第13話 黒妖犬の毛皮

「無理無理無理無理無ー理ー!」

「無理じゃねえって」


 木にしがみつき離れようとしないナイに、アレフはどうしたものかと考えた。


「無理よ……この森から出るなんてホント無理……」

「ちょっと麻を取ってくるだけだろ? ギィ一人じゃ大した量は取ってこれないだろうしさ」


 ナイは生まれてから、この小さな森を出たことが殆どないらしい。それゆえか森を出ることを極度に嫌がり、ギィに同行することを全力で拒否していた。


「無理よ! この森から出たら死んじゃう!」

「そう簡単には死なねえって。お前は弓も上手いし、魔法だって使えるじゃないか」


 アレフは対処できたが、実際ナイの弓の腕は大したものだった。彼女は気配にも敏感で鼻も耳もいいから、いくら危険なダンジョンの中と言ってもそうそう遅れを取ることはないだろう。彼女よりも弱いヘレヴやギィさえ今まで生きてきたのだ。ナイにそれが不可能とは思えない。


「わ、私の魔法はこの森の中じゃないと大したことは出来ないの! じゃあせめてアレフがついてきてよー!」

「俺は獣を狩りに行くから無理だって」

「そんなの順番にしたらいいじゃないのよー!」


 恥も外聞もなくわめく彼女に、アレフは腕を組んで唸る。確かに絶対に二手に分かれなければならないほど状況が切迫しているわけではない。が、だからこそこの機会に彼女をダンジョンの中で行動させておきたかったのだ。


「ぎ……」


 すっ、とギィがアレフを制するように腕を伸ばし、ナイを正面から見つめる。


「ぎぃっ!」

「無理────!」


 そして自分に任せておけとばかりに胸を叩く小鬼ゴブリンに、森妖精エルフの少女は叫んだ。


「ぎぃぃっ……」

「のう、ナイ。森を出るのはどうしても無理かの?」


 不満げに顔をしかめるギィにかわり、ヘレヴが語りかける。


「無理! 無理よ!」

「……なら、仕方ないの」


 鉱精ドワーフの少女はカチンと火打金を鳴らすと、焚き付けもなしにいとも簡単に太い枝に火を付けてみせる。これは鉱精ドワーフの魔法か、とアレフは目を見張った。


「森の方を無くすしかないの」

「ぎゃーーーーーーーーーー!」


 みるみるうちに炎に包まれていく木に、ナイは叫び声を上げる。


「……ヘレヴのやつ、大人しそうに見えて結構エグい手を使うんだな……」

「ぎぃ……」


 炎を必死で消そうと無駄な努力を続けるナイを見ながらぼそりと呟くアレフに、ギィは重々しく頷いて同意を示すのであった。






「待って、ちょっと、待ってっ……!」


 森を人質に脅しをかけられ渋々森を出たナイは、まるで生まれたての子鹿のように震え壁に縋り付きながらギィを追いかけていた。


 武器一つ持たないひ弱な種族であるはずの小鬼ゴブリンは、自分の庭だとでも言わんばかりに軽快にダンジョンの通路を駆けていく。


「はっ、早っ、すぎっ、るっ……て、ばぁ……っ」

「ぎーぃ」


 対して高い叡智と優れた身体能力を持ち合わせる森妖精エルフは、恐る恐る足元を確かめながらの亀の歩みだ。


「ぎぎっぎーぎぎ、ぎぎぎぎーぃ?」

「何言ってるのかわかんないけど、馬鹿にされてる気がする……」


 腰に手を当て呆れたような表情で何事か口にするギィに、ナイはぎりりと歯噛みした。


「大したことができるわけでもないくせに……!」


 木で家を作ったときだって、ギィはアレフに褒められ偉そうにしていたが、実際に作ったのは殆どヘレヴとナイだ。木材の加工をナイが行い、それをヘレヴが組み立てる。ギィがやったことと言えば木材の端をちょっと支えたり、押さえたりするくらいのもの。


 それだって、あの小さな体でやったことがどれほどの役に立ったかと言えば、別にいてもいなくても大差はない程度のことだろう。


 今だって、もし敵に遭遇すればナイが弓でなんとかするしかないのだ。改めてそう思い出して、ナイは覚悟を決めた。


 彼女は矢を一本引き抜き、ギィの足元に向かって放つ。


「ぎっ!?」

「止まりなさい、ギィ」


 何をするんだと言わんばかりに睨みつけてくるギィに、ナイは毅然として言った。


「敵よ」


 森妖精エルフの敏感な耳は、その足音をはっきりと聞きつけていた。


「ぎっぎぃ!?」


 通路の角からのそりと現れた獣を目にして、ギィは慌ててナイの背後へと隠れる。


「ぐるるる……」


 唸り声をあげるそれは、狼のような姿をした獣だった。しかし狼よりも倍は大きく、毛並みはまるで闇のように黒い。


黒妖犬ヘルハウンド……!」


 それは犬という名前で呼ばれつつも、狼よりも遥かに危険な猛獣だった。


「フッ……!」


 ナイの弓から、立て続けに三本の矢が放たれる。神速ともいえる速射に、黒妖犬ヘルハウンドは避けることもできずにそれを受けた。


 否。避ける必要さえなかった。ナイの作った矢には、金属製の矢尻がない。木の枝の先端を鋭く尖らせただけのものだ。それでも異なる種類の木材を張り合わせた強弓で放てば、並の獣の毛皮は楽に貫ける。


 だが、残念ながら黒妖犬ヘルハウンドは並の獣ではなかった。


「逃げるわよっ!」


 ナイはギィの腕を引きながら、慌てて反転する。普通の狼より巨大な分、動きは鈍いはずだ。エルフの足なら逃げ切れる──


 その期待は、たった一歩で距離を詰めてきた黒妖犬ヘルハウンドによって裏切られた。鋭い爪を備えた太い腕が、ナイの細い首を捉える。


 その寸前、彼女は跳躍してくるりと身体を上下回転させ、その一撃をかわす。そして同時に三本の矢を放った。


「ぐおぉぉう!」


 両目と口中を狙ったその矢は、一射は牙に当たり、もう一射は腕で防がれる。ただ一射だけが黒妖犬ヘルハウンドの左目に突き刺さるが、それはかえって怒らせるだけだった。


「嫌になるわね、まったく!」


 空中でもう半回転して着地しつつ、更に追撃の矢を放つ。だがそれはぶんと頭を振って防がれた。その隙にナイは背を向けて走り出す。


 すぐさま追いかけようとする黒妖犬ヘルハウンドに向けて、ナイは弓を逆に持ち背後も見ずに脇の下を通して矢を放った。ダメージを与えることはできないが、片目に受けた傷を警戒して黒妖犬ヘルハウンドの足が鈍る。


 このまま牽制の射撃を繰り返していけば逃げ切れる。


 ナイがそう思った瞬間、熱と光とが背後から迫ってきた。


「ぐぅっ……!」


 背を焼かれる感覚に、ナイは地面を転がりそれをかわす。黒妖犬ヘルハウンドはその口から炎をくゆらせ、彼女を見下ろしていた。


 黒妖犬ヘルハウンドは、炎を吐くのだ。ただし無限に吐けるわけでもなければ、体力も消耗するのだろう。今まで温存していたそれを使ったということは、ナイを本気で殺す気になったということだった。


「あ……う……」


 恐怖に怯えつつも、身体に叩き込まれた訓練がナイに弓を構えさせる。


「ぎぃっ!」


 その時、信じられないことがおきた。ギィが、その弓を叩き落としたのだ。突然の暴挙になすすべなく、弓は乾いた音を立てて地面に転がる。


 そのままギィは弓を拾い上げると、ナイを置いて逃げ出した。


「嘘、でしょ──」


 私を、囮にした。


 ナイの心が、絶望に染まる。弓もなく、地面に転がった体勢で、黒妖犬ヘルハウンドは目の前。


 死を覚悟したその時、突然黒妖犬ヘルハウンドはナイを置いてギィを追い掛けだした。


「……え?」


 頭に浮かんだのは、狼の習性。動かないものより、背を向けて逃げ出すものを優先して追いかけるというものだ。黒妖犬ヘルハウンドも狼と同様の習性を持っていたとしたら。そして、ギィがそれを知っていたとしたら……


 それを裏付けるように、ギィが細かく動いて黒妖犬ヘルハウンドの攻撃をかわしながら、ナイの方に視線を送る。それは助けを求めるようなものではなく、早く逃げろとでも言わんばかりの強い視線だった。


 囮になったのは、ギィの方だ。


「ギィ……!」


 壁際に追い詰められ、地面に転がるギィ。逃げ出すこともできずにナイは彼女の名を呼んだ。黒妖犬ヘルハウンドの巨大な身体が、小鬼ゴブリンの少女の小さな体に覆いかぶさるようにして飛びかかり……


 ギィは、地面を思い切り拳で叩いた。


 その瞬間、壁から飛び出した無数の槍が、黒妖犬ヘルハウンドを貫く。それは地面に転がるギィのほんの少し上を通って、対面の壁に黒妖犬ヘルハウンドを張り付けにしていた。


「……え……?」


 迷宮の罠だ、とナイが気づいたのは、その槍がゆるゆると壁の中に戻り、黒妖犬ヘルハウンドの死体がどさりと地面に落ちたときのことだった。


「ぎっぎぎー」


 ギィはまるで何でもなかったかのように起き上がると、どうだと言わんばかりの表情でナイに向かって弓を手渡す。


「あ……ありがと」


 小鬼ゴブリンは小さく、弱い。それは間違いのない事実だ。けれどこの迷宮において、小さく弱いだけの生き物は暮らしていけない。彼女が今まで生き延びてきたのには、それだけの理由がある。それを、ナイはまざまざと思い知らされた。


「あれ、お前らこんなところでなにやってんだ?」


 その時、通路の角からぬうと姿を現したのは、アレフだった。


「ぎ、ぎぎぃ!」


 ギィが胸を張って、自分が仕留めた黒妖犬ヘルハウンドを指差す。


「ああ、なんだ」


 アレフは背中に担いだ三頭の黒妖犬ヘルハウンドをどさりとおろして、それと纏めて拾い上げた。


「逃した一匹、ここにいたのか」


 小さく弱いものが生き延びていくには理由がある。


 ──だが、大きく強いものが生き延びていくには理由などないのだと、ナイとギィは唖然とした表情で思い知るのだった。

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