Nの子供たち
阿井上夫
序章
二〇一〇年 夏
「さあ、みんな一気に飲んで!」
白衣を着た係員が明るい声を張り上げる。
参加者全員が慌てたように手元の紙コップを勢いよく傾けた。中の液体が全員の喉を滑り下りてゆく。
その様子をにこやかに笑って見守りながら、係員は次のように考えていた。
(大変素晴らしい。家畜よりも従順で結構だ)
青いポリバケツに紙コップを回収しながら、全員が残さず飲んだことをさりげなく最終確認する。
そして、それが終わると係員は紙コップの飲料が置かれていたスチール机を、速やかに壁際に移動した。これは、参加者が机にぶつかって怪我をしないようにするための措置だ。
気が付いた何人かが訝しげな顔をしていたが、それも短い間のことだった。
きっかり三十秒経過後、「選ばれし十名」である彼らの身体が、弾ける。
全員が、立っていることすら出来ないほどの両足の縺れに見舞われ、そのまま倒れ込むと、クッションの上にビニールシートを重ねた床の上で激しく転げ回った。
参加者の口からは、言葉にならない叫びや喘ぎが洩れ出す。
彼らの身体が跳ね上がる度に、涙や汗、唾液などの体液が飛び散った。中には排泄物すら撒き散らし始めた者がいたが、暫くすれば全員そうなるだろう。
そして、次第に彼らの白い清潔な服が斑に染め上げられていくのだ。
既に、体液と汚物の言い難い臭いが混じりあって、部屋の中に充満しているに違いない。室内の空気の濃度差が目に見えるようだ。
激しい動きに服がついていけず、下着まで脱げかかっている者もいた。
さっきまで青白かった女の肌が、赤みを帯びて糞尿に塗れていった。
私はマジックミラー越しの別室から、その狂乱の宴を眺めていた。
(夢のようだ。いや、夢に見た通りだ)
私は嘗てないほど興奮していた。
喉が渇き、しきりに唾を飲み込まなくてはならない。こめかみがずんずんと脈打ち、下腹部が痛いほどに強張って布地を押し上げた。しかし、これは決して劣情によるものではない。歓喜の極みによるものである。
その一瞬一瞬を、複数台のデジタルビデオカメラが撮影していた。異なる角度から冷たい光を放ちながら、最高画質で記録し続けているはずだ。
(これは――素晴らしい儀式だ。嘗てない通過儀礼だ)
通過儀礼であるから、彼ら自身にも後程この様子をじっくりと見て貰うことになる。
そして、再生される『自分の醜態』を、事実としてそのまま受け入れて貰わなければならない。この辛くて醜い現実を受け入れるからこそ、彼らは従順に命令に従う『戦士』として、再生することになるのだ。
彼らが警戒を解くまで、我々は何度でも同じシチュエーションを繰り返すつもりだった。
「脳の活性化を促して、集中力を各段に高めるための飲み物です」
白衣を着た係員が、最初ににこやかに説明する。
この白衣という小道具は偉大だ。実際には何の専門知識も持たない、見栄えと声質だけで選んだ中年男性が、企業の極秘プロジェクトを統括する優秀な主任研究員に見えてくる。
「また、効果を高めるために拘束の緩い服に着替える必要があります」
実際には、汚れることが分かっているので私服を脱がせたかっただけである。自宅に帰った後で不審に思われる可能性があるからだ。
参加者からの質問があれば、それに真摯に答える。そのために、想定される質問への模範回答も、事前に準備していた。
そして、参加者が「嫌」と言えば決して強制はしなかった。やらなくても構わない、と物分りよく引き下がることにしていた。
そして、今回が三回目である。
参加者十人のうち、最初の一回目を拒否したのは三人。いずれも着替えを躊躇った女性である。二回目でも躊躇ったのが、そのうちの一人。流石に一人だけ拒否し続けることが辛くなったのだろう。
今回やっと全員が承知した。そして、誰しも三回目にもなると何の疑問も感じなくなる。
やっと特別製ジュースの出番だ。前回までのものと色が若干違うが、そのような微妙な差を認識できる者はいないだろう。
飲んでも命に別状はない。しかし、素敵な感じに狂わせてくれる魔法の液体である。
運動神経伝達物質のアセチルコリンが大量分泌されて、受容体が大混乱に陥る。その結果、身体全体が脳の指揮下から離脱し、括約筋の抑制も外れる。その状態が約五分間続くのだ。
それ以上継続させることも濃度次第で可能だったが、さすがに肉体の限界を超えることになる。五分の狂乱は、フルマラソン完走に勝る。精神的にも二十四時間の連続試験を上回る。
さて、この狂乱が過ぎ去った後はどうするのか。
今度は彼らの虚脱した身体と混乱した精神に、己の醜態を見せつけながら時間をかけて「新しい概念」を流し込む。そうすることによって自尊心を肥大させてきた彼らは、目の前にある、
(体液を撒き散らし、汚物に塗れて転げ回る、矮小で下劣な自分)
を否定し、捨て去って、
(高邁な精神に殉じ、全て捧げる覚悟のある、気高く高邁な自分)
という概念を受け入れることになる。
これは始まりだ。新しい彼らの誕生だ。
(私は彼らの新しい生みの親となるのだ)
喉の奥から歓喜が競り上がってくる。
私はここ十数年で最高の笑みを浮かべた。
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