72 七月二十三日

 七月二十三日。

 この日から、僕はある小説を書くことにした。

『僕は2000年を振り返ろうと思う』僕が生まれた年でもあり、僕が死んだ年でもある。いや、比喩の一つだ。そう、僕という人格はあそこで形成されたのだ。

 それは、ある女性からはじまる。

 名前を、野上冴子(のがみさえこ)という。

 とても知的で冷血さを身に纏う女性だ。いや、当時は少女か。今はどうなってるのだろう。あれから、日本の文学界は狭いということを知り、今か今かと待ち続けているんだけど、一向に彼女は現れない。文壇デビューをしてこない。あれから、ずっと彼女とは音信不通なんだけど。会うことはなかったのだが。

 ……今は、どうしてるのだろうか。

 あれほど異常だった彼女は。

 一体。

「………」

 館で執筆していた。

 リビングで書くのが何か耐えられなくなり、館のロビーで書くことにした。

 外は猛暑だというのに、館の中は妙に涼しい。

 いや、寒いのかもしれない。次元が違うのか。ここだけは湿気に包まれた冷たさというものが存在する。本格的に幽霊屋敷というか。このまま住んでて大丈夫なのかと危惧するほどだ。いや、あの叔父の所有物だったんだ。それくらいあってもおかしくないか。

「ははっ」

 ふと、何でもないとこに苦笑する。

 叔父の日記。道川盛行からもらった日記は、あれからあと数ページあるだけだった。叔父は小説には熱心だが、それ以外はどうでもいいって人だ。日記は小説じゃない。小説に使おうとすら思っていない。

 だから、日記に関してだけいうなら筆が乗らなくなったのだ。外に出るのが億劫な出不精のように、彼の筆は日記の世界に行こうとしなかった。歩こうとしなかった。

「………」

 あれだけ小説の世界に浸って、何冊も書いて。

 それで、平気なのだろうか。叔父は。平気だったのだろうか。

 僕は夏休みの補習のようにだだっ広い館のロビーで、机を置き、ノートパソコンを置いて小説を書いていた。

 傘弾の幻が見てくる。

 鈴野の幻がたまに通る。裸だ。

 有田の幻は一回だけ見た。まだ、どこかをさまよってた。

 そして、道川は今目の前にいる。

「どんどん浸食されてるな、おぬし」

「うるさいよ」

 彼はもはや、道川という原型を保っていない。

 カタチすら曖昧な闇――闇が、僕に話しかけて来た。

「お前、道川の幻じゃなかったのか?」

「そもそも、名乗ってすらおらんが。――いや、別に幻じゃないわけでもない」

「どっちだよ」

「幻だよ。でもな、こんなカタチになるのも幻は当たり前なんだ」

 だって、幻だから。

 彼は愉快そうに笑った。

「………」

 僕はひどく苛つく。

 寒さで頭がやられたのか。夏だというのに。寒いと言っても、上着を着るほどじゃない。少なくてもえエアコンよりかは環境に優しい。



   騒音の怪物

                      紫 剣吾


 俺は、あるとき目が覚めるとびっしょりを汗をかいていた。カーテン越しにかすかな日差し、薄暗い室内をかすかに照らす。俺は水槽から浮き上がるように起きて、汗をぬぐった。あまりにも濡れているので気持ち悪くなり、俺はシャワーを浴びる。シャワーは気持ちよく、朝だというのにこのまま溶けてなくなりたくなる。俺は……





 筆を止めた。

 違う、こうじゃない。

 何か、何かが違う――こんなの、僕じゃない。僕じゃないものが僕の小説を書いても意味がない。違う。何か違うんだ。

 僕は頭をかかえて、いくつもミント味のガムをクチに入れて地獄を味わう。

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