでしょ?」

「エンディングだって毎回違うの!」

「…」

余りの気迫に、ママは黙ることにした。パパも春樹も、男ってよくわからない。そう思いながら食器を洗って、翌朝の準備を始めた。

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