74
僕は電車を乗り継いで、人気のない駅からわざわざタクシーを呼んであの館にもどった。
相変わらず怪しい雰囲気を漂わせている。横長の二階建ての館。洋館。外壁は人の血管のようなヒビが入っている。庭は気がついたら草が激しく茂っていて、暑苦しい。放置しすぎたようだ。僕は鍵穴に鍵を入れて館に入る。
ロビーの中央には傘頭の幻がいた。無視。僕は自室に向かう。
「おもしろい小説は書けそうかい?」
声がした。
振り向くと、……僕の姿をした幻がいた。
ド、ドッペルゲンガー?
い、いや、違うのか。
「念のために言っておくけど、ドッペルゲンガーじゃないよ」
「そ、そう……」
本人から保証をもらう。
いや、確証ではないが。
だが、この館の性質を考えるとあながち嘘でもないだろう。吸血鬼ばかり出てきたとこに、隠し球としてフランケンシュタインの怪物を出されても困る。そこまで唐突もない館なら、僕は成す術はない。
多分、この館はそうじゃないと信じる。彼はドッペルゲンガーじゃない。
彼は嘘つき村のオオカミじゃない。オーケー、分かった。
ともかく、僕は部屋へ向かう。彼は僕のあとをついてくる。
「ねえ、東京に行ったんだよね。ビジネスホテルに缶詰でもしてたの?」
「………」
してた。
だが、それをわざわざ言う必要はないだろう。
無視する。
「きみは相変わらず馬鹿だよね。缶詰になるなら県内でいくらでもあるだろうに。わざわざ東京に行くなんて。それほど、この館がこわかったの?」
「………」
「違うか。小説家がこわかったんだね。……睨まないでよ」
睨むさ。
土足で僕の心に踏み込むな。
何がタチ悪いって、彼の言う通り僕は小説家をこわがってたことだ。
「きみは、これまでみんなが好みそうなカタチで描いてきたんじゃないかな。丁度良いプレート。看板。きみはそれを見つけ、あとは技術やら何やらで書いてきた。きみはそういう人だよね。案外、文系ぶってるくせに論理的なんだ。いや、合理的かな。合理的すぎて吐き気がするよ」
僕の顔をした僕は、徹底的に僕を責め立てる。
「何故、お前は僕を」罵倒する、とでも言いたかったのだろうか。だが、僕はそれにやれやれと両手を振るう。
「この程度でごめんなさい、許して下さいかい? きみはどれだけ温室暮らしをしていたんだ。こんなの、創作者にとっては挨拶みたいなもんじゃないかな。何だ、今の時代は小説家もゆとり教育が流行っているのか」
「偉そうなこと言っておいて、それか。きみが僕の幻だったら同世代じゃないか。前世期の奴が偉そうにクチ出しそうなことをお前が言うな」
僕は部屋に着いた。
机に座り、ノートパソコンを出して執筆をはじめた。
「………」
思い浮かぶはずなんだ。
『騒音の怪物』。
僕が描かなきゃいけない、騒音の……。
「きみは、これまで自分の物語を書いてきたのかい?」
そばで、僕の声をした幻の声が聞こえた。
雷がひき裂かれるような耳障り。耳の奥の鼓膜が悲鳴を上げ、嘔吐しそうになる。
それは真実。
真実だからだ。
何故だ。
何故よりにもよって、こんな奴が現れた。
一番。
一番僕が無視できないものじゃないか。
「人は誰もが幻を見る。幻を見ない生物は人間以外だ。人間は幻を見る生物だ。それは脳がこんなデタラメで複雑な構造をしてるからといえる。人は意識がかすかにでも恐怖を感じれば、暗い夜中、遠くの道にあるビニール袋を幽霊と見間違うような生き物だよ。かすかにでも、(もしかして、あれかも)と思えば人は幻を作ってしまうんだ。そう、妖怪はこれらの現象によって生み出される。だから、本当の人の想像を超えた妖怪というのは出てこないだろ? あれなら、微生物や細菌、深海にいる生物の方が常軌を逸してるよ。人が想像出来る妖怪よりも妖怪だね。所詮は妖怪は人の手による夢幻。人工物だ。だが、人は人工物の中でしか生きられない。自然の中じゃあまりにも脆弱で愚かで無垢だ。だからこそ、人工物が必要だ」
だから、と彼は言った。
「家が必要だった。家は最も小さな人が作り出した人工物だと思わないかい。人と人が、赤の他人といってもいい。血がつながってるなんて、あんなのは幻だ。生き物としては別個体のもの同士でしかない。そう、幻なんだよ。幻。それなのに、人は幻を現実だと思いたくなる。思ってしまう憐れな生き物だ」
「お前は……そんなこと考えてたのか」
僕の姿をした幻に言ってしまう。
僕自身、こんなことを考えていたのだろうか。
いや、この館が生み出す幻というのがどういう理屈で生まれるか。そもそも、僕や鈴野、傘頭、有田、道川のように彼ら本人から排出されたものかも定かではないが――しかし、この言葉は水を飲むようにすんなりと僕の頭の中に入ってきた。仏教の真理のように闇を照らす爽快さがあるのに、難しくなく、本当に水を飲むようだった。ごくり、と頭の中で音がした気がする。
「人は何から幻を生み出す。手? 足? 腕? 頭?」
ちがうよ、と彼は言った。
「言葉だ」
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