サクラビルを出て

安東 亮

序章その1

 安物買いの銭失い。


 値段の安いものにはそれなりの理由があって安いのだから、つまり質が良くないのだから、買っても気に入らなかったり使ってもすぐに壊れてしまったりして、結局長持ちせずかえって損をしてしまうこと。

 よく使う格言。まさに俺たち夫婦にぴったりの言葉だ。


 毎朝のスーパーのチラシに血眼になって一円、二円の違いに一喜一憂する吝嗇家を嘲る人がいるだろう。

 謳い文句に踊らされて要りもしないものであっても次から次へと注文してしまう浪費家を蔑む人もいるだろう。

 しかし、俺たちは嘲りも蔑みもしない。

 なぜなら彼らの心情は痛いほど理解できるからだ。


 新婚の俺達夫婦は似たもの同士。

 二人とも安物には本当に目がない性分で、昔からその場のインスピレーションに忠実に行動しては、ただただ押入れに存分の肥しを与えてきた。

 嗚呼、失敗した。

 そう思う度に次からはもっと高くて良いものを買おうと心に誓うのだが、いざ簾のように並ぶ値札を目の前にすると自然と鼻が利いて大特価物を見つけてしまう。

 しかも二人が一緒にいると相乗効果が生まれるのか価格の下方修正はとどまるところを知らない。

 今回の新居選びも、少しでも家賃の低いものを低いものをと様々な妥協を積み重ねたあげく、見かねた感じの仲介業者さんのフォローがあって何とかこのサクラビルに決めたのだが、結局入居三ヶ月の今、俺たち夫婦は再度の引越しの準備をしている。


 当初の理想は高かった。

 二人だけの甘い新婚生活をスタートさせる記念すべき愛の棲家なのだからと意気込んで互いに仲介業者が営業スマイルを引きつらせるぐらいに次から次へと希望を出し合った。

 実際、俺たち夫婦を担当してくれた岡本さんは途中で青ざめて俺たち夫婦の口を手で塞ごうとしたほどだった。


 新築、3LDK、フローリング、オートロック、大きな下駄箱つきの広い玄関、南向きで日当たり良好、ウォークインクローゼット、ちょっとした家庭菜園ができる広いベランダ、駅・コンビニ・スーパーの近く、車の騒音なし、アイランド型キッチン、オール電化、ウォシュレット付トイレ、床暖房、浴室暖房、二人でゆっくり浸かれる大きなバスタブ、駐車場完備、光ファイバー、ペット可……。

 今思えば恐ろしく世間知らずだった。


 俺も俺の奥さんもそれまで一人暮らしの経験がなかった。

 生まれてこの方ずっと両親兄弟と一つ屋根の下で暮らしてきた。

 幼いころは兄や妹と同じ部屋。

 俺は勉強机が兄弟に一つという時代もあった。

 下腹を押さえてトイレに駆け込もうとしても先客が待っていたり、たかがテレビのチャンネル争いで生傷が絶えなかったり、自分の部屋から一歩出れば犬も食わない両親の夫婦喧嘩に出会ったり。

 家族同士といっても個性ある人間の集団である以上色々ままならないことばかりなのだ。

 だから二人にとって一人暮らしは憧れの世界だった。

 見たいテレビを見て、寝たいときに寝る。

 食べたいときに食べ、トイレを我慢せずに使い、好きなときに風呂に入る。

 その風呂に入れる入浴剤も自分で選ぶ。

 そう言えば泡のお風呂に入ってみたいというのが奥さんの夢だったはずだ。

 俺も奥さんもずっと一人暮らしを夢想して生きてきた。

 玄関ドアのこちら側は全て自分だけの世界だと想像を膨らませるだけで思わず目眩がしそうになった。

 一人暮らしの友人が「料理が面倒だ」とか「朝起きるのがつらい」などといった一人きりでの生活の苦労について語るとき、俺も奥さんもその友人が直視出来ないほど眩しく見えたものだった。

 生活を苦しめるという家賃なるものを毎月滞りなく払って行く事にさえ恍惚とせずにはいられなかった。


 三ヶ月前、婚姻という法的手続きを経ることによって俺たちが得たのは念願の「一人暮らし」ではなく「二人暮らし」だったが、積年の夢だった自分だけの城というものをようやく手に入れることができた。

 若い夫婦はこれから生活を送る新居に光り輝くベールに覆われた理想郷を夢見ていた。


 現実を知ったのは希望を出し尽くしたときに返ってきた家賃の相場を聞いたときだった。

 今ではその値段は覚えてもいない。

 きっと忘れなければ先に進めないような額だったのだろう。

 あまりの驚きに二人ともまさに魂消て開いた口が塞がらなかった。

 放心状態から醒めたときには自分のあまりの世間知らずさに耳まで赤らめ、お互いに顔を見つめ合ってはにかんだのだった。


 意を決した夫婦が繰り出したのは専売特許の妥協の嵐だった。

 二人がそろえば怖いものなどない。

 価格はどんどん下方修正されていった。


 築年数など関係ない。

 部屋数は二の次。

 台所の設備など水と火さえ出れば何でも良くなり、コンビニの存在など気にしていられなくなった。

 駅まで自転車で行ける範囲なら文句はない。

 せめて風呂ぐらいは一人で入りたいと思いなおせばバスタブなど小さくて構わない。

 ウォシュレットトイレが汲みとり式に変わっても耐えられないものではない。


 希望条件にも切りがなかったが、妥協も延々と続く新婚夫婦に岡本さんがたじたじとなりつつ勧めてくれたのがサクラビルだった。

 あれはどうかこれはどうかと新居選びに疲れてきていた夫婦が捨て犬のようなすがりつく眼差しで見上げたとき彼は掛けている眼鏡のレンズを鈍く光らせ自信に満ち溢れたスマイルと流暢な口調でこのマンションの説明をしてくれた。


 築年数は二十年と古いですが頑丈な鉄筋コンクリートの三階建て。

 夫婦二人だけならとりあえず六畳と四畳半の2DKの間取りで十分でしょう。

 駅から徒歩八分という最高の立地。

 高台にあるので見晴らしは絶景。

 幹線道路からは外れているので車の騒音の心配はありません。

 広めのベランダは東向きですが朝方の日当たりは抜群。

 トイレとお風呂は別々ですからどちらもゆっくり使っていただけますよ。

 そしてこの内容で家賃はなんと、たったの……。


 俺たち夫婦は動物園のサルが餌に飛びつくように脇目も振らず即座に食いついた。

 サクラビルはまさに俺たち夫婦のためにあるマンションのように思えた。

 売り込み言葉の響きを聞けば思わずうっとりとするほどで文句の付けようがない。

 ことは急げと岡本さんの運転する車でその日のうちにサクラビルを見に行った。


 岡本さんの言ったことは全て間違ってはいなかった。


 2DKの間取りなら窮屈感はない。

 実際に歩いてみたわけではないから分からないが岡本さんの説明では駅はそう遠くはなさそうだ。

 そして何よりそこからは自分たちが生活している街並みが思うままに一望できるのだ。

 見渡す限り視界を遮るものが何もなく、西の果てに太陽が没していく赤い景色があまりにも雄大だった。


「地平線が見える」


 空と大地の境を見つけた俺は柄にもなく感動してそうつぶやいてしまった。

 それはビルが乱立する都会で暮らす俺たちには新鮮な体験だった。

 同じ姿勢での作業に疲れたときに思い切り伸びをするのが気持ちいいように、地の果てに向かって視線を存分に飛ばせるという爽快さは胸がすく思いだった。

 夜になればロマンチックな夜景が楽しめますよと言った岡本さんの言葉に今度は奥さんの方が柔らかく目を細めた。


 少々外壁にコケが生えようが階段の手すりに錆が浮いていようが目に止まらなかった。

 これ以上の物件はないに違いない。

 俺たち夫婦は何かに急き立てられるようにその日のうちに契約を済ませてしまった。


 高校時代に歌手を目指して四六時中狂ったようにギターを掻き鳴らしていた俺は音楽が好きでハードロックからクラシックまで幅広いジャンルのCDを集めていた。

 奥さんは幼い頃から本の虫だったらしく今でも欠かさず週に一度古本屋に行っては一冊百円ほどの文庫を抱えきれないほどたんまりと買い込んでくる。

 二人はこの部屋に引っ越してきてまずCDと文庫本を解き放った。


 しかし俺は今、六畳の部屋の隅でそのCDの群れをダンボールに詰め込んでいる。

 その中からなんとなく選んだメンデルスゾーンを聞きながら。

 熱く重厚なメロディとヴァイオリン特有の細く切ない響きがもたらす計算ずくのアンマッチがあまりに耳に心地よくて思わず目を閉じ身体を揺らして陶酔してしまう。

 隣の四畳半で文庫本を仕舞っている奥さんにこの良さがわかるだろうか。


 彼女の作業はさっきから一向にはかどっていない。

 覗き見ると本棚からダンボールまでのほんの一メートルの移動の間に文庫本の表紙が彼女の心を捉えて離さないようだ。

 どうしても一冊手にするごとにパラパラとページを繰らないと気がすまないらしい。

 ポテトチップスをそばに置いたらもうお終いだ。

 今日中にある程度荷物の梱包を終わらせてしまい明日は朝からレンタルのトラックに積み込む予定なのだが、その梱包は大方俺の仕事になるだろう。

 まだまだ整理すべき荷物が部屋中に山ほどあるのを見て俺はため息をついた。

 しかし奥さんを責めることは出来ない。

 彼女の気持ちは良く分かる。

 俺もジャケットの写真に懐かしさを掻き立てられてCDの整理が全くはかどっていないのだ。

 ああ、このCDは俺たち夫婦がまだ付き合いだす前に俺が奥さんに貸してあげたものだ。

 不意に当時の互いに互いの好意に気付きつつも決定的な一言が言い出せずじまいの咽喉が痒くなるようなもどかしさや付き合い初めの頃に特有の全身が火照るような高揚感が胸に蘇ってきて俺は矢も盾もたまらず隣の部屋の奥さんに這いよりその背中に抱きついてしまった。

 そのまま後ろに引き倒す。

 なすがままの彼女の着ているものを一枚一枚はがしながら俺は考えた。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ついこの間、荷物を全てダンボールから出して並べつくしたところだったのに。

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