Junk dog blues
hibana
episode1 足して一になる数字、そして彼における平和(壱)
生まれたからには、生きる権利があると思った。
☮☮☮
安物のコーヒーの匂いが鼻腔をくすぐり、都は胃がきゅっと縮こまるのを感じた。ここのコーヒーは、少し酸味がきつすぎる。
コーヒーカップをテーブルに置き、都は娘の写真をなでた。監視カメラを背にしながら。
まだ四つの娘は、幼稚園にも行かずにきっと今日も同じ絵を描いているのだろう。都と同様に、たくさんの目から監視されて。それもこれも、都がある薬を作り出したせいだ。
それはとても強い麻薬だった。もともとは心臓の動きを一時的にセーブする薬で、外科手術等で活用が期待できたはずだったのだが、それと同時に脳へ直接的に働きかける睡眠導入剤でもあった。そう、人体に使用できないほど、睡眠薬としてその薬は強すぎたのだ。しかもその薬を使用した被験者が、まどろみの中であまりに明瞭でない頭の中、どのような命令にでも従うという結果も出た。もちろん都は、その薬をそのまま使おうとは思っていなかった。
しかしその未完成の薬は、驚くほどにニーズがあった。人体への悪影響を考えると不完全すぎるその薬が、だ。
都はその薬がどういったことに使われるか考えた。考えた末に、薬を持って逃げた。それが大体二年ほど前のこと。すぐに都は捕まって、あまつさえ娘を人質に取られて軟禁生活を送っている。一体自分たちを管理している人間が、何者なのかもわからないまま。
冷めつつあるコーヒーを口に運んで、都は胃のあたりを押さえる。やはり、酸っぱい。
ふと、頭上から微かなノイズが聞こえてくる。その音は段々と大きくなり、やがて言葉となった。「都」と低い声が呟く。
「都、一階に降りてきなさい」
新庄の声だ。都の軟禁されている施設では、恐らく上位の立場である男。そして都のことを直接的に管理している人間でもある。都に何か命令を下すのは、この男だ。
その命に背くメリットなど何もない。思わずため息をもらしてから都は自室を出る。都に反逆の意思がないことを確信しているのか、施設内では都の出入りはある程度自由であった。
階段をこぎみよく降りていき、都は一階へ降りる。もちろんエレベーターもあるが、都は階段を好んだ。自分から、今よりもっと小さな箱の中へ身を置きたくはない。
「はい」
新庄のいる部屋の前に立ち、都はうつむきながら呟く。
「都です。新庄さん、都です」
「ああ、構わない。入ってくれ」
唇を軽く噛んでから、都は部屋へ入った。新庄は都を見て、少し笑う。人を威圧する笑い方だ。吐き気がする。
都が新庄の前まで来ると、彼は部屋の奥を指差した。
新庄の部屋からは、下の階の部屋が見える。その部屋は『応接室』と呼ばれていて、ちょうど今はそこに一人の男がいるようだった。椅子に手足を縛りつけられて、黒い布で目隠しをされた男だ。
『応接室』とは、簡単に言えば拷問室だった。誰が名付けたのかは知らないが、悪趣味なネーミングだ。
「あそこに男が見えるね」
「ええ……。彼に何か聞きたいことがあるんですか?」
「いいや、今日はそういうことではないんだ」
「では、あれは新庄さんの趣味なんでしょうか」
「ある意味ではそうだ」
小さなとげを含ませた嫌味は、新庄の朗らかな笑い声に打ち消された。鳥肌の立った腕を隠しつつ、都は新庄をうかがい見る。
「あの男を、飼いならしたい。できるか、都」
飼い慣らす――――さすがに、笑い飛ばせる話ではない。しかも都が呼ばれたのだ。つまり、薬漬けにして言うことを聞かせようという話だ。それくらい、都にもわかる。
「新庄さん」
「断って欲しくはないものだな」
「何度も言っていますが、あの薬は人を服従させるものではありません。心臓の動きを抑えるものです」
「だが、あれを使うとみんな言うことを聞くじゃないか」
「判断力の低下です。もっと人体へ負担が軽い麻薬があるはずです」
「人体に負担が軽ければ薬漬けにしてもかまわないのか。お前も変わったな」
都は言葉を失い、その場でうつむく。まあいいじゃないか、と新庄は鼻で笑った。
「再起不能になる薬が欲しい。あの男は使い捨てだ」
再起不能どころか。
あの薬はただの睡眠導入剤ではない。心臓と脳に直接作用する薬だ。依存性はあまり高くないにしろ、何度も使えば身体があれを欲するようになる。一体何度目まで、耐えられるだろう。心臓が壊れるか、脳が壊れるか、都はそこまで試してみたことはない。
だけれど、それでも。
「都、お前に選択権があるなんて考えるほど、お前も薄情になったわけではあるまいね」
実結――――
まだ四歳の可愛い実結。毎日毎日、「ママの顔を忘れないように」と都の絵を描いている実結。あの子がひどい目に合うくらいなら、この手で誰かをひどい目にあわせたほうがいい。自分はどんな裁きを受けてもいい、地獄に落としてくれて構わない。親になるにはあまりにも未熟な都の、親として唯一譲れないものだった。
「わかりました。私が打ちます」
都の答えに満足したように、新庄は頷いた。
それ以上は何も言わずに、都は新庄の部屋を出て地下へと向かう。応接室の前で白衣を着込み、重い扉を開いた。
足音を響かせると、男は顔を上げる。包帯の巻かれた頭からは血がにじんでいて、新しい傷であることをうかがわせた。
「思い当たる節がない」
驚くほど落ち着いて、男はそんな風に言う。
「俺に何か聞きたいことがあるのかもしれないけど、あまり期待しないでほしい。昔のことは、全部忘れた」
注射器の中の透明な液体を確認しながら、都は黙って男を見る。この反応からすると、この男も一般人ではなさそうだ。
まず男の左手の人差し指にカバーをつける。壁に大きな心電図が現れた。リズムは、特に平均と変わらない。感情の高まりなどもないようだ。
それから都は男の首筋をあらわにし、アルコール綿で消毒をする。指の腹で触れると、血管が浮き出た。そっと針を刺す。
一瞬、男は緊張したように肩をこわばらせた。液体を血管に流していくと、男は小さく呻く。そうかと思えば、「冷たいね」と笑ったりもする。
「しかし解せないな。何を注射したのかわからないけど、俺を殺すんならここまで手の込んだことをしなくても」
都は答えない。ただ、「眠りなさい」と凛とした声で言い放つ。男は鼻白んだようで、ぴたりと口を閉ざした。
もう一度、都は「眠りなさい」と言う。そんなことを言わなくてもそのうち男は眠りにつくだろう。だけれど『彼が命令を受け、それに従った』という実績は必要だったのだ。彼の行動をコントロールするうえで、非常に有利になる。
「これは……? 薬なんかを使っても、俺に話せることなんて……ないんだけどな……」
やがて男はゆっくりと舟をこぎ始めた。熟睡までわずか二分。心電図に変化がみられる。リズムが乱れ、起伏もわずかになっていた。あと三十秒もかからずに呼吸が浅くなるだろう。だけれど、現時点ではそれだけだ。彼はよく眠る。心臓の動きが鈍くなる。彼が目覚めるまで、それだけだ。
都は一息ついて、部屋を出る。白衣を脱いで新庄の部屋までせわしなく歩いた。
「新庄さん、都です」
「ご苦労、入ってくれ」
速やかに部屋に入ると、新庄はまだ応接間を眺めていた。都の仕事ぶりもここで抜け目なく見ていたのだろう。
「あの男は一体何者なんですか?」
「昔は腕のいい『清掃業者』だったそうだが……今はひどく平和ボケしていてな」
確かに平和ボケという言葉がよく似合う、やわらかな声だった。その場に不釣り合いなほど落ち着いた声を思い出して、都はうつむく。男がもう少し悪人然としていたなら、なんの罪悪感もなく「娘のため」と胸を張れたのに。
「あとどのくらいで目覚める?」と、新庄が尋ねる。
「今眠ったばかりですよ」
「目が覚めたら、また薬を打て」
「そんな、危険です。彼の心臓は今弱っています。続けては打てません」
「死なせることを心配しているのか? 遅かれ早かれ、だ」
思わず、大げさなため息を吐いて都は応接間をちらりと見る。男はまだ眠りこけていた。きっとこのまま眠っていた方が幸せだろう。
「彼に何をさせる気ですか」
「ちょっとした力仕事さ……。平和ボケしているのは頭だけで、私たちが脳味噌になってしまえばあの男はとても有能だ。だから目標としては、あの男に思考を捨てさせて完全操縦できることだな」
「あまり得策ではないと思います。あの薬は心臓の動きを鈍らせる。血液の流れも悪くなりますし、酸素の足りない時間が続きます。運動には向きません」
「酸欠で動けなくなるまでどれくらいだろうな」
「なんです?」
「思考を捨てた人間は、生命維持にも気を配らず、一体どこまで動けるんだろうか。意識を失うその直前までか? どれだけ命令に従える?」
「勘違いなさらないでください。この薬は打った人間に快楽を与えるたぐいのものでも、思考を完全に支配する代物でもありません。ただ、究極的に判断力を鈍らせるだけです」
「だからいい。何のメリットもないのに、判断力が低下しているだけでこちらの言うことをハイハイ聞くんだぞ。面白いじゃないか」
「失礼ですが、新庄さんは施設の外でもそうして敵を作るようなしゃべり方をするんですか?」
「つれないな、僕はそこまで敵を作っているつもりはない。なぜなら、君が思っているより、僕の考え方はずっと一般的だからだ」
何も言えないまま、都は新庄の部屋を出る。
そろそろ男の目覚めるころだ。先ほど投与した薬は少ない。心配はないだろうが、一応強心剤の準備もしつつ都は降りていく。
応接間に入ると、男は微かに揺れていた。目覚めてはいるが、完全に覚醒していないのだろう。あの薬は、脳に直接作用して眠らせるという特性から、使用後に頭痛やめまいを引き起こす。被験者は目覚めるとよく、本人たちも無意識に頭を小さく回していた。彼らからは、世界が勝手に回っているように見えていたという。脳に嘘を吐く、微かなめまいだ。
まだ寝ぼけている様子の男に近づき、背後から首元を覗き込む。先ほどの注射跡が、もう目立たなくなっていた。
「あなた、名前は」
ふと気になって、都はそう尋ねてみる。男はひどく眠たそうに、「タイラ」とだけ答えた。
一度目と同じように、消毒をしてから注射針を刺す。冗談を言う余裕はないのか、男はただ「冷たい」と呟いた。
「次は温かくしてあげましょうか。どうなるかわからないけれど」
タイラは何も言わない。心電図がひどく乱れた。
彼の心電図が弱々しくも規則的な動きを見せるまで、都はその場を動かない。やがてタイラは寝息を立て始めた。今夜はずっと眠っているだろう。それだけの量を投与した。
この薬を投与し続けると、やがて睡眠をとれなくなる。どんな薬も使い続ければ効果がなくなっていき、量を増やしていくものだ。この薬も例外なく、効果が薄くなっていく。投与しても眠りにつかなくなる時が来る。そしてこの薬よりも強い睡眠導入剤は、今この場所にはない。事実上彼は、この薬が効かなくなれば睡眠をとるのが難しくなるだろう。もちろんそこまで行く前に、心臓が弱って死に至る可能性もある。どちらが幸せなのか、都にはわからないけれど。
両手足を椅子にくくりつけられたまま、タイラは死んだように眠っている。緩やかな黒いくせ毛が微かに揺れていた。
何とはなしに、都は着ていた白衣をタイラの肩にかける。どうやら彼は冷たい物が苦手なようだから。新庄はこの様子を見て鼻で笑っていることだろう。あまりに彼に感情移入をしすぎると、監視が厳しくなるかもしれない。それでもよかった。いっそ、彼のことから手を引ければ、どんなに楽か。だけれど彼に薬を投与する役が免除されることはないだろう。新庄は薬の管理を全て都にさせたがっている。
物音を立てないように応接間を出て、都はそのまま自分の部屋まで戻った。食事をとる気にはならず、ベッドに横になる。眠れない。あの薬を打ってしまおうかと思うけれど、今彼女が正気を失えば、娘は一人だ。眠ってなど、いられない。
どうにか休息をとると、朝方短い夢を見た。ベッドの中でどんな夢だったか思い出そうとしていると、都の部屋のスピーカーが鳴った。
「都、あの男が起きているぞ」
もう起きたのか、と都は時計を見る。彼は睡眠薬の類にある程度の抵抗があるのかもしれない。そうだとすれば、彼が眠れなくなる日はとても近いだろう。
昨日と同じように地下まで降りて、新しい白衣を着込む。応接室の扉を開くと、タイラは素早く顔を上げた。
どうやらもう薬の効果は切れてしまっているようだ。明瞭な声で「この、肩にかけてあるのはあなたの?」と尋ねてくる。都は答えない。その代わりに、「また薬を打つけれど」と言ってやる。タイラは少し黙って、首筋が見えやすいように頭を少し右に倒した。注射の跡がよく見える。少しだけ紫色に腫れていて、二回目は押さえが足らなかっただろうかと都は眉をひそめた。
「右にしましょう」
「その薬は一体なんなんだ? 死に至るものでもなければ、いい気分にもならないし。ただ眠くなるだけだ。あなたたちは俺を眠らせて、何か楽しいのか」
「楽しいわ。あなたの寝顔ってとてもキュートだから」
感情のこもらない声でそう言うと、タイラは黙って頭を左に傾げた。首筋を消毒し、血管に針を刺す。薬を押し出すと、やっぱりタイラはうめいた。「温かくしてくれるって言ったのに」と不満そうに言う。
「昨日のことを覚えているの?」
「ああ、昨日もあなただった」
「寝ぼけていた時のことも?」
「はっきり」
不思議なことではない。不思議なことではないが、珍しいケースだ。薬が効いていた時のことを、ここまで現実として認識しているとは。薬への耐性が強すぎるのか、もとより夢と現実の境がはっきりしているタイプなのか。恐らく、その両方だ。
彼はしばらく何かを考えていたようだったが、やがて「ひとつ教えてくれないか」と言い出した。
「あなたたちの狙いは俺だけだったのか? そう……たとえば」
ふと、そこでタイラは口を閉ざす。頭がガクンと前へ傾いた。眠ったのか、と都が心電図に視線を移すと、乱れ始めたところだった。
「ゆうきは」
いきなりタイラが言葉を発して、都は驚いた。まだ眠っていなかったようだ。睡魔と戦いながら何かを言っている。
「あいつもここにいるのか? あいつらは、ここで、あいつらも……くそ、眠いな。あんたに聞くようなことじゃないのかな」
呼吸が乱れていく。指先が、いつまでも眠らない主人を責めるように痙攣した。「いいえ」と都は答える。
「あなた以外にはこの薬を投与してないわ。他に誰も連れてこられていないみたい」
もちろん、都に本当のところはわからない。だけれど確かに都は彼以外に薬を投与していないし、この薬の管理はほとんど都に任されている。少なくともこの薬に限っては使用されていないはずだ。
タイラはひどく安心したように「よかった」と呟いた。それから完全に口を閉ざして、動かなくなる。眠ったようだった。
応接室を出た都は、その足で新庄の部屋へ向かう。気は乗らないが、一日に一度くらいは顔を見せなければならない。
「都です」
「なんだ、来たのか。入りなさい」
ため息を吐いてから、都は部屋へ入る。新庄は笑っていた。「随分と仲良くなったんだな」と嫌味を言われる。
「彼の仲間はどうなったんです?」
「今はまだ放っておいているよ。あの男が使えなかったら、次のチャレンジャーくらいにはなるかもしれないな」
「彼が使えたら?」
「それでも替えは必要じゃないか? まあ、僕の気分次第だね」
そう言って新庄は喉を鳴らす。「あの男が命をかけて守ったものも、まだ僕の手の平の上だ」とつけ加えて。
初めて、都は激しい怒りがわいてきた。だけれど都は、タイラという男がどんな人間なのか知らない。どんな風に罪人で、どんな風に悪人で、そしてどんな仲間を持っているのか、知らない。「どんなに憐れでも悪人だ」と言われれば、返す言葉も持たない。都自身が、娘以外どうなっても構わないと決めた救いようのない悪人であるように。
「都、あとどれくらいであの男を操れる」
「彼は意志が強いです。わかりません」
「薬をもっと打て。眠っているうちから少しずつ打てばずっと薬が効いている状態だろう。その方が早いんじゃないか?」
「ですが、そんなことをすれば心臓が持ちません」
「やってみろ」
明らかに、新庄は新しい玩具を見つけた子供のような顔をしていた。やってみろ――――新庄はそう言ったのだ。一人の人間の命で試してみろ、と。
都には拒絶できない。彼女が母親である限り、拒否権はない。
こんなことをしたって、都も娘も生かされているだけ。自由になるあてなどない。それなのにすがらざるを得ない弱い母娘は、今日も昨日と同じことを繰り返す。娘は母の絵を描き、母は娘のために他人を薬漬けにするのだ。誰も幸せになれないことを、痛いほどわかっていながら。
新庄の言う通り、眠っているタイラに少量の薬を投与する。何の反応もない。三時間おきに、少しずつ投与するように新庄が言った。新庄に知識はない。だけれど権限はある。都には圧倒的に権利も自由もない。だから、仕方がない。
自室に戻って遅めの昼食をとり、都は窓の外を見た。まるで、とりかごの中みたいだと都は思う。鳥籠の中で虐待されて、最後には死んで捨てられる。あの男を思うと、そんなイメージが離れない。それはもちろん都だって同じだろうけれど、それでも都ならばタイラを鳥籠から救ってやれるかもしれない。そんな考えを振り払いながら、都はベッドに横になる。
唐突に、ポケットから軽やかな電子音が聞こえてきた。都の携帯電話だ。残念ながらこの施設の人間からしか、かかっては来ない。頭痛をおさえながら電話に出ると、若い女の声がする。
「都先生、『お客様』の様子がおかしいのですが」
「起きたの?」
「いいえ、ただ、心電図の動きが不規則で」
思わず、都は立ち上がって部屋を出る。
「脈を確認して」
「新庄様が、都先生しか入れるなと」
「どうしてよ! 人がひとり死んじゃうかもしれないのよ」
電話の向こう側に、当惑の気配を感じ取った。彼女に怒りをぶつけても仕方がない。電話を切った都は、地下まで階段を駆け下りる。
応接室に入ると、確かに心電図の動きが細かく不規則になっているのが見えた。大股で彼に近づき、首筋に指をあてる。十秒待って、都は首を横に振った。
「……脈がふれません。横にさせて心肺蘇生を行います」
誰かしら聞いているだろうに、何の返事もない。気にせずに、都はタイラの手足を椅子から離そうと試みた。つなげているのは金属で、どう頑張っても動きやしない。
「ねえ誰か、この人のことを自由にしてよ。わかるでしょう、この人なにもできないんだから。早く、はやくしないと死んでしまうわ」
強心剤を打ちながら、都はそうまくしたてる。やがて扉が開き、女が入ってくる。手早く彼の手首と足首の鍵を外した。
ようやく都は彼を横たわらせ、胸骨の圧迫をする。
汗をかきながら三分、タイラの頬が紅潮してきた。左腕がゆっくりと動き、彼は自分の目隠しを外す。都は初めて、その瞳を見た。夜のように黒い、青く見えるほどに黒い瞳だった。
「なんだ」とかすれた声でタイラは言う。「人工呼吸はなしかぁ」と、ちょっと笑った。
一気に力が抜けた都は、その場でへたり込む。「そんなのやってる暇あったら、ひたすら心臓を動かしていた方が効率がいいわ」と汗を拭いながら言ってやった。
気だるげにタイラは身を起こす。首元を手で押さえながら、何度か咳をした。それから、なぜかタイラは上を見上げる。つられて都も見上げると、スピーカーから小さなノイズが聞こえた。
「薬が切れてしまったようだが、打たないのか?」
新城の声だ。からかうようでも、本気のようでもある。
「彼は今、死にかけたんですよ?」
「でも生きているじゃないか。問題ない」
当惑して、都はタイラを見る。タイラは不思議な微笑を浮かべながら、都に首筋を出してきた。
「でも、」
「俺は人殺しだ。君たちが何をしたいのかわからないが、なんでもやればいい。俺のことは人と思わなくて結構だよ。それに」
一旦、彼は口を閉ざした。憂いのある目をしたかと思えば、すぐに悪戯っぽい少年の顔をしてみせる。
「それに、もし死んでも君が助けてくれる」
まるで予期しない言葉に、都は笑ってしまう。さすがに死んでしまったら、助けようがない。
薬を打つと、彼は少しだけ嫌な顔をした。目隠しがなければ、彼は表情豊かだった。困ったような表情で、都を見る。
タイラは目をこすりながら「君の名前は」と言った。
「都。都
「そう、都先生……よろしく頼むね……」
ゆっくりと、タイラは都の方へ倒れてくる。それを抱きとめて、都はタイラの顔をのぞき込んだ。歳はいくつくらいだろう。都より年下のようで、だけれど年上と言われても不思議には思わない。寝顔はひどく幼いが、話す時の声の調子は妙齢のそれだ。
「……また彼を縛りますか?」
スピーカーに向かって、都は問いかける。「無論」と新庄は答えた。もういちどタイラの寝顔を見てから、都は立ち上がる。部屋を出ると、入れ違いに鍵を持った男女が応接室へ入っていった。またタイラを縛り付けるために待機していたのだろう。彼らは都に小さく会釈をする。都も小さく会釈をする。彼らが悪いわけではないのだから。
それからも、都はタイラに薬を投与した。タイラが目を覚まさないように、眠っているうちに。心停止することもなく、タイラはこんこんと眠り続けた。
ある日応接室に入ると、タイラは目を開けていた。「タイラ」と呼んでみると、顔を上げただけだった。薬を打ってみても眠らない。ただ、虚ろな瞳で都を見る。
ああ、と都はうつむいた。薬の効き目は切れていない。だけれど眠る気配もない。
「ねえタイラ、私に頭突きして」
そっと頭を近づけると、タイラは弱々しく頭をぶつけた。
「もっと強く」
今度は、脳天に響くほど強く頭をぶつけてくる。赤くなった額をさすりながら、都は呟いた。
「ああ、ついに」
操れてしまうんだわ。
彼は、眠れなくなってしまった。それと同時に判断力が急激に落ち、理解できる範囲の指示をそのまま行ってしまうのだ。
涎を垂らしながら、彼は黒い瞳を都に向ける。都は拳を握りながら、「私の仕事は終わりね」と呟いた。
背後で扉の開く音がする。若い助手がタイラの手かせと足かせを外した。その後ろをゆっくり歩いてきたのは、新庄だった。
新庄は、手足をだらしなく伸ばしているタイラの前で水の入ったペットボトルを落とす。タイラは目で追おうともしない。
「さあ、拾いなさい」
しかしタイラは動かない。新庄がまた「拾いなさい」と言う。見かねて都が「タイラ」と呼びかけると、彼は億劫そうに都を見た。
「水、拾って飲んでいいのよ」
ようやくタイラは動き出し、そのペットボトルを拾った。キャップをとり、勢いよく飲み干す。
沈黙が辺りを包み、新庄はじっとその様子を見つめた。
「どういうことだ? 都、こいつは君の言うことしか聞かないのか」
どういうことなのか、都にもわからない。比較的親密であったからなのか、それとも彼が正気であるうちに『命令』したのが都だけだったからなのか、タイラは彼女の言うことにしか反応しなくなってしまった。
「もっと薬を打てば、誰の言うことでも聞くようになるか?」
「もう少し判断力が落ちれば、あるいは」
だけれどそこまで判断力が落ちた生き物を、果たして人間と呼べるのだろうか。『俺のことは人と思わなくて結構だよ』とやわらかく言ったタイラのことを思いだす。今の虚ろな瞳とは重ならない、美しい夜の瞳。
「なるほど。つまり、僕たちの言うことを聞くようになるまでは、君がこの犬のご主人様ってわけだ」
「犬じゃ、ありません」
新庄は肩をすくめ、鼻で笑った。「どうしようか、彼に頼みたいことはたくさんあるんだ。全て君を通さなければならないと言うのは不便だな」と取り繕うように言う。
「そうだ、こうしよう。君たちを現地まで運び、そこで君に短い命令をしてもらう。そこまで複雑なことをやらせるつもりはなかったし、それが簡単でいい」
「つまり、私たちは何の説明も受けずに犯罪の片棒を担がされると?」
「それじゃあ今と変わらないじゃないか。君たちは主犯だ」
言葉を失う都を尻目に、新庄はもう部屋から出て行こうとしていた。「準備をしなさい。今から行く」と思い出したようにつけ加える。
タイラを連れ歩くのにひどく手こずっている若い男たちを見て、都は「行きましょう、タイラ」と手を引いて歩いた。声が震えた。
車に乗せられて、都とタイラは近くの廃墟へつれられる。二年ほど前にはビジネスホテルだった場所だ。
「僕の散歩コースなんだけどね」と新庄は楽しそうに言う。「ここは不良のたまり場で、よくかわいそうな少年少女がひどい目に合っているんだ。いつかなんとかしてあげたくてね」
臆することなく新庄は中へ入っていった。仕方なく、都もタイラを連れて中へ入る。
今日もまた、弱い者がまた弱い者を虐げる、嫌な音が聞こえてきた。
「殺そう」
いっそ清々しく、新庄はそう言った。まさか、と私は思う。
「まだ子供です」
「子供なら子供を傷つけていいのか? 時にはいきすぎて命さえ奪うぞ、あいつらは」
「ですが、これがあなたのしたかったことなんですか? 私情じゃないですか」
「もちろんもっとたくさん、やりたいことはあるよ。こうやって一つずつ世界をよくしていこうじゃないか」
「世界を、よく……?」
狂っている。子供を殺して世界を平和にしよう、なんて。思いつきもしない。
だけれど、どんなに狂っていても。
「実結ちゃん」
新庄はじっとりした笑顔を浮かべた。
「さすがは君の娘だよ。まだ四歳だというのに、もうあちらでファンをたくさん作っているそうだ。僕にそのような趣味はないけれど、それでも僕が許可すれば」
実結ちゃんのファンは色々とやりたいことがあるようだよ。
そう都の耳元で呟いて、新庄はタイラを見た。タイラは、うつらうつらしながら都を見る。
「タイラ」
ゆっくりと少年たちに近づきながら、都は口を開く。
「殺して、タイラ」
願わくば私のことも、一緒に殺して。お願いだから。
都が立ち止まっても、タイラはひとりで歩いていく。ようやくこちらに気づいた少年が、大きな声でわめき散らした。タイラは立ち止まらない。少年たちは口々にののしりながら、タイラを囲む。
まず金属バッドを振り下ろそうとした少年の、胃のあたりにタイラが蹴りを入れた。少年が何か吐き出しながら逃げようと立ち上がる。驚いてとっさに反応ができない少年たちの、一番背丈の大きい子の髪を掴んでつるし上げた。
笑い声が響く。最初、都はそれが一体誰のものなのかわからなかった。だけれど確かに、笑っているのはタイラだ。あまりにも快活で、清々しい笑い声。その声だけを聞けば、この場所で何か暴力的なことが起こっているとは誰も思わなかっただろう。
誰も何も言わない。やがて、タイラは笑うのをやめた。代わりにぼんやりと辺りを見渡し、不思議そうに都を見る。「外か?」と独り言をこぼし、それから自分の腕の中でもがく少年を観察し始めた。
ようやく、何かを思い出したようだ。一、二度まばたきをして目を丸くする。しかし彼は動揺を表に出すことはなく、ごく自然に口を開いた。
「リーダーはこいつだろう。どうだい、君たちのこわーいリーダーくんがこんな風に捕まっちゃって」
その場で硬直する子供たちの頭を、タイラは一度ずつ叩く。子供たちが悶絶するほどの強さだ。それからいじめられていた少年を解放してやる。
「お前なんなんだよ」
転がされた子供の一人が、タイラに向かって叫ぶ。「いじめっ子だよ」とタイラは答えた。
「君たちと同じ、いじめっ子だよ。でもね、いいことを教えてあげよう。弱い者いじめをするやつはまた誰かにいじめられる。その証拠に、俺はいじめっ子だから今現在進行形で別のやつにいじめられてるんだぜ」
「はあ? 何の話だよ」
「んー、悪いことはしないに越したことがないってことかな。じゃないと」
どこか笑顔を引きつらせながら、タイラは背後を指差した。
「あんな関係ないおじさんに『死んでほしい』なんて思われちゃうんだ。もう少しで君たち皆殺しだったんだぜ」
頭をおさえながら、やっとそこまで言ってタイラは少年たちから離れる。新庄の前まで歩いていき、目に確かな光を宿したまま笑った。
「あなたが彼女の上司?」
「挨拶が遅れて申し訳ない。新庄だ」
「さすが肝が据わっていらっしゃる。今ここで殺してもいいんだけどな」
「そうか? どうも、そこまで余裕があるようには見えないが」
タイラは顔をゆがめて、その場に膝をついた。頭を押さえる右手が、大きく震えている。「先生、頭が割れそうだ」とうめきながらタイラは言った。
「まったく、無駄なことを。あの餓鬼どもが更生すると思っているのか? そりゃあ脅せば大人しくはなるだろうが、この男は恐怖政治でもやりたいのかね」
都は恐る恐るタイラに近づき、彼の体を支えた。「薬を打ってやればいい」と新庄は冷ややかに言う。「それで頭痛は治るんだろう」と。
言われるがままに注射器を出し、タイラの腕に針を刺す。その様子をじっと見て、タイラは顔をしかめた。それから少し目を閉じて、タイラは呼吸を整える。「タイラ」と耳元でささやくと「大丈夫」と彼はうなづいた。「まだまともだ。誰も殺さない。だけど、」呼吸が乱れていき、やがて目から光が消えていく。不安そうに、言葉をつづけた。
「俺はあのガキどもを殺そうとしてた。なんなんだ、この薬は」
初めて、タイラはすがるように都を見た。ひどく不安で、心もとない表情だ。まるで、迷子の子供のように。
それに対して都は何も言えなかった。彼がこの薬を使ってから、まだ殺人を犯してはいない。だけれどそれを言ってどうする。高い確率で、彼はこれから人を殺す。都の言葉に従って、人を殺す。
そんなことを考えているうちに、タイラはもう人の言葉を理解できない状態になっていた。都に体を預けたまま、眠ることもできずに口を半開きにしている。
「先ほどの威勢は欠片もないな。いっそ完全な廃人になってしまえばこの男も楽だろうに」
まあいい、と新庄はひとりごちた。「車に乗れ」と都に指示を出す。その通りに都は動く。タイラも、動く。
「しかし、このまま一日を無駄にするのは許しがたいな」
車に乗った新庄は、そうぽつりと言った。そうだ、と小さく笑う。
「もう一つ、世界を良くしに行こうか。さすがに今回は僕も大人げなかったし、次はそう――――クズどもを、掃除しに行こう」
車は慌てて方向を変えた。
窓の外を見て、都は「タイラ」と呟く。タイラは何も言わない。ふと、彼の下の名前が気になった。彼がそれを都に教える日はあるのだろうか。彼がまだ正気を保っていられるうちに、と考えて都は思わずうめき声をもらした。
「何を泣いている」
新庄が笑いながら都を見る。「泣いていません」と都は語気を強めて言った。
何がそんなに悲しかったのか、都自身にもわからない。だけれど確かに胸が――――久しく何があっても大きく動かなかった胸の奥の方が、ひどく痛かった。
やがて車は停まり、扉だけ開く。新庄は笑っているだけで、降りようとはしない。「そうだ、薬を打って行け。さっきはいいところで切れてしまったようだからな」と無責任な調子で言った。
「先ほど打ったばかりです」
「だからなんだ」
ようやく都は理解した。新庄は先ほどから、タイラに腹を立てているのだ。いっそ死んでしまえ、とその冷ややかな表情は言っていた。早くしろ、と言われて都は少量の薬をタイラに打った。これくらいでは、もはや効きはしないだろう。
「片っ端から殺すように言え」
「無差別殺人をさせる気ですか」
「いいや、こんなところをうろついているのは死んだ方がいいようなクズだけだ。だから、全員殺せ」
ちらりとタイラを見るが、正気を取り戻す気配はない。「みんなころして」都はひどく平坦な気持ちでそうつぶやく。その言葉通りに、彼が都や新庄を殺してしまえば、それはそれでいいのに。都のそんな思いとは裏腹に、タイラは新庄の事さえ敵意を持っては見ない。
都はタイラを車から降ろし、手を引いて二人だけで歩く。もうあたりは暗くなっていて、新庄からどこへ行けとも言われていない都は、ただ奥へと進んだ。
暗がりから現れた男が、タイラに肩をぶつけて難癖をつける。タイラは何も答えない。それに腹を立てた男が、何かわめいて殴りかかった。
唐突に、タイラは男の首を片手で掴む。あわを食った様子の男がその腕をかきむしった。しかしやがて、勢いをなくして動かなくなる。
「タイラ」
震える声で、都はその名前を呼んだ。タイラは振り向いて、首を傾げる。
あなたそんな風に簡単に、人を殺せないはずでしょう?
そう問いかけたい気持ちをぐっと抑える。なぜなら確かに、彼は人を殺すのだ。
タイラは笑っている。邪気のない顔で、笑っている。
待って、と言えば立ち止まるのだろうか。立ち止まってどうするのだろうか。彼は都が何か言うまで、人を殺し続けるのだろうか。その罪はそのまま、都のものなのだろうか。
肯定、沈黙、否定、肯定。
自分で自分に問いかけて、そして自分で答えを出す。その間もタイラは足を進めていた。足を止めずに人を殺す。そのたびに、にっこり笑いながら都のことを見た。『これでいいんでしょう?』というように。都が顔をゆがめると、タイラは不思議そうに目を丸くした。なぜ喜ばないのかさっぱりわからないという、あどけない顔で。
つまらなそうに背を向けて、タイラはただ歩いた。
薬を使った時、人は基本的に自分の理解しうる範囲の命令を実行する。理解という言葉の解釈は人それぞれだが、都はそれを『経験したことのある動き』に限るのではないかと解釈していた。もちろんそう判断するには材料が少なすぎるけれど、歩き方であれ走るフォームであれ、普段の自分のもの以外は実行しないのではないか。いつかの記憶を追いかけて、いつかの自分の背中を追いかけて、動いているのではないか。
迷いもなく歩いていくタイラは、一体いつの記憶と同じように動いているのだろう。いつの自分を追いかけて、歩いているのだろう。
振り向いて、彼は言う。
「そんなかおをしないで」
それは都に向かって発した言葉でありながら、都に言ったものではなかった。
「俺は人殺しだから」タイラは目を伏せる。彼は足を止めたのに、どこからか複数の足音が聞こえて都は肩をこわばらせた。タイラは気付いていないのだろうか、目を伏せたまま薄く笑う。「きみのためにできることがないよ」と、タイラは言った。いつ、誰に向けて言ったものなのか、都にはわからない。ただひたすらに、その笑顔は苦しそうだった。
都が何かを言う前に、タイラはまた歩いて行ってしまう。嫌な予感がして、都はタイラの名前を呼んだ。
「ねえ、タイラ」
その瞬間、床と靴が擦れる高い音が響き、一人の男がタイラのこめかみあたりに蹴りを入れた。見事当たったかのように見えたが、タイラはすれすれで避けていたようだ。男の頭を掴んで、地面に叩きつける。その背中から突っ込んできた別の男が、ナイフを大きく前につきだした。タイラは素早く振り向いたが、ナイフが彼の腕に刺さる。一瞬だけ、タイラは興味深そうにそれを見た後で、怯えきった様子の男を殴った。
いつの間にか多勢に無勢だ。男たちに囲まれて、タイラは腕に刺さったナイフを抜く。塊のような血が、地面にいくつも跡を作った。
じりじりと間合いを詰める男たちの、一番大きな坊主頭をタイラが狙う。軽やかに駆けていき、彼を捕まえようとする数人の手を避けて足元を転がった。そのまま、男の足にナイフを突き刺す。思わず屈んだ男の首に、素早く足から抜いたナイフを刺した。横一文字に裂くと、あまりに大量の血がそのままタイラの髪を濡らす。
その間、わずか十二秒。誰もその時点で起こったことへの対処ができない。
やがてタイラは、坊主頭の死体にくるりと背を向けて反対側の男にナイフを投げた。緩やかな弧を描いて、男の肩に刺さる。小さなどよめきが起こった。ようやく近くの男がタイラに向かって手を伸ばす。その手を掴んで、タイラは思いきり逆側に折り曲げた。骨の砕ける音がして、男は悲鳴を上げる。その男を、先ほどナイフを投げた方向に突き飛ばし、タイラも同じ方向へ突進していく。何人かがそれを追いかけるが、その頃にはタイラは投げたナイフを素早く回収してそれが刺さっていた男の首を裂いていた。また迷いなくタイラがナイフを横に滑らせると、男が一人、目のあたりを押さえてうずくまる。後ろから近付いてきた男に重い回し蹴りを食らわせ、倒れた後も二度三度同じ場所に蹴りを入れる。男はうめいて吐瀉物をまき散らした。
男たちは途方に暮れている。逃げることもできず、死ぬ覚悟もないまま、仲間たちが蹂躙されて殺される様を見ている。
だがしかし、タイラの方でも動きを止めていた。心臓のあたりを強く押さえて、呼吸を整えている。
心臓の動きをセーブし、血の流れまで抑える。――――あまりに、運動に向かない薬。それなのにここまで激しく動いたのだ。彼は今、呼吸を整えるくらいでは回復しない深刻な酸欠状態のはず。一向によくならない状態に、呼吸は段々と不規則になっていく。獣のように音をたてて息を吐き、タイラはただ喘いでいた。このままでは脳に酸素が行かなくなり、意識がなくなる。
「タイラ!」
ゆっくりと、タイラは振り向いた。生々しい呼吸音が弱々しくなっている。
「こっちへ」
タイラはいきなり道を示された子供のように、大人しくついてきた。その手を掴んで、都は歩く。男たちは呆然と、それを見送っていた。自分たちの隣に重なる死体をちらりと見て、タイラたちを追いかけるのは諦めたようだった。
安心したのか、タイラの呼吸は弱々しくも規則的なリズムに戻っている。だけれど早く彼のことを休ませなければならなかった。心臓の動きが元に戻れば、急激に血圧が上がる。最悪、脳の中で血管が切れてしまう恐れもあった。
「もう少ししたら」
休みましょう、と都が言いかけたその時だ。
幼い足音が、背後に響いた。
「タイラ!」
まだあどけない少年の、期待のこもった声。ああまずい、と都は思う。
タイラが、立ち止まった。
「ねえ、タイラでしょう? そうでしょう? どうしてこっちを見てくれないんですか? ぼくのことをおこってる? ごめんなさいタイラ、ごめんなさい」
少年は喜びと不安の入り混じった顔で、タイラに近づく。それから「生きていてよかった――――」そう言いながら、強くタイラを抱きしめた。
不意にタイラの呼吸が、また不規則になる。
動かないタイラに、少年は首を傾げながら離れた。ようやく、何かに気づいたように当惑気味の顔をする。
「タイラ……だれをころしてきたんですか?」
抱きしめたときについた血を眺めながら、少年はつぶやいた。濃い鉄の臭いが、言い訳を認めない。タイラが拳を握るのを、都は見た。
瞬間、タイラはくるりと振り向き、少年の襟首をつかんだ。驚いた少年は目を丸くしてタイラに手を伸ばす。
「どうして? ぼくをころすの? タイラ、ごめんなさい。もっときをつけるから。ひとりでたたかえるくらい、つよくなるから。タイラ、いたかったんですか? くるしい? なにかいって……タイラ」
少年の指先が、タイラの頬に触れた。最初はおそるおそる、やがてその小さな手のひらがしっかりと彼の右頬を優しく包む。
いきなりタイラが、少年の襟首を離した。少年は地面を転がって咳をする。タイラ、と苦しげにまた呼びかけた。
「ユメノもノゾムもアイちゃんも、みんなしんぱいしてますよ。かえろうタイラ」
怯えた表情で、タイラは自分の頭をおさえる。苦痛と恐怖の表情だ。薬が切れてきている。このままでは頭を打ちつけて自死しかねないと都は思った。
静かに近づいていき、都は後ろからタイラを抱きしめる。
「殺さなくていい」
ころさなくていい、とタイラは繰り返し呟いた。すっかり熱を失った目を地面に向けながら「いみがない」とも言う。それがどういう意味なのか、都にはわからない。ただ静かにタイラの手を引くと、彼は大人しくついて来た。
「おねえさん」
胸が苦しくなるほどひたむきな声で、少年が都を呼び止める。
「タイラはいじめられっこのみかたです」
都は振り返り、少年と見つめ合った。「つよくならなきゃいけない」と、少年は震えながら言う。自分に言い聞かせるように、言う。
黙ってうなづいて、都は歩き出した。少年も、もう何も言わない。ただずっとこちらを見ていた。
しばらく歩くと、タイラが小さな声で「センセ」と呼んだ。
「君はひどい人だ」
「……そうね」
「だけど謝らない。頭のいい人だ。今ここで俺に殺されることを良しとしている」
「そう、ひどいでしょう。自分で死ぬこともできずに、あなたがまた手を汚すことを望んでいるのよ」
「本当にそう思っているなら、そんな自己嫌悪に満ちた顔はしないと思うけどね」
変な人だ、とタイラはくすくす笑う。彼がそうやって笑うところを、当たり前だけれど都は初めて見た。何も言わず、都は彼の腕をとって怪我を確認する。ハンカチで止血すると、それはすぐに赤く染まった。
「頭は、痛くない?」
「痛いかな」
そう言って、タイラは腕を差し出してきた。「打ってよ、薬」と無邪気に言う。
注射器を取り出した都の腕を、いきなりタイラは掴んだ。都は思わず「なに?」と素っ頓狂な声で言ってしまう。その口を、ふさぐように彼がキスをした。都の手から、注射器が離れていく。その次の瞬間、都の首筋にちくりと針が刺さった。
冷たい液体が少量、血管を駆け抜ける。唇は離れない。貪るような深いキスだ。無意識に息を止めていたのか、酸素が足りなくなって都はくらくらした。
ようやく唇を離し、タイラは「奪っちゃったぁ」と笑う。それから、
「決着をつけよう、俺が正気のうちに」
そう言って彼は都を抱き上げた。待って、と都は首を横に振る。声がかすれた。
「俺なら」
どこか遠くの方を見ながらタイラはぽつりとつぶやく。「厄介なものは一緒に保管するなあ。てんでバラバラなところにあると、反抗の芽を摘みにくい」と、やわらかく言って彼は都を運んで行った。そのうちに都はうつらうつらして、彼の胸に身を任せる。呆気ないほど簡単に、都は眠りに落ちた。
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